東海道は、鈎里(まがり)集落に入ってきた。
上鈎池の西側土手下の公園に、「九代将軍 足利義尚公 鈎の陣所ゆか
りの地」の大きな自然石の碑が建てられていた。
周囲には、歌人だった義尚の何首かの和歌を刻んだ石碑も並んでいる。
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応仁の乱後、衰退気味の幕府権力を回復させようと、隣国近江で幕府
の所領を横取りしていた六角高頼を討伐するため近江に出陣した。
池の300m程西の永正寺付近(諸説有り)に布陣したが義尚は、この陣
所で25歳の若さで病没した。
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上鈎から葉山川橋を渡り、川辺(かわづら)集落に入ってきた。
葉山川は琵琶湖に注ぐ一級河川で、滋賀県には多い天井川の一つである。
天井川は一度氾濫すると、周辺に唯ならぬ災害をもたらすため、治水対
策で川床の掘り下げ、川幅の拡張等、河川改修工事が行なわれていた。
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その先に、慶安2(1649)年開基の真宗大谷派の善性寺が有った。
文政年間には、オランダの医師シーボルトが、江戸参府の帰途に立寄っ
たとの記録が自著である「江戸参府紀行」残されている。
当寺の僧・恵教が、植物に造詣深いことが広く知られていて、それを
知って訪ねたものらしい。
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当寺では、「スイレン、カエデ、ウド、モクタチバナ」等、当時とし
ては珍しい植物を見学して帰ったそうだ。
植物学者のシーボルトは、日本文化を研究しながら出島に植物園を作り、
約1400種の植物を栽培していたといわれている。
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彼は江戸参府の折、天文方・高橋景保に最新の世界地図を送り、お返
しとして伊能地図を受け取り、帰国する際国外に持ち出そうとした。
当時は、日本地図を国外に出すことは御法度であった。
所謂文政11(1828)年に起きた「シーボルト事件」で、シーボルトを
含む役人・関係者が処罰されている。(続)
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