カレーなる日々 / शानदार दिन

インドの日常を中心に日々を綴っています。

マオ・マーケット(コヒマ) その③。

2019年11月30日 21時23分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA

私達は昆虫は食べないのでうわっつと思うけれど、
食べている人達からすれば当たり前の食料である。
同じように肉食をしない人々から見たら、肉食の人々は特異に見えるだろう。

コヒマのマーケットには見慣れない食材がたくさんあった。
これは鰻である。日本の物とは違う赤い色をしている。
まさか蒲焼にはしないから素揚げしてカレーかしら。

この左側のはタニシっぽいんだけど、右のは何かな?
こんなに小さいのはどうやって食べるんだろう?

 

魚の干物。

パッションフルーツみたいな丸い果物の真ん中にある、
笹の葉で包まれた物は納豆と味噌だった。

日本の物と違うけどやっぱり臭い・・・・。
私は納豆は嫌いなので全く興味はなかったけど。

 

そしてこれ。買おうかどうか迷ったんだけど、
こんなに大量にはいらないので買わなかった。

山椒である。インドで初めて見たが香りはまさに山椒だった。

このマーケットはそれほど大きくないのだが、
売られている物は珍しい物ばかりだった。
マニプル州インファールのイマ・マーケットと同じで、
おばちゃんばかりだった。

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マオ・マーケット(コヒマ) その②。

2019年11月29日 22時07分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA

ナガランド州は昆虫食も有名である。
我が故郷新潟県では40年位前は駅のキオスクでも「いなごの佃煮」が売られていた。
いなごは佃煮になっていると佃煮の味しかしないのである。
とげのある脚が口の中に引っかかるので私は脚を取って食べたけど。
ただ一般的に食べていたわけではない。珍味であった。
その他、蜂の子も祖父はフライパンで煎って食べていたのを見た事はある。

では行ってみよう。まずは立派なハチの巣。

続いては・・・芋虫のオンパレード。カブトムシの幼虫みたいなのも。

 

この赤い芋虫が一番高いらしい・・・。高級芋虫。
ちなみに・・・・みんな動いていた・・・。

これ何かな? 昆虫らしいんだけど・・・怖い・・・。

 かえる・・・。逃げないように脚を縛ってある。

ねずみ・・・。ハムスター?モルモット? 食べるらしい。

 

うずら。

へび。乾燥させてある。

地球上の人口が増加して行けば食糧難になる日も近い。
まぁその頃には私は生きていないと思うけど、
その時は昆虫食が当たり前になっているかもしれない。

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マオ・マーケット(コヒマ) その①。

2019年11月28日 21時22分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA

どこでもそうだがマーケット探索は面白い。
ナガランド州は基本的にはノンベジタリアンであり、
ビーフもポークも普通に食べられている。
その他に・・・・犬も食べると聞いていた。
中国や韓国でも食べられているのだが、日本人はちょっと引くな。
それでもその土地の物を食する事は大事である。
ナガランド行きが決まってから、ずっとその事を考えていた。
犬の形を成さない状態で出て来たら解らないし、
食べてから「犬でした。」と言われたら仕方ないな・・・と。

こんな壁画がある所で車を降りて歩いて行くと、まずは肉屋があった。
ポーク1Kg=220Rs(約330円)。値段は組合で決められているらしい。
たくさん買っても安くならないんだから書く必要があるのかな?

 

隣はビーフ。足がぶら下がっている・・・・。

 

そしてその隣がチキンである。デリーで売られている鶏より大きく健康そうである。
水も餌も与えられているしゲージに押し込められてもいない。

魚屋。

これは世界一辛いキングチリである。

ここまでは犬肉はなかった。
前回マニプル州のインファールの肉屋で、
蹄のない指がある脚の肉がぶら下がっているのを見た。
蹄がないので山羊ではない・・・犬だろうと思ったが、
怖くて聞けなかった・・・・。なので免疫はある。

しかし・・・・結論から言うと犬は売られていなかったのであった。
ホッとするやら・・・・ガッカリするやらであった。
犬は食べられてしまうから野良犬がいないと聞いていたが、
デリーよりははるかに少なかったが、野良犬はいた。
ホテルの犬も可愛かったし・・・・食べるのかな・・。

そして雑貨屋の店頭にぶら下がっていたのは、
日本製の紙おむつ(中央の青いパッケージ)である。
ミャンマーとの国境まできていた。

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ナイト・マーケット(コヒマ)

2019年11月27日 21時37分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA

バプテスト教会で音楽祭を鑑賞した後、
やる事もないので街に繰り出す事になった。
ガイドさん曰く歩いて10分ほど・・・と言う事だったけど、
やっぱりインド人の言うは真に受けちゃダメだな。
マニプル人だけど、やっぱりインド人だった。
30分ほど下って行く・・・・時はディワリ(インド新年)。
まぁディワリっていうのはヒンドゥー教のお祭りだから、
キリスト教徒がほとんどのナガランド州においてはヒンドゥー教徒は少数派である。
店先に灯を灯す人はほとんどいなかった。

はい、到着。ナガランド州の州都コヒマの中心部と思われる場所。
暗い・・・・。マニプル州の州都インファールと比べても、
はるかに寂しい。日曜日が休日と言う事もあるのかもしれないが、
それにしても活気はないな。

メイン・ストリートも店舗はほとんど閉まっており、
シャッターを閉めた店舗の前に露店が出ている。
野菜や果物を売る人が多い。

焼き鳥風の串焼き、モモ(小籠包)や焼いたソーセージを売るお姉さんが多かった。
基本的にナガランド州もそうだがノースイーストはノンベジ料理である。
ここでも男たちは働かないようで・・・・
首を刈る戦いにならないと血が騒がない様子。

   

モモは蒸した物が主流。ソーセージは豚の血が入っているそうで黒い。
これを持ち帰って酒のつまみにしようと言う事になった。

 

このソーセージ、ちょっとレバー風の食感で味もパンチがなく、
私は好みではなかったので1キレしか食べなかったのだが、
それが・・・・運が良かったようで・・・。
翌日から他のメンバーはお腹を壊し・・・・
デリーに戻ってからもしばらく回復せず病院のお世話になっていた。
私は1時的にお腹が張ったのだが、すぐに回復してため、
このソーセージが生焼けだったのが原因ではないかと言う話になった。

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バブテスト教会(コヒマ)

2019年11月26日 22時10分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA

ナガランド州はインドでは珍しくキリスト教徒が90%を占めている。
アメリカが布教したらしいがほとんどがプロテスタントの一派であるバプテスト派である。
そして世界で唯一バプテスト教会が主流の州である。
 
ホテルの裏手にあった案内図は錆びていて良く見えなかった。

ガイドさんの案内で登って行くと・・・・バプテスト協会があった。
夕刻は霧が深い。そして寒い。

 

この日は年に一度の音楽祭のようで、
若者達は黒い服(が多かった)を来てそれぞれ合唱をしたり、
楽器の演奏をしたりして楽しそうだった。

 

紛れ込んで鑑賞した。他に娯楽もなさそうだし、
みな年に一度の音楽祭を楽しみにしているのだった。

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【インドの宿泊施設】 ~ホテル・ラズー・プル~(コヒマ) その②。

2019年11月25日 22時11分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA

全7部屋は広さも設備も異なっていた。
私が選んだのは入口の左側にある部屋だった。
暖炉のあるホールからはこのように見える。
天井は左側の窓に向けて傾斜しているが、窓からは明かりが入る。
窓側にテーブルと椅子、入口の左側にも机と椅子があった。

 

気温が低いので小さい窓の方が冷気が部屋に伝わらない。
それから入口(レセプション)に近いと言う事はwifiの電波が強いと言う事である。
奥の部屋では繋がらなかったとの事だった、部屋選びは正解。ちなみに・・・
マニプル州でもナガランド州でも持参したエアテルのwifiは接続できなかった。

 

タオルと石鹸、水1リットル、トイレットパー付。部屋によっては暖炉があったり、
湯沸かしポットとお茶セットがあった。

ウェルカム・ドリンクはストレート・ティだった。
ナガランドではチャイ飲まないのかな?

夕食の前に持参した酒で酒盛り(笑)したらオツマミを出してくれた。
豚肉と筍の煮込みである。これはどこで食べても鉄板級の美味しさだった。
豚肉は脂身が多いんだけど。そういう豚なのね。

食事はブッフェだだった。ダールと豚肉、魚を選択。
基本的にはマサラ(スパイス)のない唐辛子風味のカレー。
ナガライスのキール(ミルク粥)がデザート。

 

朝ごはんはトーストと目玉焼き、フルーツ、ジュース、コーヒーであった。

基本的に周りに食事する所はないのでホテルで食べるしかない。
1泊2食付きで3500Rs位のようだ。
ツアー代金に含まれているので詳細は不明だが予約サイトではこの位だった。
犬が可愛いのでもし次回行くとしてもここに泊まりたい。

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【インドの宿泊施設】 ~ホテル・ラズー・プル~(コヒマ) その①。

2019年11月24日 22時11分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA

コヒマの中のオールド・コヒマと呼ばれるエリアにある、
とてもアットフォームなホテルである。
全7室でそれぞれ個性的な部屋があった。

駐車場から左手にあるアーチをくぐると庭がある。

 

10月下旬だったがいろんな花が咲いていた。
標高は1500mほどである。気温も低かった。 

 

玄関の柱に銃痕が・・・と思ったら、それもそのはず、
このホテルは1944年に建てた築75年の洋館だったのだ。
この地も戦場となっていたのであろうか。

玄関を入るとホールになっており暖炉もあった。冬場は冷え込みそうだ。
そしてナガ族の民族的な飾りが・・・この頭髪のようなものは・・・
まさか・・・まさかの・・・刈った首からとったのもだろうか。

 

そして・・・わんこがいる~。可愛い~。
ちょっとおデブでセーターが食い込んでいる所も可愛い。
太っているせいかよちよち歩き。

 

で、いぢり倒したわけである。得意の犬マッサージ。猫にもやるけど。
喉から始めて首から肩、背中、腰、お尻~と・・・・。
チェックアウトの頃にはすっかり私の虜になっていた。

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英軍のM3中戦車。

2019年11月23日 21時45分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA

第二次世界大戦の時にアメリカで造られた戦車である。
キサマにある戦争博物館からほど近い森林の中に
M3中戦車が放置されている。
日本軍呼称:サル陣地(イギリス軍呼称:クキ哨所)の東山麓で、
道路からは下方の森林の中に見えるので、知らなければ気がつかない。
階段を下りて行く。

イギリス軍仕様の物がグラント(南北戦争時の北軍のグラント将軍から命名)、
アメリカ軍使用のままイギリス軍に渡ったのもがリー(南軍のリー将軍から命名)と呼ばれており、
標識によるとこれはグラント戦車である。

乗員は上部(砲塔部)に3名:車長(指揮官)、
37mm砲手(砲弾を撃つ人)、弾薬手(弾薬を充填する人)
下部(車体部)に4名:操縦手、無線手(前方機銃装弾手兼任)、
75mm砲手、装填手。

特徴としては横に乗車用のハッチがある。
車高が高く見つかりやすかったが、遠くは良く見える。

 

ほとんど無傷で放置されている。錆びもない。山を登ろうとしてひっくり返ったか、
故障して動かなくなって放置されたかであろう。

 

柵が設けられているので放置でなく展示か。
後部のエンジン部分。

まともな対戦車火器を持たない日本軍相手には相当な威力があったそうだ。

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佐藤中将宅(キグウェマ村) その②。

2019年11月22日 21時56分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA

首狩り族の象徴なのか?家に斧を象った飾りがあった。
そして入口には・・・・人間の頭があったらどうしようかと思っていたのだが、
牛の頭だった。この飾りのある家はお金持ちらしい。

 

知らない人は来ないだろうから、当然鍵もかかっていない。
ガイドさんに続いて家の中に入ってみたら、けっこう広い土間があった。
周りに部屋があるのだろうか?伺い知れなかったが、中から子供が出て来た。
日中、大人は仕事に行ってる(ゲームをしている?)ので、
子供が兄弟の子守をしているとの事。

 

これはゴミ箱である。H.NO-4は住所で家番号4番であろう。
日本でも昔よくあった土壁の家が普通である。
ナガランド州はインドでは珍しく90%以上がキリスト教徒である。
街中にもゴミは落ちておらず、教育が行き届いていた。

 

さて、村の真ん中ほどの佐藤中将が3ヶ月住んでいたと言う家があった。

 

周囲の家とはちょっと違う趣がある木造の家である。
花がたくさん飾られている。洗濯物も干してあり生活感がある。
そして玄関には布が下がっているだけだ。
知らない人は来ないから扉も必要ないのである。

 

家は高台にあり見晴らしがよく、裏側は絶壁である。
75年前佐藤中将は何を思っていたのか・・・・。

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佐藤中将宅(キグウェマ村) その①。

2019年11月21日 22時11分59秒 | デリーNCR / DELHI NCR

インファール作戦でコヒマに進軍した佐藤中将が、
3ヶ月ほど滞在していた家が今でも残されている。
と言うか、残っていて普通に人が住んでいる。

キグウェマ村と言う所で通称:佐藤村とも言われていたそうだ。
山道を頂上まで登った集落である。建物には第二次世界大戦中、
1944年4月4日午後3時に日本軍が到着したとの記載があり、
その右側には戦没者供養塔との日本語の記載もあった。

で、中を覗いてみると・・・・そこには・・・・

ゲームに興じる男たちがたくさんいた。
写真を撮っていいかと声をかけ撮らせてもらった。
現在ナガランド州は禁酒州になっているが、
以前はここで酒を飲みながらゲームをやっていたとの事。
戦没者の供養塔で酒を飲んでゲームか・・・・いや、いいんだ。
酒も飲めなかったろうし、ゲームもできなかっただろうから、
十分に楽しませてやって欲しい。
 
周囲を探索してみる・・・・。普通の日常がそこにある。
年に何度かこんな風に日本人がやってくるだけだろう。

 

 

見かけたのは子供達とゲームをする男達。
大人の女性の姿はほとんど見なかったが働きに行っているのかな。
暖かい国に良くあるように男達は仕事をせずブラブラしているので、
女性が働き者のようだ。
男達は戦いになると血が騒ぐが普段は何もしないのだった。

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戦争博物館(キサマ) その②。

2019年11月20日 22時55分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA

この博物館で一番気になったのは、この模型である。
テニスコートの戦いである。これが全体を見渡せる模型。

テニスコートを横から見たところ。左手の下方向から日本軍が登っている

 

テニスコートの上のあるイギリス軍の施設から見たところ。

さて、博物館の反対側の山を見れば・・・・

ハリウッドかと思ったらナガ・ヘリテイジ・ヴィレッジの文字が。
伝統的なナガランドの民族の様子を伝える施設があるらしい。
普段はやっていないようだ。まぁ観光客は毎日は来ないだろう。
毎年12月に行われるホーン・フェスティバルと言う祭典が行われる。
ナガランド州に16ある部族がそれぞれの伝統的な衣装を着て集う。
 
丘に無造作に置かれいたのは機銃の運搬車との事。

 

 

貫通した銃弾の跡も残されていた。

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戦争博物館(キサマ) その①。

2019年11月19日 21時28分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA

ナガランド州の州都コヒマの南10Kmにあるキサマ村にある博物館である。

入場料は10Rs(約16円)、
携帯電話やカメラの撮影は別途50Rs(約80円)。

コヒマとインファールでの戦いについて資料や写真、
模型や当時の兵器や遺品などが展示されている。

 

 

 

まずインファール作戦での概要を博物館に展示してあった写真を使って説明する。
第二次世界大戦のビルマ戦線において1944年3月から7月まで行われた作戦で、
インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であったインファールを攻め、
中国への物資の補給ルートを遮断する事が目的であった。

マニプル州のインファールにあるカングラ・フォートに居住し指揮をとった、
イギリス軍の司令官スリム中将。

 

結果は失敗に終わり参加した兵士の大部分が死亡してしまったため、
史上最悪の作戦と呼ばれている。
その作戦を強行に押し進めた牟田口中将は愚将と呼ばれているが、
確かに当初から無謀な作戦を推し進め結果失敗してしまったので、
そう呼ばれてても仕方ないのかもしれない。
しかし逆に成功していた可能性もあったと思う。

その牟田口中将を支援するためにコヒマへ進軍したのが佐藤中将である。

しかし佐藤中将はコヒマまで進軍したにも関わらず、
物資の補給がないと言う理由で命令に従わず勝手に撤退してしまったのである。
これも結果論であるが撤退せずその先のディマプルへ進軍していれば、
そこにあったイギリス軍の豊富な物資を手に入れ、
インファールで戦う味方に合流していれば作戦が成功していた公算が高い。
現に敵方のスリム中将もそう言っている。

 

この史上最悪の作戦を行ってしまった原因は、
ガンディーと並びインド独立の父と呼ばれている、
ネタジ・スバス・チャンドラ・ボーズにあると私は思う。

ボースが日本に渡り東條英機首相にインドの独立の為の協力を直訴した事で、
ビルマ方面軍司令官の河辺中将の心をも動かした。
それにより無謀と解っていたインファール作戦を行ってしまったと。

マニプル州とナガランド州の地図と進軍したルート。

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コヒマ・ウォー・セメタリー(英国軍兵士墓地) その③。

2019年11月18日 21時55分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA

このコヒマ・ウォー・セメタリーのあるギャリソン・ヒルの戦いは、
日本側の呼称ではコヒマ三叉路高地の戦いと言われている。
丘の下側は今でもこのような三叉路になっている。

ここを登って来たのか・・・・と。

丘の墓地の下側にはこの碑がある。

 

これはこの地で命を落とした兵士だけの言葉ではない。
私たちは戦争を忘れてはならないのだ。
今、私たちがこうやって生きているのは、過去があったからである。
戦争を知らない私たちだけど決して忘れてはならないと思う。

三叉路の右手には「I LOVE KOHIMA」の文字が・・・。

三叉路のボリス・ボックスには婦人警官が立ち武装した軍隊が通りかかる。
そんな日常がある。

 

余談であるが・・・
わが父は昭和2年(1927年)3月の生まれである。
第二次世界大戦の終戦間際1945年3月に18歳となり徴兵され、
終戦までの5ヶ月弱、戦争に行った。
既に敗戦濃厚であったろう時期に18歳の少年兵は戦う術も知らず、
通信兵となったと聞いている。詳しくは聞いていないが、
戦闘には参加していなかったので悲惨さは感じなかった。
父はその軍隊で煙草を覚え、吸わない人の頭髪をバリカンで刈っては、
引き換えに煙草をもらっていたと言っていた。
そして父は死ぬまで煙草を離さなかった。

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コヒマ・ウォー・セメタリー(英国軍兵士墓地) その②。

2019年11月17日 21時40分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA

マニプル州もそうだったのだが、至る所に兵士の姿があった。
ナガランド州でも独立派の過激派がいるため、
いつ何時、武力抗争が起こっても不思議はない。
ちなみにこの囲いの中は井戸である。間違って落ちないために囲ってある。

 

そして周囲には花も咲いていた。なんだか安らぐわぁと思っていたら、
このこんもりと盛り上がった土の中から日本兵の遺体が7体発見されたとの事。

 

マニプル州もナガランド州も戦没者の供養は進んでいない・・・。
こうして普通に歩いている土の下にも・・・・
人々が生活している地面の下にも眠っているのだ・・・。

戦後、マニプル州やナガランド州は分離独立運動による政情不安のため、
インド政府は外国人の立ち入りを規制していた。
それが理由で遺骨収集はあまり進んでいない。
日本軍が撤退して75年が経った今年(2019年)6月、
マニプル州のロトパチン村に日本財団の協力で平和博物館が開館した。
それによって今後、何かの動きがあるかもしれない。期待したい。

 
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コヒマ・ウォー・セメタリー(英国軍兵士墓地) その①。

2019年11月16日 21時54分59秒 | 東北インド / NORTH EAST INDIA

ナガランド州の州都コヒマ。第二次世界大戦のインファール作戦において、
1944年ナガランド州で最大の激戦地となった、
ギャリソン・ヒル(日本側の呼称はイヌ高地)に英国軍兵士墓地がある。


駐車場から見上げたところ。中央に十字架が見える。

全体の見取り図と十字架。

 

登っていくと丘の傾斜にそって整然と墓石がある。

 

インファールの墓地と同様に戦没者の宗教のシンボル、
名前、部隊、亡くなられた日、年齢が記載されている。

十字架が建てられている場所には白いラインが引かれていた。
これはテニスコートのラインである。
丘の上にイギリス軍の司令部が建っており、
戦闘のない時にはテニスをしていたのだ。
そのテニスコートを挟んで下から登って来た日本軍をイギリス軍が迎え撃った。

  

当時はテニスコート左側の下に大木があり、
日本軍の腕のいい狙撃手がその木に登って狙撃していたそうだ。
その大木のあった場所には新しい木が植樹されていた。

なお日本軍はこのテニスコートの戦い(日本側の呼称はコヒマ三叉路高地の戦い)には、
勝利できず撤退する事になってしまった。

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