簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

「いろは」を辿る道しるべ (東海道歩き旅・三河の国)

2022-02-04 | Weblog
 岡崎城下に入り、これから難関な宿場町を抜けることになる。
若宮町の小さな緑地に建つ、「岡崎二十七曲がり」の石碑がスタート地
点となる。
まず手始めに、ここを右折し100m程先の、「岡崎げんき館」を目指す。
その角には、モニュメントを配した小さな緑地がある。



 岡崎城下を抜けるこの道は、昔の旅人は迷うこと無く、無事通り抜け
が出来たであろうか、などと心配になるほど角を幾つも曲がる。
しかし、これは心配無用である。

 当時の城下町筋で賑わいを見せるのは、基本的には店が並んだ表通り
の街道筋だけなので、それを辿れば、裏道に入り込まない限り迷うこと
も無く、城下の通りぬけは出来たようだ。



 但し町並が線から面へと広がり、賑わいが表通りだけとは限らない、
当時とは比べものにならない程、都会となった現在の町中の旧街道を
辿るのはそう簡単ではなさそうだ。
道筋は当時よりも圧倒的に多く複雑で、幾つもの交差点を越えていく。



 手元に地図か、スマフォでも無ければとても歩けそうには無い。
ところが、こんな心配も無用である。
この難解な街道歩きを楽しむ人達向けに、曲がり角には、「いろは」順
の道標が建てられている。



 スタートの「岡崎げんき館」の緑地が、「い」のポイントだ。
この先は、例えば「↑ 650m」と書かれてあれば、次のポイントまで
は矢印の向きに従って、表示された距離を進めば良い。
するとそこに「ろ」のポイントが現れ、その先の進むべき方向と、その
距離が示されている。



 このようにして、「いろは」を辿りながら、城下町を幾度も曲がる解
りにくい街道を行くことになる。

 本当に曲がり角が「27」なのか、実際に幾つの曲がりを重ねるのか、
等と数えるのは野暮というものだ。
ここは解り易い案内標柱を見落とすことなく、忠実に辿り、遊び心を
もって、町歩きを楽しめればそれで良い。(続)





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岡崎の二十七曲がり (東海道歩き旅・三河の国)

2022-02-02 | Weblog


 五間の土橋が架けられていたと言う、筋違橋の東で右の旧道に入ると
立場のあった欠町で、岡崎城下はいよいよ近づいてくる。
家康公の城下入りを前に、この立場にやって来た旅人は、暫し足を留め、
茶をすすり一息ついていたのであろう。



 住宅地の中を暫く道なりに行くと、四叉路の角に冠木門が復元された
緑地がある。
そこには「岡崎二十七曲がり」と書かれた石碑が建っている。
ここが世に知られた、東海道一の曲がりくねった街道、「岡崎二十七曲
がり」のスタート地点である。



 この先の東海道は、岡崎の城下を幾度も折れ曲がり、凡一里の道を行
くことになる。
元々東海道は、岡崎の町中を流れる乙川の南を通り抜けていたと言う。
しかし城は川の北側に建ち、城下の町並もその足元に広がっていたので、
このままでは旅人は、わざわざ川を渡って城下を訪れる事も無く素通り
してしまい、賑わいが失われてしまう。



 そこで岡崎五万七千石の城主となった田中吉政は、城の整備と共に、
矢作川に橋を架け、城下の町割りの整備を進めると同時に街道を外堀
の内側を通るようにした。
社寺さえも整備の為に移転させ、10年掛けての付け替え工事であった。



 道を幾つも曲げる事で城下の防衛を強化すると同時に、広がった町筋
に色々な店舗を並べ、旅人を留まらせ、経済効果をも狙ったのである。
結果、城下の町並を隈無く巡る迷路のような、「二十七曲がりの道」が
出来上がった。
これにより城下は賑わい、「岡崎女郎衆」を目当てに、ここを泊まりと
する旅人も増え、思惑通り町は賑わいを取り戻したという。(続)





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