「昔、此処鈴鹿の関成。故に関と言う」

この地は古代に「伊勢鈴鹿の関」があった事から、「関」と呼ばれる
ようになった。
伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発(あらち)は、「律令三関」の一
つとして重要な位置づけにあった。
後の世には、愛発が廃止になり、近江の逢坂が加わっている。

古くは「日本書紀」にも登場する古関も、110年余り続いたものの廃
止され、その建物も郡役所に移築されると、何時しか関跡の存在は忘れ
去られ、その所在の場所さえ定かでは無くなった。
関所の存在は間違い無いが、場所となると位置が度々変えられている。

一説には今の関西本線の関駅辺りとも、宿場の出口近くの城山に有っ
たとも言われているが、今日の研究でも一カ所に特定することは出来な
いと言われていた。
ところが平成18(2006)年に入り、旧街道「新所」の観音院西側の公
園道を北に上った観音山南側の地から奈良時代の瓦が大量に見つかった。

周辺では、高さ1m、幅5m程の土塁状の痕跡が確認され、奈良時代
に作られた関跡ではと言われ、今でも発掘調査が続いている。
ここが関所跡なら、嘗ての街道はこれより北にずれたところを通って
いた、或は街道が鍵の手におおきく曲がっていたことになる。
今では、地図によっては、その観音山公園の南端辺りに「鈴鹿の関跡」の
マークを付けているのも見られる。

その後亀山市は、令和元年度までに9回にわたる発掘調査等を行った
ところ、新たに観音山南西部から南方へ続く築地塀の痕跡が確認された。
このことから、それまでの調査結果に基づき、文化庁へ国の史跡指定
に向けた申請を行い、令和3年3月26日に国の史跡に指定され、ほぼ当
地が比定されることとなった。(続)


