この三条大橋は、東海道の起終点、京への出入口だけに、周辺には
様々なエピソードが残されていた。
東詰北側の川縁には襷をモチーフにした「駅伝の碑」が立っていて
日本で最初の駅伝競走が、ここからスタートしたことを伝えている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/f8/f323ae2f6a0d4c2dc6c3e84793f1a7e1.jpg)
大正6(1917)年4月27日から3日間に渡り開催された、奠都(て
んと)五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」である。
京都・三条大橋をスタートし、ゴールは東京上野不忍池の博覧会正面
玄関であった。この間508kmを,23区間に分けリレー形式で昼夜を分
かたず走り抜けたという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/ab/d1acf912b040bea52a1f2d46b1880a8a.jpg)
レースは関東組と関西組の2チームによって争われた。
結果は関東組の勝利で終わったが、ゴールテープを切ったアンカーは、
NHK大河ドラマ『いだてん』の主人公にもなり、この駅伝の発案者で、
「日本マラソンの父」と言われた金栗四三であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/f6/af1924a33a274e97a09d6796ebc4b565.jpg)
道路を隔てた反対側には、「高山彦九郎」の大きな像が見える。
地元ではこの像を、俗に土下座像とも呼んでいるらしい。
しかしこれは、土下座ではなく御所に向かって望拝する姿を現している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/a1/d74179aa804f2ea81c4a0cedd6da8a5a.jpg)
群馬県出身の彦九郎は、江戸時代後期の思想家で、尊王運動の先駆者
で、幕末の勤皇の志士達に多大な影響を与えた人物と言われている。
諸国を巡り歩き、数回上洛したが、京都に出入りする折には、このよう
に京都御所に向かって礼拝したという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/57/af5249498f14740ac9c2a73f75e91700.jpg)
銅像が初めて立てられたのは昭和3(1928)年に昭和天皇のご大典
(即位の大礼)を記念しての事で台座の文字は東郷平八郎が揮毫した。
その後戦時中の金属回収令による供出で一時姿を消したという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/91/b6d8e7c0db144204a301832f5e618bec.jpg)
代わりに、徳富蘇峰の揮毫により「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」と
書かれた石碑が立てられたという。
戦後に成り、昭和36(1961)年に再建されたものが現在の像らしい。(続)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/c5/608a98fcd1340cbecac4921275227ec4.jpg)
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様々なエピソードが残されていた。
東詰北側の川縁には襷をモチーフにした「駅伝の碑」が立っていて
日本で最初の駅伝競走が、ここからスタートしたことを伝えている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/f8/f323ae2f6a0d4c2dc6c3e84793f1a7e1.jpg)
大正6(1917)年4月27日から3日間に渡り開催された、奠都(て
んと)五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」である。
京都・三条大橋をスタートし、ゴールは東京上野不忍池の博覧会正面
玄関であった。この間508kmを,23区間に分けリレー形式で昼夜を分
かたず走り抜けたという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/ab/d1acf912b040bea52a1f2d46b1880a8a.jpg)
レースは関東組と関西組の2チームによって争われた。
結果は関東組の勝利で終わったが、ゴールテープを切ったアンカーは、
NHK大河ドラマ『いだてん』の主人公にもなり、この駅伝の発案者で、
「日本マラソンの父」と言われた金栗四三であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/f6/af1924a33a274e97a09d6796ebc4b565.jpg)
道路を隔てた反対側には、「高山彦九郎」の大きな像が見える。
地元ではこの像を、俗に土下座像とも呼んでいるらしい。
しかしこれは、土下座ではなく御所に向かって望拝する姿を現している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/a1/d74179aa804f2ea81c4a0cedd6da8a5a.jpg)
群馬県出身の彦九郎は、江戸時代後期の思想家で、尊王運動の先駆者
で、幕末の勤皇の志士達に多大な影響を与えた人物と言われている。
諸国を巡り歩き、数回上洛したが、京都に出入りする折には、このよう
に京都御所に向かって礼拝したという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/57/af5249498f14740ac9c2a73f75e91700.jpg)
銅像が初めて立てられたのは昭和3(1928)年に昭和天皇のご大典
(即位の大礼)を記念しての事で台座の文字は東郷平八郎が揮毫した。
その後戦時中の金属回収令による供出で一時姿を消したという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/91/b6d8e7c0db144204a301832f5e618bec.jpg)
代わりに、徳富蘇峰の揮毫により「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」と
書かれた石碑が立てられたという。
戦後に成り、昭和36(1961)年に再建されたものが現在の像らしい。(続)
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