1947年のインド独立に際して重要な役割を果たしたのが、
ガンディーであり、ボースであり、ネルーや独立運動に参加した、
政治家やたくさんのインドの民衆であった事は当然である。
また、日本の協力も大きかったと思う。
ボースとインパール作戦を調べてみて私が感じた事だが、
もしもボースがミャンマーで・・・・
ビルマ方面軍司令官の河辺中将に会わなければ・・・・
インパール作戦は行われなかったかもしれない。
インパール作戦は1943年3月に昇進した牟田口中将が、
強固に主張した作戦で、河辺中将は一部賛成していたが、
情勢は極めて不利であり、作戦は中止すべきであった。
ボースがミャンマーで河辺中将に会ったのは1944年1月である。
河辺中将はインド独立に架けるボースの気持ちに打たれ、
全面的な協力をしようと言う気持ちになったのではないか。
あの日、あの時、あの場所で・・・
河辺中将がボースに会わなければ・・・
インパール作戦は中止になっていたかもしれない。
インパール作戦は9万人もの尊い命が失われ(戦死、病死、餓死)、
失敗に終わり無謀な作戦の代名詞になっているが、
弾も尽き、補給もなく、病気に苦しみ、食料も尽きたにもかかわらず、
向かってくる日本兵にイギリス軍は恐れをなし、
戦いには勝ったが祝勝会も行わなかった。
東京裁判にインド人のパール判事を送り込んだのは、
敵ながらあっぱれと敬意を表したのだと考えられる。
1945年8月18日、ボースは台湾から中国の大連に向かう時に、
離陸時の飛行機事故によって瀕死の重傷を負い、
台北市の病院に収容されたがインド独立を見ずに死去した。
「インド独立の最後を見ずにして死ぬことは残念であるが、
インドの独立は目睫の間に迫っている。それ故、自分は安心して死ぬ。
自分の一生涯をインドの独立に捧げたことに対しては
少しも遺憾がないのみではなく、非常にいいことをしたと満足して死ぬ。」
「私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。
私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、
祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。
インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ。」と告げた。
当番兵がボースに「何か食べたいものがあるか?」と聞くと、
「カレー。」と聞こえたため、当番兵がカレーライスを作り、
スプーンで食べさせると、ボースは「グッド。」と答えた。
しかし2・3口食べると、ボースはそれきり動かなくなった。
夏期である上に火傷による損傷が激しかったため、
荼毘に付され、台北市内の西本願寺で法要が営まれた。
9月5日にボースの遺骨は日本に運ばれ、
東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺の住職望月教栄が葬儀を引き受け、
9月18日にボースの葬儀が行われた。
インド独立連盟東京代表のラマムルティ氏は遺骨を蓮光寺に託した。
遺骨の一部はラマムルティ氏の弟から、
2006年にボースの兄の孫に返還された。
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東京メトロの東高円寺駅の近くに連光寺はある。
日蓮宗の小さなお寺である。
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入口の正面に1975年に設置されたボースの胸像がある。
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胸像の裏側にプレートが埋められており、1957年にネルー首相、
1958年にラジェンドラ・プラサード大統領、
1969年にインディラ・ガンジー首相、
2001年にバジペイ首相が訪れた記録があった。
遺骨は本堂の向かって右の特別の祭壇に納められている。
白い布に包まれた骨壺を納めた木箱があるそうだ。
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ガンディーであり、ボースであり、ネルーや独立運動に参加した、
政治家やたくさんのインドの民衆であった事は当然である。
また、日本の協力も大きかったと思う。
ボースとインパール作戦を調べてみて私が感じた事だが、
もしもボースがミャンマーで・・・・
ビルマ方面軍司令官の河辺中将に会わなければ・・・・
インパール作戦は行われなかったかもしれない。
インパール作戦は1943年3月に昇進した牟田口中将が、
強固に主張した作戦で、河辺中将は一部賛成していたが、
情勢は極めて不利であり、作戦は中止すべきであった。
ボースがミャンマーで河辺中将に会ったのは1944年1月である。
河辺中将はインド独立に架けるボースの気持ちに打たれ、
全面的な協力をしようと言う気持ちになったのではないか。
あの日、あの時、あの場所で・・・
河辺中将がボースに会わなければ・・・
インパール作戦は中止になっていたかもしれない。
インパール作戦は9万人もの尊い命が失われ(戦死、病死、餓死)、
失敗に終わり無謀な作戦の代名詞になっているが、
弾も尽き、補給もなく、病気に苦しみ、食料も尽きたにもかかわらず、
向かってくる日本兵にイギリス軍は恐れをなし、
戦いには勝ったが祝勝会も行わなかった。
東京裁判にインド人のパール判事を送り込んだのは、
敵ながらあっぱれと敬意を表したのだと考えられる。
![]() | インパールを越えて―F機関とチャンドラ・ボースの夢 |
国塚 一乗 | |
講談社 |
1945年8月18日、ボースは台湾から中国の大連に向かう時に、
離陸時の飛行機事故によって瀕死の重傷を負い、
台北市の病院に収容されたがインド独立を見ずに死去した。
「インド独立の最後を見ずにして死ぬことは残念であるが、
インドの独立は目睫の間に迫っている。それ故、自分は安心して死ぬ。
自分の一生涯をインドの独立に捧げたことに対しては
少しも遺憾がないのみではなく、非常にいいことをしたと満足して死ぬ。」
「私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。
私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、
祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。
インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ。」と告げた。
当番兵がボースに「何か食べたいものがあるか?」と聞くと、
「カレー。」と聞こえたため、当番兵がカレーライスを作り、
スプーンで食べさせると、ボースは「グッド。」と答えた。
しかし2・3口食べると、ボースはそれきり動かなくなった。
夏期である上に火傷による損傷が激しかったため、
荼毘に付され、台北市内の西本願寺で法要が営まれた。
9月5日にボースの遺骨は日本に運ばれ、
東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺の住職望月教栄が葬儀を引き受け、
9月18日にボースの葬儀が行われた。
インド独立連盟東京代表のラマムルティ氏は遺骨を蓮光寺に託した。
遺骨の一部はラマムルティ氏の弟から、
2006年にボースの兄の孫に返還された。
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東京メトロの東高円寺駅の近くに連光寺はある。
日蓮宗の小さなお寺である。
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入口の正面に1975年に設置されたボースの胸像がある。
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胸像の裏側にプレートが埋められており、1957年にネルー首相、
1958年にラジェンドラ・プラサード大統領、
1969年にインディラ・ガンジー首相、
2001年にバジペイ首相が訪れた記録があった。
遺骨は本堂の向かって右の特別の祭壇に納められている。
白い布に包まれた骨壺を納めた木箱があるそうだ。
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