簾 満月「バスの助手席」

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山城国・淀藩(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-10 | Weblog


 京街道や鳥羽街道の結節点でもあり、川湊が開かれた淀の納所は京の
南の玄関口である。古くから軍事的な要衝で、室町時代には既に砦(城)
が築かれていて、重要な場所との位置づけである。
本能寺の変後、山崎の戦いでは一時明智光秀側が砦として使用している。



 秀吉の時代には、宇治川右岸に淀古城が築かれ淀殿(浅井茶々)が入
城している。更に徳川家康・秀忠の時代には、廃藩となった伏見藩に変
わり、山城国・淀藩が立藩され、松平定綱により宇治川と木津川の合流
地に淀新城が造られ、以後永井家、石川家、戸田家、松平家と藩主は代
変わりをしてきた。



 享保年間に稲葉氏が10代目の城主になると以降幕末まで続く事になる。
稲葉氏は石高10.2万石、幕府成立後に取り立てられた城主クラスの譜代
大名で、江戸城での控えの間は「雁之間(かりのま)」である。
 序列としては、上から五番目、下から三番目の中堅処と言った扱いで
はあるが、最後の藩主・正邦は老中職を拝命している。



 宝暦年間には落雷があり焼失で建物の大半を失うが、その後再建され
ることもなかった。
 鳥羽伏見の戦いでは、敗走し領内に逃げ込もうとした幕府軍を拒んで
入れず、幕府とは距離を置く立場を取った。
新淀城は、明治の廃城令により廃城となっている。



 淀城公園は駅の西側にあり、石垣が残されている。
近くには興杼(よど)神社も鎮座し、鳥居が立っている。
 神社は、応和年間に僧の千観内供が、肥前国河上村の興止日女大神
(よどひめおおかみ)を勧請したことに始まり、豊玉姫命、高皇産霊神、
速秋津姫命が祀られている。(続)





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