
集落とも言えぬ程に人家の乏しい筆捨を後に、弁天橋を渡るとまた二
三の民家があり、その先で国道を外れ右の旧道に入り込む。
その分岐点の左側、道路向こう側の土手上に「市瀬一里塚跡」の石柱が
建っていた。

江戸日本橋から数えて107里目の塚で、嘗ては榎が植えられていたと
言うが、今は何も無く石碑だけが段上に立てられている。
向こう側に行きたいいところだが、可成りの高速で車が行き交うこの国
道を横断するのは流石に恐ろしい。
国道は信号も横断歩道も無い道が続いていて、車が快走している。

旧道に入ると、そこには車の喧噪とは全く無縁の世界が広がっていた。
行く手は鈴鹿山脈が塞ぎ、東には筆捨山が、西の山は何という名なのか、
山塊の切り立った崖が国道の直ぐ脇まで迫っている。
鈴鹿川が流れ下り、町並が沿うように続いている。
嘗ては山越えの意味がある「おこし」と呼ばれた沓掛の集落は、坂下宿
の助郷村である。

集落の中を狭い道幅の旧道が伸び、両側には落ち着いた切妻造り平入
りの家並みが続いている。軒が低く正面に格子が残された平屋、伊勢地
方の特徴である幕板を巡らせた中二階建ての町屋、焼き板張りの土蔵等、
年代を感じさせる建物を随所で見ることが出来る。

集落の中程に沓掛公民館がある。その奥に真宗大谷派の超泉寺が建っ
ている。更に行くと郵便局が、その先には右手奥の一段と高いところに
庚申堂も有り、ごく普通の山里の様相だ。
街道は川の流れには逆らうように、やや登り気味の道に成ってきた。

殆ど人にも、車にも出会うことも無く集落を抜けると、その辺りでは
その坂も心なし勾配を増しながら次の坂下宿に向けて延びている。
正面に居座る鈴鹿の山並みも、より鮮明に見えてきた。(続)

