教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

お正月三日のお雑煮

2023年01月03日 13時44分33秒 | 食・レシピ

お正月三が日の終わります今日、お雑煮には、仕来りは関西地方ではお正月の3日は有りませんが。
塩辛くない西京味噌、愛媛の里芋伊予美人、お雑煮大根と人参、国産の木綿豆腐、神様にお供えしますので日高昆布で、出しを取りました。丸餅を入れたさつぱりしたおおあ雑煮です。
昔からの武家の家は、切り餅を嫌い丸餅にしています。
名古屋では、今も風習が残っています。

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"『安く仕入れ儲けたかった』中国産ワカメを鳴門産と偽り販売か…警察が業者を家宅捜索(2022年11月18日)

2022年11月18日 13時03分29秒 | 食・レシピ

"『安く仕入れ儲けたかった』中国産ワカメを鳴門産と偽り販売か…警察が業者を家宅捜索(2022年11月18日)" を
https://youtu.be/Kiu51QjEcjY

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老舗、戎大黒本舗が自己破産 大阪土産「粟おこし」の業者

2022年10月25日 06時10分46秒 | 食・レシピ
 

老舗、戎大黒本舗が自己破産 大阪土産「粟おこし」の業者

老舗、戎大黒本舗が自己破産 大阪土産「粟おこし」の業者

戎大黒本舗の主力商品「粟おこし」(帝国データバンク提供)

(共同通信)

 大阪土産の「粟おこし」を手がける老舗菓子メーカー、戎大黒本舗(大阪府守口市)とグループ会社が大阪地裁に自己破産を申請し、破産手続きの開始決定を受けたことが24日、代理人弁護士への取材で分かった。決定は13日付。2社合計の負債総額は約3億6千万円。

 帝国データバンクによると、戎大黒本舗は1927年に創業。主力の「粟おこし」は大阪・難波の定番土産として知られたが、新型コロナウイルス禍での観光客減少が響いた。

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大阪名物の串カツ「実は東京発祥」その驚きの歴史、「二度漬け禁止ルール」はこうして生まれた

2022年09月29日 12時30分53秒 | 食・レシピ

大阪名物の串カツ「実は東京発祥」その驚きの歴史、「二度漬け禁止ルール」はこうして生まれた

東洋経済オンライン

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大阪名物の串カツ「実は東京発祥」その驚きの歴史、「二度漬け禁止ルール」はこうして生まれた
大阪名物として知られる「串カツ」。大阪に串カツをもたらしたある男性の物語を紹介します(写真: ペイレスイメージズ 2/PIXTA)

 大阪名物として知られる「串カツ」。小説『法善寺横丁』で有名な作家、1904(明治37)年大阪生まれの長谷川幸延によると、現在「串カツ」と呼ばれている食物は、昭和初期の大阪では違う名前で呼ばれていました。

この記事の写真を見る
 頭に数字の2をつけた「二カツ」と呼ばれていたのです。

 “二カツ──。一串二銭の串カツである。縦六センチ、横四センチぐらいかナ。お稲荷さんの幟(のぼり)みたい。が、立派に牛肉である。それ一本が二銭なのである。”

 “なにしろ、二銭である。これはいかにも大阪的な食べ物であり、売り出し方であった。しかも、それは、大阪駅前の、あの雑然たる食べ物街から生まれたのだという。私はそのころすでにミナミの中の一人だったが、梅田生まれの二カツと聞いて、また別な感慨にうたれた。”(『たべもの世相史・大阪』)

 梅田に近い曽根崎に生まれた長谷川にとって、 二カツ(串カツ)が梅田発祥であるという説は、愛郷心をくすぐるものがあったようです。

■ニカツ発祥の店「ニカツ東京屋」

 その二カツ発祥の店と思われるのが、1926(昭和元)年創業の「二カツ東京屋」。創業者の名前は松下義信氏。

 彼が屋台を引き始めた昭和元年の大阪の人々にとって、串に刺したカツレツ「二カツ」は見慣れない食物。最初の頃は、まったく売れずに苦労したそうです。

 “ええ、とても困りましたよ、二銭の串洋食と云つても、その頃はまだ理解されてゐませんでしたからね。あれは犬の肉だとか、猫の肉だとか云つて食つて呉れなかつたものです。働けど働けど、益々生活は困る一方です。”(東京屋松下義信氏を語る 穐村要作 『食通 1936(昭和11)年7月号』)

 しかしながら、松下氏の努力は次第に実り、大阪の人々は串カツという新しい食物に慣れていったのです。

 1928(昭和3)年には詩人の金子光晴と作家の正岡容が、淀川の川べりの屋台で串カツを食べています。

 “大淀川の川べりの鉄橋の下の屋台店に私をつれていって、一串二銭のカツレツをおごってくれた。正岡は、その串をさかなに焼酎をのんだ。なんとなくたよりない味の串の肉は、犬の肉だということであった。”(金子光晴『どくろ杯』)

 「二カツ東京屋」は次第に繁盛し、創業6年後の1932(昭和7)年には、十三に立派な店舗を設けるまでになりました。二カツ=串カツは見事に、大阪に定着したのです。

■「二カツ東京屋」の名前の由来

 梅田発祥との噂のあった二カツ=串カツ。しかしながら串カツは、梅田発祥でも大阪発祥でもなかったのです。

 大阪の串カツ元祖「二カツ東京屋」の名前の由来は、松下氏の出身地東京に由来するもの。松下氏は大正時代初期に東京から大阪に移住し、当時東京で流行していた串カツを持ち込んだのです。

 “深川の高橋の通りは、夜店がにぎやかだったですよ。あそこで、子供のとき、はじめて洋食ってのを食べた。串かつだよ。二銭だったか、四銭だったか忘れたけど、子供が洋食食べたんです。”(『江東ふるさと文庫6』)

 1903(明治36)年東京深川生まれの岡島啓造氏は、彼が子どもの頃、すなわち明治時代末から遅くとも大正時代初め頃に、串カツを食べていました。

 東京では串カツのことをフライ(肉フライ、串フライ)と呼んでいました。

 “大正四、五年から八年頃は、露店で牛めしが三銭から五銭、焼トリは一銭で二本。私は露店の焼トリの中では、肉フライというのが好きでした。油がなくて紫色をしたきれいな肉で、それを中へさしてパン粉をつけてあげて二銭でした。ただのフライてえと、ネギと肉と交互にさしてフライにしてくれる。で、ソースが共同でドブンとつけてたべる。それが好きでね。そういうのが、いまの伝法院の西側の庭の塀にずっと並んでいたわけです。”(『古老がつづる下谷・浅草の明治 大正 昭和1』)

 これは1902(明治35)年東京浅草生まれの久我義男氏の証言。“ソースが共同でドブンとつけてたべる”ので、当然のことながらソース二度漬け禁止。

 “伝法院の西側の庭の塀”は、現在でいうところの浅草ホッピー通り。関東大震災(1923年)前のホッピー通りには、串カツ(フライ)屋台がズラッと並んでいました。

 高橋北堂『小資本にして一躍成金たる金儲』は、1917(大正6)年に大阪の成々堂書店から出版された金儲けマニュアル本。

 その中で、儲かる新商売として串カツ(フライ)屋が紹介されています。

 “次は即ち牛肉のフライ屋で之は東京では到る處に見受けるが、大阪にては未だ之を見ぬ”

 大正初期に東京において流行していた「牛肉のフライ屋」は、この時点ではまだ大阪に伝わっていなかったのです。

 “此商売は前にも述べた如く、大阪京都には未だ始めて居るものがない。依っていずれの地にても適するから、関西に於て開始したならば、珍らしくて中々流行すること請合だ”

 東京の串カツ(フライ)は、昭和元年に松下氏が大阪へ「二カツ」として伝えましたが、京都には大正時代に「一銭洋食」として伝わりました。これについては拙著(近代食文化研究会『串かつの戦前史』)を参照してください。

■ソース共用、二度漬け禁止ルールが生まれた理由

 さて、そもそも洋食であるカツレツを、なぜ串に刺して売ったのでしょうか?  そしてなぜ、ソースは共用で二度漬け禁止なのでしょうか? 

 これは1921(大正10)年の創作落語「犬の肉」の挿絵に描かれた、東京の串カツ(フライ)屋台の絵です。

 屋台に並んでいるのは洋酒の瓶。現在と変わらず、当時の串カツも酒のつまみとして売られていたのです。

 ご覧のとおり、屋台にはカウンターもテーブルもありません。食べ終わった串を置くだけの小さなスペースしかないのです。

 皿やコップを置く場所がないので、客は片手に酒の入ったコップを、もう一方の手に串カツを握って、立ったまま飲み食いします。

 片手が酒のコップでふさがっているために、もう一方の片手だけで立食いできるように、串カツは串に刺さっているのです。

 そして片手に酒のコップ、片手に串カツを持っていると、両手がふさがっているのでソース容器を持つことができません。そこで、大きな皿にソースを注ぎ、串全体をソースに浸して食べたのです。

 当然、ソースは二度漬け禁止です。串カツもソース二度漬け禁止のルールも、屋台での立ち飲み・立ち食いのために生まれたものなのです。

 実はこの串カツ、明治時代の東京で生まれた屋台料理である焼鳥の伝統から生まれたもの。

 なぜ焼鳥は一口大に切った肉を串に刺して焼くのか。それは屋台において、コップ酒片手にもう一方の片手で食べられるように串に刺したのです。この焼鳥のビジネスモデルを応用したのが、串カツです。

 ソース共用、二度漬け禁止ルールも、江戸時代の東京(江戸)で生まれた屋台料理、握り寿司や天ぷらの伝統から生まれたもの。

 東京の握り寿司屋台では、大きな丼に醤油を入れ、そこに手で持った寿司を漬けて食べました。

 天ぷら屋台では、箸でつまんだ天ぷらを共用の丼の天つゆに漬けて食べました。

■東京の屋台文化から生まれたものだった

 いずれも二度漬け禁止。東京人にとってソース共用二度漬け禁止はおなじみのルールだったのです。

 また、串カツが生まれた明治時代末の東京では、洋食の屋台というものが存在し、カツレツを立ち食いすることができました。

 焼鳥、握り寿司、天ぷら、洋食。串カツは、東京の屋台文化から生まれた料理だったのです。

近代食文化研究会 :食文化史研究家

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大阪名物の串カツ「実は東京発祥」その驚きの歴史、「二度漬け禁止ルール」はこうして生まれた

2022年09月29日 12時10分19秒 | 食・レシピ

大阪名物の串カツ「実は東京発祥」その驚きの歴史、「二度漬け禁止ルール」はこうして生まれた

東洋経済オンライン

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大阪名物の串カツ「実は東京発祥」その驚きの歴史、「二度漬け禁止ルール」はこうして生まれた
大阪名物として知られる「串カツ」。大阪に串カツをもたらしたある男性の物語を紹介します(写真: ペイレスイメージズ 2/PIXTA)

 大阪名物として知られる「串カツ」。小説『法善寺横丁』で有名な作家、1904(明治37)年大阪生まれの長谷川幸延によると、現在「串カツ」と呼ばれている食物は、昭和初期の大阪では違う名前で呼ばれていました。

この記事の写真を見る
 頭に数字の2をつけた「二カツ」と呼ばれていたのです。

 “二カツ──。一串二銭の串カツである。縦六センチ、横四センチぐらいかナ。お稲荷さんの幟(のぼり)みたい。が、立派に牛肉である。それ一本が二銭なのである。”

 “なにしろ、二銭である。これはいかにも大阪的な食べ物であり、売り出し方であった。しかも、それは、大阪駅前の、あの雑然たる食べ物街から生まれたのだという。私はそのころすでにミナミの中の一人だったが、梅田生まれの二カツと聞いて、また別な感慨にうたれた。”(『たべもの世相史・大阪』)

 梅田に近い曽根崎に生まれた長谷川にとって、 二カツ(串カツ)が梅田発祥であるという説は、愛郷心をくすぐるものがあったようです。

■ニカツ発祥の店「ニカツ東京屋」

 その二カツ発祥の店と思われるのが、1926(昭和元)年創業の「二カツ東京屋」。創業者の名前は松下義信氏。

 彼が屋台を引き始めた昭和元年の大阪の人々にとって、串に刺したカツレツ「二カツ」は見慣れない食物。最初の頃は、まったく売れずに苦労したそうです。

 “ええ、とても困りましたよ、二銭の串洋食と云つても、その頃はまだ理解されてゐませんでしたからね。あれは犬の肉だとか、猫の肉だとか云つて食つて呉れなかつたものです。働けど働けど、益々生活は困る一方です。”(東京屋松下義信氏を語る 穐村要作 『食通 1936(昭和11)年7月号』)

 しかしながら、松下氏の努力は次第に実り、大阪の人々は串カツという新しい食物に慣れていったのです。

 1928(昭和3)年には詩人の金子光晴と作家の正岡容が、淀川の川べりの屋台で串カツを食べています。

 “大淀川の川べりの鉄橋の下の屋台店に私をつれていって、一串二銭のカツレツをおごってくれた。正岡は、その串をさかなに焼酎をのんだ。なんとなくたよりない味の串の肉は、犬の肉だということであった。”(金子光晴『どくろ杯』)

 「二カツ東京屋」は次第に繁盛し、創業6年後の1932(昭和7)年には、十三に立派な店舗を設けるまでになりました。二カツ=串カツは見事に、大阪に定着したのです。

■「二カツ東京屋」の名前の由来

 梅田発祥との噂のあった二カツ=串カツ。しかしながら串カツは、梅田発祥でも大阪発祥でもなかったのです。

 大阪の串カツ元祖「二カツ東京屋」の名前の由来は、松下氏の出身地東京に由来するもの。松下氏は大正時代初期に東京から大阪に移住し、当時東京で流行していた串カツを持ち込んだのです。

 “深川の高橋の通りは、夜店がにぎやかだったですよ。あそこで、子供のとき、はじめて洋食ってのを食べた。串かつだよ。二銭だったか、四銭だったか忘れたけど、子供が洋食食べたんです。”(『江東ふるさと文庫6』)

 1903(明治36)年東京深川生まれの岡島啓造氏は、彼が子どもの頃、すなわち明治時代末から遅くとも大正時代初め頃に、串カツを食べていました。

 東京では串カツのことをフライ(肉フライ、串フライ)と呼んでいました。

 “大正四、五年から八年頃は、露店で牛めしが三銭から五銭、焼トリは一銭で二本。私は露店の焼トリの中では、肉フライというのが好きでした。油がなくて紫色をしたきれいな肉で、それを中へさしてパン粉をつけてあげて二銭でした。ただのフライてえと、ネギと肉と交互にさしてフライにしてくれる。で、ソースが共同でドブンとつけてたべる。それが好きでね。そういうのが、いまの伝法院の西側の庭の塀にずっと並んでいたわけです。”(『古老がつづる下谷・浅草の明治 大正 昭和1』)

 これは1902(明治35)年東京浅草生まれの久我義男氏の証言。“ソースが共同でドブンとつけてたべる”ので、当然のことながらソース二度漬け禁止。

 “伝法院の西側の庭の塀”は、現在でいうところの浅草ホッピー通り。関東大震災(1923年)前のホッピー通りには、串カツ(フライ)屋台がズラッと並んでいました。

 高橋北堂『小資本にして一躍成金たる金儲』は、1917(大正6)年に大阪の成々堂書店から出版された金儲けマニュアル本。

 その中で、儲かる新商売として串カツ(フライ)屋が紹介されています。

 “次は即ち牛肉のフライ屋で之は東京では到る處に見受けるが、大阪にては未だ之を見ぬ”

 大正初期に東京において流行していた「牛肉のフライ屋」は、この時点ではまだ大阪に伝わっていなかったのです。

 “此商売は前にも述べた如く、大阪京都には未だ始めて居るものがない。依っていずれの地にても適するから、関西に於て開始したならば、珍らしくて中々流行すること請合だ”

 東京の串カツ(フライ)は、昭和元年に松下氏が大阪へ「二カツ」として伝えましたが、京都には大正時代に「一銭洋食」として伝わりました。これについては拙著(近代食文化研究会『串かつの戦前史』)を参照してください。

■ソース共用、二度漬け禁止ルールが生まれた理由

 さて、そもそも洋食であるカツレツを、なぜ串に刺して売ったのでしょうか?  そしてなぜ、ソースは共用で二度漬け禁止なのでしょうか? 

 これは1921(大正10)年の創作落語「犬の肉」の挿絵に描かれた、東京の串カツ(フライ)屋台の絵です。

 屋台に並んでいるのは洋酒の瓶。現在と変わらず、当時の串カツも酒のつまみとして売られていたのです。

 ご覧のとおり、屋台にはカウンターもテーブルもありません。食べ終わった串を置くだけの小さなスペースしかないのです。

 皿やコップを置く場所がないので、客は片手に酒の入ったコップを、もう一方の手に串カツを握って、立ったまま飲み食いします。

 片手が酒のコップでふさがっているために、もう一方の片手だけで立食いできるように、串カツは串に刺さっているのです。

 そして片手に酒のコップ、片手に串カツを持っていると、両手がふさがっているのでソース容器を持つことができません。そこで、大きな皿にソースを注ぎ、串全体をソースに浸して食べたのです。

 当然、ソースは二度漬け禁止です。串カツもソース二度漬け禁止のルールも、屋台での立ち飲み・立ち食いのために生まれたものなのです。

 実はこの串カツ、明治時代の東京で生まれた屋台料理である焼鳥の伝統から生まれたもの。

 なぜ焼鳥は一口大に切った肉を串に刺して焼くのか。それは屋台において、コップ酒片手にもう一方の片手で食べられるように串に刺したのです。この焼鳥のビジネスモデルを応用したのが、串カツです。

 ソース共用、二度漬け禁止ルールも、江戸時代の東京(江戸)で生まれた屋台料理、握り寿司や天ぷらの伝統から生まれたもの。

 東京の握り寿司屋台では、大きな丼に醤油を入れ、そこに手で持った寿司を漬けて食べました。

 天ぷら屋台では、箸でつまんだ天ぷらを共用の丼の天つゆに漬けて食べました。

■東京の屋台文化から生まれたものだった

 いずれも二度漬け禁止。東京人にとってソース共用二度漬け禁止はおなじみのルールだったのです。

 また、串カツが生まれた明治時代末の東京では、洋食の屋台というものが存在し、カツレツを立ち食いすることができました。

 焼鳥、握り寿司、天ぷら、洋食。串カツは、東京の屋台文化から生まれた料理だったのです。

近代食文化研究会 :食文化史研究家

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「今までの苦労は何だったんだ…」 栗の皮むきライフハックが話題 「栗ご飯作ろう」「ノーベル賞」

2022年09月26日 11時48分57秒 | 食・レシピ

「今までの苦労は何だったんだ…」 栗の皮むきライフハックが話題 「栗ご飯作ろう」「ノーベル賞」

まいどなニュース

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「今までの苦労は何だったんだ…」 栗の皮むきライフハックが話題 「栗ご飯作ろう」「ノーベル賞」
一晩冷凍します(稲本雄太さん提供)

栗ご飯は毎日食べたいけど皮むきが面倒で…という板挟みに苦しんでいる皆さん、朗報となりそうなライフハックがSNSで話題です。今晩、仕事帰りに買って試してみよう。

【写真】鬼皮と渋皮がつるんと剥けた!
Twitterユーザーの稲本雄太(@InamotoYuta)さんが「面倒なクリの下処理。一晩冷凍したものに熱湯をかけ、5分ほど置くと手で鬼皮と渋皮がつるんと剥ける。」のライフハックを3枚の画像とともに投稿。「あの大変な皮むきが…」「ノーベル賞」「天才か!?」などのコメントとともに17万近いいいねがつくなど拡散しました。投稿者に聞きました。

ーこのライフハックは

「私が発見したわけでなく、クリを拾ったので、簡単に下処理できる方法がないかをネットで調べて知りました。Twitterに反応されている皆さんのように、最初は半信半疑でした」

ー実際にやってみて

「お尻の部分を包丁で落として、そこからペリペリと剥く感じです。上手くいくと鬼皮と渋皮が一緒に剥けます。薄皮が残る場合は爪やブラシでこすってください。この方法を知るまでは、水に長時間浸してから、包丁で皮を剥いていました。今までの苦労はなんだったんだという気持ちです。」

ー栗ご飯が食卓に上る家庭が増えそうです

「ここまで拡散したことに驚いていますが、季節の味覚を気軽に楽しんでもらえる人が増えるとうれしいです」

SNSの反響をみると、「うまくいかなかった」というユーザーもおり、このライフハックでお悩みが完全に解消されるというわけではないようです。クリの鮮度を指摘するコメントもあり、投稿者さんも「クリの状態なんかも影響しているのかもしれません」とツイートしています。

話題になった皮むきライフハック、下処理に手間がかかることは従来の方法は変わりはありませんが、包丁を使う頻度が格段に減るので、親子で楽しみながらできそうです。多少型崩れしても構わない栗ご飯を作る際にいかがでしょうか。

(まいどなニュース・竹内 章)

まいどなニュース

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1585年創業の「菊屋」をルーツにもつ

2022年09月22日 11時45分16秒 | 食・レシピ

帝国データバンク

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1585年創業の「菊屋」をルーツにもつ

昭和天皇より御嘉納の「菊紋」を下賜された老舗和菓子店・本菊屋(大阪)が破産
贈答品需要が落ち込んでいた(画像はイメージ)

 (株)本菊屋(TDB企業コード:087005671、資本金300万円、大阪府大阪市中央区高麗橋2-2-12、代表土田喜和氏)と、グループ会社の菊屋(株)(TDB企業コード:248013678、資本金1000万円、同所、登記面=兵庫県西宮市神楽町9-7、同代表)の2社は、9月12日に大阪地裁より破産手続き開始決定を受けた。

 破産管財人は外山将平弁護士(大阪市北区天神橋2-5-25若杉グランドビル本館6階、ふじ法律事務所、電話06-6926-4688)。

 (株)本菊屋は、1585年に創業した奈良・大和郡山の城下町で大納言豊臣秀長公の御用菓子司を勤めた「菊屋」をルーツにもつ。第二次世界大戦中の統制下、一時的に営業中断を余儀なくされたが、1946年に「名菊」の商標下にて事業を再開し業容を拡大、51年6月に暖簾を分ける形で法人化された。

 大阪・高麗橋に本店を構え、大阪府および兵庫県内の百貨店や商店街、商業施設などで多店舗展開。最中(もなか)をはじめ、焼菓子、棹菓子、干菓子などの各種和菓子を販売し、昭和天皇・高松宮宣仁親王殿下より御嘉納の「菊紋」(十六弁八重表)を下賜されるなど、知名度も相応に高く、代表的な商品には銘菓「名菊最中」や「菊あわせ」などを有していた。

コロナ禍で贈答品需要が落ち込んでいた

 しかし、前身の(株)菊屋<その後、(株)Kホールディングスに商号変更、2012年7月に破産>は70年12月に大阪地裁へ和議を申請。78年(昭和53年)4月に製造部門として菊屋(株)を設立して製販分離を図るなどで立て直しを図っていたものの、その後も贈答用品としての需要が伸び悩むなどで売り上げは減少傾向で推移するなか、受け皿会社として事業を譲り受ける形で(株)本菊屋が2012年(平成24年)2月に設立されていた。

 こうした経緯から信用低下を招いていたうえ、2020年に入ってからの新型コロナウイルス禍で贈答品需要が急減したことで経営が悪化。支えきれず、高麗橋本店を2022年3月15日に閉店していた。

 負債は現在調査中。

 なお、「菊屋」の屋号で事業を展開している(株)本家菊屋(奈良県大和郡山市、TDB企業コード510323949)とは別法人で当社グループとの関係はなく、通常通り営業を行っている。』

大阪の和菓子の老舗の菊屋が、倒産するとは信じられない御時世です。

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「カレールーを入れる銀色の容器」の名前って何?

2022年09月22日 10時16分53秒 | 食・レシピ

ねとらぼ調査隊

ライフ
2022/09/21 18:20(公開)
「カレールーを入れる銀色の容器」の名前って何

 


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 あなたの朝がいつもイイ朝でありますように—ニッポン放送『羽田美智子のいってらっしゃい』。テーマは「カレーの雑学」です。

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解説
 日本だとカレーとライスはセットのイメージが強いですが、カレーの本場・インドでも、ベンガル地方のカレーは昔からライスとセットなのだそうです。ベンガル地方も日本と同じように米が主食のため、カレーとライスがセットになっているのだとか。

 このセットを18世紀ごろ、イギリス王室に紹介したところ、とても評判になります。上流階級の人々へと広まっていき、その後は日本にも伝わりますが、米文化の日本においてご飯と一緒に食べるカレーは、すぐに受け入れられたそうです。

 ちなみに、「カレーライス」と「ライスカレー」という2つの呼び方があります。もともとは、最初からライスにカレーがかかっているものが「ライスカレー」、カレーが容器に入れられてライスとは別々に出てくるものが「カレーライス」だったそうです。

ニッポン放送「羽田美智子のいってらっしゃい」
 カレーの歴史を見ると、インドからイギリスに伝わったベンガル地方のカレーは、ライスにカレーがかかった「ライスカレー」であり、日本に伝わってきたカレーも「ライスカレー」だったそうです。

 その後、カレーとライスが別々に出される「カレーライス」が登場しますが、別々に出されることで高級感が出るようになったと言われています。

 ちなみに、ルーを入れるシルバーの容器は「グレービーボート」や「ソースポット」と呼ばれています。

 

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ミルキーのアイス“不二家ミルキーカップ”本日9/21発売。トロっとしたミルキー風練乳入りのカップアイスがリニューアル | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com

2022年09月19日 12時28分55秒 | 食・レシピ

 

 

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MIGホールディングス(東京・飲食FC)、破産に移行へ

2022年09月06日 19時59分46秒 | 食・レシピ

MIGホールディングス(東京・飲食FC)、破産に移行へ

帝国データバンク

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スポンサー企業が撤退を表明

 7月5日に再生手続き開始決定を受けていたMIGホールディングス(株)(TDB企業コード:192021622、資本金2000万円、東京都世田谷区玉川台2-2-8、代表髙橋憲明氏)は、9月5日に東京地裁より再生手続き廃止決定を受け、同日保全管理命令を受けた。

 保全管理人には相羽利昭弁護士(東京都新宿区新宿1-8-5、三宅・今井・池田法律事務所)が選任されている。

 当社は、2017年(平成29年)9月に設立。飲食店のフランチャイズ事業、催事・モールイベントスペース等に出店し、商品を販売するファーストリテール事業や有名シェフのレシピ配信サイトを運営するレシピコンテンツ事業を手がけていた。
 近時は有名飲食店と業務提携を行い、ブランドの使用許諾を受けて、主に駅構内や商業施設などにイベントブースを設置してスイーツや食品の販売を行い、2021年9月期には年収入高約30億円を計上していた。

 新型コロナウイルス感染拡大の状況下においても積極的に事業を拡大。ブランド数は40超に達していたが、拡大に伴う仕入債務の増大、運転資金の増加に対応できず、急速に資金繰りが悪化。自力再建を断念し、6月28日に東京地裁へ民事再生法の適用を申請。事業再建に向けてスポンサー候補者である(株)ALL CONNECT(TDB企業コード:390839672)との間で基本合意書を締結し、その後、具体的な協議を継続してきたが最終的にスポンサー契約に至らず、今回の措置となった。
 なお、今後破産手続きに移行する見込み。

 申請時の負債は債権者約300名に対し約9億5000万円。

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2022/07/07

2022年07月07日 06時30分01秒 | 食・レシピ
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実は漢方レベル!?【らっきょう漬け】の効能と作り方|腸内環境やお腹のカビ対策にも

2022年05月19日 13時56分51秒 | 食・レシピ

実は漢方レベル!?【らっきょう漬け】の効能と作り方|腸内環境やお腹のカビ対策にも

ヨガジャーナルオンライン

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実は漢方レベル!?【らっきょう漬け】の効能と作り方|腸内環境やお腹のカビ対策にも
実は漢方レベル【らっきょう漬け】の効能と作り方|腸内環境やお腹のカビ対策にも

皆さんは「らっきょう」を食べていますか?昔からある食品ですが、実はとても健康効果の高い食べ物です。近年注目されている腸内環境を良くしたり、お腹のカビ(カンジダ)の殺菌効果を持ち、腸から身体の調子を整えてくれます。5~7月が旬ですのでぜひ手作りのらっきょう漬けを作ってみてはいかがでしょうか。

【この記事の写真を見る】“畑の薬“らっきょうを自宅で手作りする方法

らっきょうの効能

◆1.水溶性食物繊維が非常に多い
らっきょうは水溶性食物繊維をとても多く含んでいます。水溶性食物繊維は、腸内細菌の善玉菌の餌になることで腸内環境を整える効果があります。この善玉菌の作る短鎖脂肪酸は腸のエネルギー源となり、腸の柔毛にある上皮細胞のターンオーバーや修復を行うため、腸の健康に非常に重要です。

また血糖値の上昇を緩やかにし、脂質の吸収を抑え、便の水分量やカサを増やし便通を良くする働きも持つため、ダイエットや便通に悩む方にも大事な成分です。

◆2.硫化アリル(アリシン)が多い
注目したいのは硫化アリルという成分です。ニンニクと玉ねぎにも含まれていて、らっきょうの香りの元となる成分です。この硫化アリルは殺菌作用や抗菌作用が強力です。特に、お腹の近年注目されてきている「お腹のカビ」の殺菌にも効果的です。
カンジダと呼ばれるカビ(真菌)が腸で異常増殖することで、人体に有害な毒素を出し様々な不調や症状が出てしまう、そんなカンジダを殺菌する作用が硫化アリルにあります。
お腹のカビであるカンジダは毒素だけでなく、バイオフィルム(排水溝にできるヌルヌルとした膜)を腸の中で作るのですが、そのバイオフィルムの破壊や産生抑制にも硫化アリルが効果的なのです。
らっきょうが体に良い=腸に良いと言う事ですね。

◆3.デトックス効果や消化促進
硫化アリルのような硫黄成分は体内でのデトックスや健康な皮膚、毛髪に必須な物質です。強力な解毒・抗酸化物質グルタチオンの材料にもなります。

らっきょうの独特な香りは食欲増進とともに胃酸やインスリン分泌を促してくれますので、匂いを感じながら食べることでより身体に良い効果をもたらします。また、血液をサラサラにしたり、抗がん作用や疲労回復効果もあるスーパーフードです。

手作りらっきょう漬けレシピ

健康効果の高いらっきょうですが、市販のものは果糖ブドウ糖液糖などできるだけ摂取したくない物質や添加物が入っていることが多いので手作りがオススメ。

30分ほどで簡単に作れるらっきょう漬けのレシピはこちら。


【黒糖らっきょうの材料と作り方】
洗いらっきょう・・・1kg
黒糖・・・200g
塩・・・55g
お酢・・・500cc
みりん・・・80cc
鷹の爪・・・2本

土付きのらっきょうを使ってもよいですが手間がかかるので、スーパーで売っている洗いらっきょうを使うと簡単です。

手順:
1.洗いらっきょうを軽く洗う
2.沸騰させたお湯でらっきょうを10秒ほど湯に通し水分を切っておく
3.砂糖、塩、お酒、みりんを鍋に入れ加熱し溶かす(これが漬け汁)
4.らっきょうを煮沸消毒した瓶に詰め鷹の爪を入れる
5.ある程度冷ました漬け汁を注ぐ
6.10~2週間ほど常温で保存すると食べ頃

黒糖を使っているので茶色いらっきょうになりますが、黒糖にはビタミンミネラルが豊富なので白い砂糖を使うよりも体に必要な栄養素を一緒に取ることができます。

添加物の少ない本物の調味料を使うことでより体に良いらっきょうを作れますね。らっきょうの成分は漬け汁にも溶け出しているので、漬け汁を酢の物などに使うことでまるごとをらっきょうの恩恵を頂く事ができます。


らっきょうは「家庭で作れる漢方薬」や「畑の薬」と呼ばれるほど体に良い食材です。ぜひ5月から7月に手作りらっきょうを仕込んで、食べてみてはいかがでしょうか。

この記事を書いた人/立山貴美恵
6年の闘病経験から「分子栄養学」に出会い、分子栄養学カウンセラー・カラダリビルドコーチとして活動中。症状を薬などで対処し続ける事ではなく”不調の根本原因”を探するアプローチや、体を立て直し再構築する考え方を提供。

立山貴美恵

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かつや「大人のお子様ランチ」が想定の3倍の売れ行き 広報「ここ数年で見てもトップレベル」

2022年05月18日 07時41分00秒 | 食・レシピ
 

かつや「大人のお子様ランチ」が想定の3倍の売れ行き 広報「ここ数年で見てもトップレベル」

かつや「大人のお子様ランチ」が想定の3倍の売れ行き 広報「ここ数年で見てもトップレベル」

かつや「大人のお子様ランチ」が想定の3倍の売れ行き 広報「ここ数年で見てもトップレベル」

(ITmedia ビジネスオンライン)

 とんかつ専門店の「かつや」が発売した期間限定メニュー「大人様ランチ」が、好調だ。かつやの運営会社であるアークランドサービスホールディングスの広報によると、「想定の3倍以上の売り上げ」だという。

 「今年の期間限定メニューの中ではトップの売れ行きで、ここ数年の期間でみてもトップクラスの売り上げをあげています」(広報)。大人の「食べたい」というニーズに商機を見いだし、大人のお子様ランチとして提供しており、店内価格は759円に設定した。

 同メニューは、オムカレーに海老フライ、タルタルチキンカツとウインナーを一皿に盛りつけた「大人のためのお子様ランチ」だ。店内飲食だけでなく、お弁当のテークアウト(大人様ランチ弁当)も745円で販売している。

●ターゲットは30〜40代男性

 なぜこのタイミングで販売したかを広報に聞いた。

 「ゴールデンウィーク明けで、大人様ランチのターゲットとしている30〜40代男性の日常が帰ってきたこのタイミングで、思わずくすっと笑って、おなかいっぱい食べてほしいと考えこのタイミングにしました」

 同社は連休中はテークアウトメニュー「かつや盛り」を投入し、連休でのニーズを取り込む戦略を取っていた。販売タイミングや時勢を見て、柔軟に投入商品も変えているようだ。

 大人様ランチ開発の苦労を聞くと、「商品の彩りと盛り付けを楽しみに来店するお客さまを、いかにして待たせずに提供できるかに試行錯誤した」と話す。認知向上のためビジュアルにはこだわったという。

 「思わず二度見するような商品名とビジュアルをきっかけに、かつやを知っていただくきっかけにしたいと考えました。大人様ランチという、違和感があるネーミングに思わずつっこみたくなり、見た目も魅力的で人に言いたくなるような仕立てにすることを考えました。実際に、Twitterのトレンド入りを果たすなど人から人へ伝播しています」

 ゴールデンウイークも明け、コロナ禍も落ち着いてきた。このタイミングでどれだけ売り上げを伸ばせるか。』

 

デパートの大食堂の懐かしのお子様ランチの復活版です。

 

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ハンバーガー店の倒産が急増、店舗乱立で競争が激化

2022年04月24日 07時31分39秒 | 食・レシピ

ハンバーガー店の倒産が急増、店舗乱立で競争が激化

 コロナ禍のなかでハンバーガー店は、テイクアウトやデリバリーが好調だが、大手チェーン店から中小企業までハンバーガー店の出店が加速し、厳しい競争が始まっている。鳥貴族は「トリキバーガー」、ロイヤルグループは「Lucky Rocky Chicken」を展開。タピオカや高級食パンに続くブームとなり、大手外食チェーンが続々とハンバーガー店に進出している。2021年度のハンバーガー店の倒産は6件(前年度1件)で、このうち5件はコロナ関連倒産だった。コロナ禍が生んだブームの陰で、好調と不振の2極化が進む。
 折しも20年ぶりの円安進行に加え、ロシアのウクライナ侵攻で小麦など食材が高騰している。2022年度はハンバーガー店の淘汰が加速する可能性も出てきた。

銭湯

 

  •  

ハンバーガー店の倒産が急増

 ハンバーガー店の倒産(負債1000万円以上)は、2021年度は6件(前年度1件)だった。コロナ関連の持続化給付金、雇用調整助成金、ゼロゼロ融資など、資金繰り支援策が奏功し、2020年度の倒産は1件にとどまった。
 だが、長引くコロナ禍での業績不振で、ハンバーガー店はダメージが蓄積。さらに、コロナ支援効果も薄まり、手持ち資金は枯渇し、小・零細店の息切れが顕在化し始めた。それを裏付けるように6件のうち、5件がコロナ関連倒産だった。
 渋谷センター街では、この春ハンバーガー店が数十メートル離れて2店開店した。マクドナルドなど、大手ハンバーガーチェーンも新製品を投入し、テイクアウトを強化している。他業種からの進出も相次ぎ、閉店した店舗の跡に、別のハンバーガーチェーンが出店する一時のコンビニ業界と同じ構図もみられ、日を追って激しさを増している。

ハンバーガー

◇    ◇    ◇

 熾烈な競争は消費者にはプラス面が大きい。だが、小麦など食材価格や光熱費が上昇し、人手不足も採算低下に輪をかけるハンバーガー店には死活問題だ。大手と新興のハンバーガー店の生き残りをかけた競争が、どこまで進むのか、今日も競争が続いている。

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「白いダイヤ」の闇ルートを断て 食と保全、ウナギ研究者の闘い

2022年04月12日 09時38分12秒 | 食・レシピ

「白いダイヤ」の闇ルートを断て 食と保全、ウナギ研究者の闘い



 「白いダイヤ」を守るために立ち上がった。ウナギの稚魚は色素が少なく、シラスウナギと呼ばれる。捕れなくなっており、その取引額は10年ほど前から1キロ当たり数百万円まで高騰。ダイヤに例えられる稚魚は、闇ルートでの流通や密漁が後を絶たない。

流通している状況を好転させる、非常に大きなチャンスが現在、来ています」

 ウナギの保全生態学の第一人者で、国際自然保護連合(IUCN)に設けられている「ウナギ属魚類専門家グループ」のメンバーを13年から務めている。メンバー10人のうちアジアからの参加は海部さんだけだ。

 天然のニホンウナギの国内漁獲量は、この約60年で9割以上減った。ニホンウナギは14年、IUCNの絶滅危惧種に指定され「ウナギ好きの日本」にレッドカードが突き付けられた格好だ。ウナギの養殖は天然のシラスを捕って池で育てることで成り立っている。シラスの採捕(漁獲)や養殖には、国などの特別な許可や都道府県への採捕量の報告が必要だ。

 しかし、養殖池に入ったシラスの量と報告量の両データには矛盾があり、こうした制度をかいくぐる不正がうかがえた。海部さんが14年末から15年春にかけての流通量などから、採捕量を報告しない「闇ルート」での流通や密漁が疑われるシラスの量を独自に計算すると計9・6トンに上った。全国の養殖池に運び込まれた総量の半数余りに相当する。「これほど異常な状況が普通にあるとは。この実態をもっと広く知ってもらわなければ」と強く感じた。

 そんな中で、海部さんは16年のある日、東京都内で開かれたウナギ業界のセミナーに招かれ、闇ルートを含めた業界の実態をテーマに講演するはずだった。

 ところが、開催の数日前に突然、セミナーの担当者から電話があった。「ウナギ業界の関係者か…

 
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