簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
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橋本の渡し (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-03-05 | Weblog

 僧・行基によって淀川右岸の山崎と、左岸の橋本との間に架けられた
「山崎橋」も洪水で度々流され、ついには元禄年間に架けられた橋が流
れると再架橋されることはなかった。しかしこれでは有名な天王山を控
えた要衝の地としての役割を果たすことが出来ない。



 そこで橋に変わり「橋本の渡し」と呼ばれる渡し舟が通うようになる。
西国街道・山崎宿と東海道間の宿・橋本を連絡する渡しは、二つの幹線
道路の重要な結節の役割を果たす事になった。
山崎側の渡し場は、現在の水無瀬川の河口辺りに有ったらしい。



 天王山と八幡の男山に挟まれた淀川は、山崎狭隘部と呼ばれる川幅が
狭められた地域である。この地形を利用して嘗てこの付近には、山崎の
渡しを始め、木津川と桂川との合流点木津根を渡る「きつねの渡し」、
「広瀬の渡し」と三つの渡船場があったと伝えられている。



 橋本も渡し場としても発展し、人々が集まると、町に遊廓が設けられ、
多くの人々が遊興に訪れ、大いに賑わったという。
 淀川の堤防下中の町の大谷川に架かる栄橋の袂には、「山さき あた
ご わたし場」「柳谷わたし」と刻まれた石碑が立っている。



 又西遊寺の前には、京都の豪商三宅保兵衛の遺志に基づき長男の清次
郎が建立した「橋本渡舟場三丁 山崎停車所 柳谷観音」等と記された
石碑も建てられている。実際の渡し場は、ここから北に100mで左折、
更に100m程行った淀川堤防と言われている。



 最後まで残った橋本の渡しは昭和37(1962)年まで続いた。
因みに、江戸期にはここより上流の淀の宇治川に「淀小橋」、木津川に
「淀大橋」が架けられていた。明治期以降、両川の流路が今の形に付け
替えられ、両橋は無くなったが、後に架けられたのが現在の二つの御幸
橋である。(続)





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