社債20万円を公募して、開業に到った番町線の当初計画は、この先
「万町」を経由して岡山駅に戻る環状化である。
しかし、軌道敷は「番町」の電停の先で途切れたままの、取敢えずの
先行開業で有った。それでも沿線には、官公庁や学校等も多く立地し、
まずまずの滑り出しのようだ。
しかし路線が短く収益も思うに任せず、加えて資金も集まらず、環状
化の計画は中々進まなかった。
資金難で計画が日の目を見ない内にやがて大きな災厄を迎える事になる。
岡山市街地は、第二次大戦の空襲で殆どが焼き尽くされてしまったのだ。
沿線の架線柱はほぼ全焼した。
天神山地区に立地する各施設も例外ではなく焼け落ちてしまった。
その為戦後になると各施設は、新天地を求め、各々が移転・再建され
ることとなり当地からは去って行き、結果路面電車の需要は激減した。
加えて戦後の市街地復興の一環で、出石地区と旭川の対岸・浜地区とを
結ぶ新たな橋(新鶴見橋)の架橋と道路の建設が計画された。
高度経済成長期のモータリゼーションの波は、容赦なく押し寄せ、邪魔
者扱される路面電車には過酷な試練が訪れることになる。
苦しい赤字経営が続き、いち早く番町線にはワンマン運転が取り入れ
られたのは昭和31(1956)年の事であるが、それでも経営状態は好転
する事は無かったと言う。
長年市民の足として親しまれ戦後の市街地の復興にも活躍した、番町
線の路面電車も、終には昭和43(1968)年5月、半世紀にも満たない
その歴史の幕を閉じることになる。
環状化の夢、全線開通を待たずの終焉である。(続)
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