革命家チャンドラ・ボース―祖国解放に燃えた英雄の生涯 (光人社NF文庫) | |
稲垣 武 | |
潮書房光人新社 |
インド独立の父としては「ガンディー」が有名だが、
ガンディーが非暴力を訴えたのと対象に
武力をもってしても独立を勝ち取るべきと訴えたのが、
スバス・チャンドラ・ボースである。
1897年に西ベンガル州カタック(現在はオリッサ州)に生まれ、
弁護士であった父親に影響を受けて育ちカルカッタ大学で学士号を取得。
1919年に両親の希望でイギリスのケンブリッジ大学の大学院に留学した。
1920年頃からインドの独立運動に参加しはじめ、
翌年ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じた。
ボース自身は非暴力での独立は現実的ではないと考え、
イギリスの武力支配に対抗するには武力をもって独立するしかない、
との信念を抱いており非暴力主義には強く反対していた。
イタリアのファシズムに傾倒し、1926年には、
「ファシズムと共産主義の新たな総合をインドは実現する」べき、
であると主張しイギリスからマークされた。
インド独立―逆光の中のチャンドラ・ボース | |
長崎 暢子 | |
朝日新聞社 |
その後も即時独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍し、
勢力を伸ばし、1938年度の国民会議派議長に推薦された。
ボースはインドを解放できる国はソ連だけだと考えており、
社会主義的思想の点からも親近感を持っていたため、
ソ連に向かおうとしたが入国できなかったため、
1941年ドイツに入国した。
しかし、ドイツやイタリアと同盟を結べなかったため、
日本に協力を求めようと考え、1943年日本に入国した。
日本で活動していたビハーリー・ボースやA.M.ナイルと合流し、
ビハーリー・ボースの後継者としてインド独立連盟総裁と
インド国民軍最高司令官に就任した。
当時の首相であった東條英機は最初は相手にしていなかったが、
次第に人柄に魅せられていった。
1944年ミャンマーで河辺中将に会った事から、
インパール作戦が決行されていくのであった。
1945年終戦後・・・ボースは中国にインド仮政府を置く事を計画し、
台湾より満州国へ向かうが、飛行機が離陸時に事故を起こし死亡。
インドの独立(1947年)を見る事はなかった。
今でもインドの公立の施設や学校には、
ガンディーやネルー(インド初代首相)の写真と共に、
ボースの写真が飾られている所も多い。
インド独立にかけたチャンドラ・ボースの生涯 (1971年) | |
新樹社,アレクサンダー・ヴェルト | |
新樹社 |
インパール作戦とボースの墓については後日、別途記載する。
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