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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

鈴鹿の関 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-08-07 | Weblog

「昔、此処鈴鹿の関成。故に関と言う」



 この地は古代に「伊勢鈴鹿の関」があった事から、「関」と呼ばれる
ようになった。
伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発(あらち)は、「律令三関」の一
つとして重要な位置づけにあった。
後の世には、愛発が廃止になり、近江の逢坂が加わっている。



 古くは「日本書紀」にも登場する古関も、110年余り続いたものの廃
止され、その建物も郡役所に移築されると、何時しか関跡の存在は忘れ
去られ、その所在の場所さえ定かでは無くなった。
関所の存在は間違い無いが、場所となると位置が度々変えられている。



 一説には今の関西本線の関駅辺りとも、宿場の出口近くの城山に有っ
たとも言われているが、今日の研究でも一カ所に特定することは出来な
いと言われていた。

 ところが平成18(2006)年に入り、旧街道「新所」の観音院西側の公
園道を北に上った観音山南側の地から奈良時代の瓦が大量に見つかった。



 周辺では、高さ1m、幅5m程の土塁状の痕跡が確認され、奈良時代
に作られた関跡ではと言われ、今でも発掘調査が続いている。
 ここが関所跡なら、嘗ての街道はこれより北にずれたところを通って
いた、或は街道が鍵の手におおきく曲がっていたことになる。
今では、地図によっては、その観音山公園の南端辺りに「鈴鹿の関跡」の
マークを付けているのも見られる。



 その後亀山市は、令和元年度までに9回にわたる発掘調査等を行った
ところ、新たに観音山南西部から南方へ続く築地塀の痕跡が確認された。
 このことから、それまでの調査結果に基づき、文化庁へ国の史跡指定
に向けた申請を行い、令和3年3月26日に国の史跡に指定され、ほぼ当
地が比定されることとなった。(続)





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「関の戸」と「志ら玉」(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-08-04 | Weblog

 コロナ禍前に関宿を訪れた時は、昼過ぎと有って町並は観光地然とし、
観光客が溢れ還っていた。流石に今日はそんな人出はまだ見られない。
 日常的な朝の光景なのか、観光らしき姿がチラホラと見えるだけで、
そんな中を時折商用車が忙しく行き交っていた。



 ここ関宿には、昔から知られた銘菓「関の戸」がある。
徳川三代将軍の時代から続く老舗「深川屋」の作る和菓子で、赤小豆の
こし餡を求肥で包み阿波の和三盆でまぶした一口大の餅菓子だ。
江戸時代と変わらぬ配合・製法を引き継いでいると言う。



 あの折、甘党にはこのまま去りがたく気になって店の前をうろついて
いると、どこからともなく醤油の焦げる香ばしい匂いが流れてきた。
匂いに誘われ、気になって先に進むと「前田屋製菓」の店先にその源が
あった。



 屋台では高校生の孫が祖母の手伝いと言って、みたらしを焼いていた。
一言二言言葉を交わし、その香ばしいみたらしと、名物の江戸時代から
続く「志ら玉」も頂いた。
 上新粉で出来た生地に北海道産小豆で作ったこし餡を挟んだ生菓子で、
外側には四季をあしらった三色の彩りが添えられていた。



 あれからもう何年も経っている。
あの孫娘も随分と大きくなったであろう。
訪ねて見たいところだが、店はまだ開いていない。
 街道を西に向かい時間を潰し、頃合いを見計らい引き返してみると、
ようやく10時半近くになって固く閉ざしていた表戸が開いていた。



 早速「志ら玉」を頂き、何年か前の訪いを話すと、孫娘は「おおきく
なりました」との事だった。
 近くにある「深川屋」にも立寄って「関の戸」も頂きたいところだが、
ここで時間を取り過ぎている。(続)





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町屋の趣き(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-08-02 | Weblog


 玉屋、鶴屋、会津屋は関で泊まるなら、ここと言われたほどの大旅籠、
関宿を訪れる旅人のあこがれの宿であった。
玉屋は「関宿旅籠玉屋歴史資料館」として有料で内部が公開されている。
会津屋は関地蔵院の前で、うどんそばの食事処として営業を続けている。



 鶴屋も千鳥破風の残る、間口六間の建物が残されている。
脇本陣を務めていたが、御用の無い折は一般の旅人も泊めていたという。
「関まちなみ資料館」は、江戸末期の頃の伝統的な町屋建築と言い、有
料で内部が公開されている。
関宿では、このように特徴有る町屋の趣を随所で見ることが出来る。



 庇の下に店先を風雨から守る「幕板(まくいた)」が取り付けられた
町屋を見かけることがある。
二階屋窓の手摺や格子にも様々な工夫があり、弁柄初めの蔀、昔ながら
の潜り戸のある表戸、連子格子・出格子の家も多いが、明治以降に付け
られた物も多いと言う。



 町屋は細部の意匠にも拘っていて、漆喰の彫刻や細工瓦などが随所で
見られる。家運長久子孫繁栄を願い、職人が技を凝らして拵えてものだ。
又、商家の屋根には、瓦屋根の付いた立派の看板が掲げられている。
江戸側は「ひらがな」、京側は「漢字」で書かれ、旅人が向かう方向を
間違えないように細やかな心使いがされている。



 店先には商品を並べたり旅人が腰を下ろして休息の場として使われた、
上げ下ろしの出来る「ばったり」がある。
又、玄関の柱などには、牛や馬を繫ぐ環が打ち付けられていて、高い位
置は馬用で、低い位置は牛用と使い分けていたらしい。(続)





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