1915年、46歳の時にインドへ帰国したガンディーだが、
イギリス軍によるアムリトサルの大虐殺(1919年)から、
「イギリスへの協力は独立へとつながらない」と思うようになった。
第一次世界大戦(1914~18年)後、不服従運動を展開し、
イギリス製品の不買運動を行い、
インドの綿製品(カーディ)を着用することを呼びかた。
綿を紡ぐチャルカ(糸車)を回すガンディー。
1930年にはイギリスによる塩の専売に反対し、
グジャラート州アーメダーバードからダーンディー海岸まで
約386Kmを抗議の為に行進した「塩の行進」は有名である。
ガンディーは非暴力でインド独立を勝ち取ろうとし、
たびたび断食をして訴えた。宗教やカーストに関係なく、
インドに住んでいるインド人はみな同じインド人であると言う理念から、
イスラム教徒を含めヒンドゥスタンとして独立を望んだが、
結局はインドとパキスタンは1947年、分離独立した。
そして1948年1月30日、ガンディーは、
ヒンドゥー至上主義者によって暗殺されてしまう。
ヒンドゥー教徒でありながらイスラム教徒に肩入れしたと言う理由で。
マハトマーとは、ヒンディー語で「偉大なる魂」と言う意である。
これは詩聖ラビンドラナート・タゴールが名付けたのだが、
ガンディー自身は「バブー(お父さん)」と呼ばれる事を好んだそうだ。
私の友人でアーメダバードのガンディーの大学で7年学んだ、
変人(尊敬の念を込めて、あえてこう呼ぶが)がいるが、
彼女曰く、ガンディーはただの偏屈で頑固な爺さん、だそうだ。
今年の10月2日には最大な誕生祭が行われるかもしれない。
ちょっと楽しみである。
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イギリス軍によるアムリトサルの大虐殺(1919年)から、
「イギリスへの協力は独立へとつながらない」と思うようになった。
第一次世界大戦(1914~18年)後、不服従運動を展開し、
イギリス製品の不買運動を行い、
インドの綿製品(カーディ)を着用することを呼びかた。
綿を紡ぐチャルカ(糸車)を回すガンディー。
1930年にはイギリスによる塩の専売に反対し、
グジャラート州アーメダーバードからダーンディー海岸まで
約386Kmを抗議の為に行進した「塩の行進」は有名である。
ガンディーは非暴力でインド独立を勝ち取ろうとし、
たびたび断食をして訴えた。宗教やカーストに関係なく、
インドに住んでいるインド人はみな同じインド人であると言う理念から、
イスラム教徒を含めヒンドゥスタンとして独立を望んだが、
結局はインドとパキスタンは1947年、分離独立した。
そして1948年1月30日、ガンディーは、
ヒンドゥー至上主義者によって暗殺されてしまう。
ヒンドゥー教徒でありながらイスラム教徒に肩入れしたと言う理由で。
ガンディー 魂の言葉 | |
浅井 幹雄 | |
太田出版 |
マハトマーとは、ヒンディー語で「偉大なる魂」と言う意である。
これは詩聖ラビンドラナート・タゴールが名付けたのだが、
ガンディー自身は「バブー(お父さん)」と呼ばれる事を好んだそうだ。
私の友人でアーメダバードのガンディーの大学で7年学んだ、
変人(尊敬の念を込めて、あえてこう呼ぶが)がいるが、
彼女曰く、ガンディーはただの偏屈で頑固な爺さん、だそうだ。
今年の10月2日には最大な誕生祭が行われるかもしれない。
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これはその通りかもしれません。
ガンディーの言動にはツッコミどころが意外なほどたくさんあると思います。
いわゆる”聖者・聖人”とは違うように思います。
偉大な独立運動家だったことは間違いありません。
ですが、その後も存命で活動していたとしたら「先生、それはちょっと違うのでは?」というような政策をゴリ押ししていたような気がします。
ガンディーについて書かれたいろんな書物を読んだ限りですが・・・・
臆病であった子供時代から、結婚、留学を経て、
大人へと変わっていく過程で、
インド独立の主導者となっていきます。
ガンディーは南アフリカでの経験から
独立運動に携わって行くわけですが、
インドに戻り独立運動の先頭に立ち、
カリスマ性によって民衆に支持されて行きますが、
インドの政治家達の間でも、
国際的にもかなり孤立していたと思われます。
最終的にヒンドゥー至上主義者によって暗殺されてしまいますが、
大多数のヒンドゥー教徒の声を支持していれば、
あの時に死ななかったかもしれません。
生きていたら・・・・やっぱりモメていたでしょうね。