簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

松毬と焼き蛤(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-02-03 | Weblog


 近鉄の伊勢朝日駅を左に見て、その線路を踏切で渡り東芝三重工場の
前を通り抜ける。少し前に正午を告げる大きなサイレンが聞こえたが、
この工場のものであったようだ。
お昼を摂りに自宅に帰るのか、制服を着た従業員が三々五々、自転車や
徒歩で正門から続々と出て来るところで有った。



 踏切を超えた少し先に、ポケットパークのような小さな公園が整備さ
れていた。東屋があり、石のテーブルと椅子が配置され、旧東海道と書
かれた石碑と、観光案内板が立っている。
丁度この辺りからが小向(おぶけ)立場が有った場所だ。



 ここには名物の「焼き蛤」を売る茶店が建ち並んでいたという。
「名物焼き蛤 東富田 おぶけ(小向)両所の茶店に火鉢を軒端に出し、
松毬(まつかさ)にて蛤を焙り旅客を饗す」と様子が伝えられている。
街道の松並木から落ちた松葉や松笠を集め、蛤を焼く為の燃料として利
用していた。焼くには火力が丁度良く、なにより味が良くなるらしい。



 多少期待を込めてここまで歩いて来たが、今日の街道筋には、茶屋も
食事処も皆無で、当然焼き蛤を食べさす店はない。

 嘗ての郷土料理は今や高級料理で、料亭などでは炭火で炙って提供す
るらしいが、桑名産は取れる時期も限られていて、そうおいそれと庶民
の口には入らない。精々出汁の出たお吸い物が口に出来れば万々歳だ。



 道筋の朝日町に、一本の大きなエノキが立っていた。
説明書きによると、東海道の並木として植えられたもので、推定樹齢は
300年余りだという。一般的に並木は、松や杉が植えられることが多い
ようだが、一里塚なら兎も角、並木のエノキは珍しいようだ。(続)





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町屋橋 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-02-01 | Weblog


 「安永第一公園」から旧道を少し戻り、常夜灯の建つ角を右折100m
ほど歩いて国道1号線に出て右折し、員弁川に架けられた町屋橋を渡る。
この員弁川は鈴鹿山脈・御池岳に源を発し、南東方向に流れながら伊勢
湾に注ぐ延長凡37㎞の二級河川で、この辺りでは町屋川と呼ばれている。



 東海道が整備されると、寛永10(1635)年、ここに橋が架けられた。
「板橋百六拾間、小橋有り」、との記録が残されているらしいので、
凡300m程の橋と中州の向こう側にはそれより短い橋が架けられてい
たようで、この公園が橋の東詰である。



 説明板には、江戸中期の頃の絵が示されていて、それによると当時の
橋の中程には、馬が行き違い出来るような退避部分が設けられていた。
 その橋も今は無く、明治に入り100m程下流に、幅二間(約3.6m)、
長さ百二十間半(約220m)の木橋が架けられている。



 東海道が国道1号線として整備されると、現在の位置にコンクリート
橋が完成し、新たな町屋橋となるのは昭和7(1932)年のことだ。
その後、歩行者用の橋が増設され、現在の鋼桁橋に架け替えられるのは、
凡そ半世紀の後の事である。 
将来的には国道は片側2車線の四車線で計画されているが、橋はその半
分の片側1車線で架けられている。



 橋を渡り町屋橋南図目の交差点を北に、土手道を100m程歩き、ポンプ
場の角を南に曲がり、再び東海道に戻ると縄生(なお)の集落に入り込む。

 この付近の山に長年住みついた三介狐が怪を成し、街道を行き交う旅人
を惑わしたのはこの辺りのことらしい。(続)





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