広く浅く

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工業カーブから登校?!

2021-05-20 23:54:55 | 昔のこと
秋田県立秋田工業高等学校の通学事情の続きで、昔の話。
今では考えられないし、実行できない、鉄道を使った通学手段が存在したという。※昔も今も、実行したとしてもとても危険で法令にも違反するでしょうから、やらないでくださいよ。

僕が聞いたのは、中学校1年生の時の社会科の先生から。高校生だった頃の思い出話として。
今62~63歳くらい、1960年頃の生まれのはずだから、1975(昭和50)年前後のこと。
先生は土崎駅から秋田駅まで、国鉄奥羽本線で通学していて、乗り合わせた秋田工業の生徒がそうしていたという。

前回の通り、秋田工業高校の敷地の北~東辺に沿って、奥羽本線は大きくカーブした線形。
列車はそこで減速する(先生は「カーブなので減速」とおっしゃったはずだが、実際には秋田駅が近いので停まるための減速でもあるだろう)。
当時の普通列車の車両は、自走する気動車(ディーゼルカー)もあったが、電気機関車やディーゼル機関車が、動力を持たない「客車」をひっぱって走る方式もあった。その客車列車では、乗降用のドアが自動開閉ではなく手動(ボタン式でなくドア自体を客が力で動かす)で、走行中もドアを開けることができた。だから、そのカーブに差しかかった時に、ドアから飛び降りて、目の前の学校へ登校していった。
という話。へぇーと聞いたけれど、誇張を含む、都市伝説的話なのではと疑ったりしつつ、記憶に残っている。
その後、当ブログへのコメントでも複数のかたから、同じ場所での同じ話を寄せていただいたので、まったくの作り話ではないようだ。


このことを、検証ってほどでもないけれど、考えてみる。推測ばかりですのでアテにせず、何かご存知でしたらコメントください。
上り普通列車の後部から、この区間を眺めてみた。当時とは校舎等の配置は異なり、鉄道側の設備の位置等が変わっている可能性もあります。
泉踏切を通過。左側はもう秋田工業高校の敷地
泉踏切通過後もしばらくは直線。貨物駅~旧機関区があった名残で、ここは複線の上下線の間が広い。

まだ直線
徐々に上下線が接近する。そしてカーブへ。
右に信号機(第一閉塞信号機?)
再び線路が広くなり始める。この先の旭川を渡る橋梁が、上下線別々に架かっているため。
カーブ終わり。左はまだ工業の敷地

旭川橋梁を渡って秋田駅へ

走る列車から“安全に飛び降りる”には注意点や条件があることだろう。
地面にぶつかる危険性は当然として、乗っていた車両自体に巻きこまれる、線路際の柱などに激突する、複線区間では隣の線路の列車にひかれる、といった点をクリアしなければならない。
ここは1971年8月に電化されているので、先生が通学していた当時も、今と同じく電化柱(架線柱)が並んでいたはず。
上の写真の通り、ここは貨物駅と橋梁のおかげで、上下線の間隔が通常より広い。そこには柱の類はほとんどない。さらに上り列車では、そちら側がカーブ内側となるので、車体の傾斜により地面が近くなって、いくらか降りやすそう。
そんなわけで、飛び降りやすい条件がそろっている場所ではないだろうか。

ただ速度も大切。どのくらい減速していたのか。
今の電車や3月までのキハ40系気動車でも、ここを通る上りでは50km/hは出ていると思う。
客車列車は、電車・気動車ほど加減速が高性能ではないとはいえ、そこそこ出ていたのでは。客車に近い走行性能と思われる貨物列車では、旭川橋梁を渡って少し進んだ地点で、秋田駅に停まるための強いブレーキを掛け始めるようだけど。
自動ドアになった50系客車時代だが、国鉄最後1987年3月の時刻表を見ると、土崎→秋田間は、客車も気動車も8~9分で走行している。今の電車では、泉外旭川駅停車を含めて9分なので、昔が劇的に遅かったわけではなさそう。

信号機の指示で減速する可能性もある。
学校横・橋手前の第一閉塞信号が赤で停まってくれれば、とても好都合。だが、僕はこの25年奥羽北線に乗ってきて(ただし朝は1度も乗ったことなし)、ここで停まったのは2~3度しかない。
その先、手形陸橋手前の場内信号で停まることは、(下り列車の発車遅れ等により)たまにある。以前のSL試運転の時、場内信号による停止なのだと思うが、なぜか旭川橋梁の上で停まってしまったことがあった(ギャラリー大喜び)。
昔の、朝の客車列車では実はけっこう停まっていたりしたのかもしれないが、運良く停まったから飛び降りたという人もいただろうし、停まらなくても飛び降りてやろうという人もいたのではないだろうか。
線形や上下線間のスペースや障害物を把握し、速度を認識し、飛び降りるポイントとタイミングを見極める能力は必要だったはず。工業高校だけに、授業で学んだことが役に立ったかもしれない?


降りた後、どうやって学校へ向かったか。飛び降りるほどの人だから、なんとでもなったでしょうけど。
旭川の堤防から、工業のグラウンド(野球場)越しに奥羽本線を見ると、
左が泉踏切方向、右が橋。2012年のC61形蒸気機関車の下り試運転
旭川を渡るため、堤防のレベルに合わせた築堤を通っている。工業や家々よりも高い位置。校地とは斜面になっている。
余談だが、ここはカーブしているわりに、鉄道写真の撮影地にはなっていないのは、その高低差で撮影しづらいためだと思う。
【21日追記】「土崎カーブ」のように、撮影名所のカーブには通称が付けられることが多い。この記事のタイトルは「工業カーブ」としてしまったけれど独自のもので、合意形成されている呼び名ではない。「工業の線路がカーブした所」と言えば、地元の人なら伝わるとは思う。

今度は下り列車の前からの眺め。秋田駅から橋を渡ってカーブに入ると、
下り第一閉塞信号、左に野球場のスコアボードが見える
川近くではけっこうな高低差。
上りの信号付近
泉踏切近くでは、高低差が小さくなる。
線路と校地が接しており、間に通路などもないので【21日補足・部外者が入りこむ余地は少なく、溝などはありそうだけど、斜面や草むらでなんとなく区分され】、今でも厳重なフェンスなどがあるわけではない。昔はもっと緩かったかもしれない。

上下線間を泉踏切まで歩いて、線路外へ出るのが“安全”そうだけど、飛び降りるほどの人のこと。上り線を渡って、線路と校地の高低差を滑り降りて登校していたのかもしれない。
どちらにしても、線路内に立ち入ること自体、言うまでもなくとても危険。


そんなわけで、土崎方面からの上り列車で、降りる時限定の“通学手段”だったことになろう。
秋田駅から来る下り列車では、ある程度速度が出て(今の電車ではフルスピード、3月までのキハ40系でも70km/h程度には達していたか)いる地点だし、カーブ内側は柱が並び斜面であるので危険すぎる。また「飛び乗る」のは、ほぼ完全に停止していないとさすがに不可能だろうから、下校時は使えなかったのでしょう。


当時、カーブで飛び降りた人たちは、何のためにそうしたのか。
寝坊して遅い列車に乗ってしまって、秋田駅からでは遅刻必至だから?

時期的に合わないが、上記1987年3月の時刻表で、朝の通学時間帯の北線上りの客車列車を拾ってみる。時刻は秋田駅着(カッコは始発駅)。
(八郎潟)7時47分、(男鹿)7時52分、(東能代)8時03分の3本。
あとは、自動ドアで走行中は開けられない気動車が2本。次の客車は8時57分着(大館始発)だから、飛び降りたとしても遅刻。

8時03分着でも駅から間に合いそうだし、真面目な高校生だったであろう先生も乗り合わせていた列車だから、遅刻回避の飛び降りではなさそう。部活等で早く登校する必要などあったのもしれないが。
秋田駅で降りても間に合う列車なのに、秋田駅→学校の移動をラクするため、あるいは度胸試しとかカッコつけでやったのではないか。



ドアが手動の普通列車用客車は、雑多な形式をつないだ「旧型客車」と呼ばれるもの。僕は1981年に羽越本線で乗った思い出がある(関連記事)。
記憶にないが、当時は、冬以外ドアは開けっ放し、最後尾の貫通扉もチェーンを張ったくらいでスカスカだったそうだ。乗客の転落事故も少なくなかったという。
また、駅に停まり切らないうちにホームに降りたり、ちあきなおみの「喝采」にも歌われているように「動き始めた汽車にひとり飛び乗った」りするような行為も普通だったそうだ。今も海外の鉄道では見かける。
そんな中、このように駅でない所で飛び降りる行為も、全国的に横行し、無賃乗車を兼ねた者もいたようだ。

今では考えられないことだが、今も駅のホームドアの設置がなかなか進まないのと同じような事情があったのか。
2021年時点でも、SLなどイベント列車用にわずかに旧型客車が残っているが、保安要員を配置したり、秋田総合車両センターの技術で従前の雰囲気を残しつつ自動ドア改造されたり、対策されている。

国鉄は旧型客車の後継として、エンジ色塗装の「50系」客車を、1977年から全国に投入。秋田での正確な置き換え時期は不明【21日追記・いただいたコメントによれば、1985年3月改正で置き換えたとのこと】だが、上記の通り、秋田では80年代初めは旧型客車も走っていた。
50系ではドアが自動化された。転落事故防止のほか、飛び降り対策でもあったのだろう。
なお、50系客車は時代の変化に合わず、全国的に短命に終わった。秋田では奥羽本線・羽越本線は1993年で701系電車に置き換えられた。男鹿線の1往復が最後で1994年末で役目を終えた。


工業カーブでの飛び降りを実際に知る世代は、昭和40(1965)年前後生まれが最後ということになろう。
近年の秋田工業と線路の関わりとしては、SLが走った時に、グラウンドに生徒がふんしたナマハゲが現れて歓迎した。数年前には、測量の実習中と思われる生徒が、EV-E801系電車に手を振っていた(先生らしき人もいたけど、特にとがめず)。
何より、泉外旭川駅が開業して、飛び降りなくても秋田駅より近い乗降場所ができた。
線路と学校の位置関係は変わらないが、そこを通る列車も、通う人も、大きく変わった今となっては、昔話。

昔の列車の風景としては、これも先生から聞いた高校生当時の話で、1970年代初め頃、新屋駅のカーブしたホームで目が合った人に因縁を付けられたというのがあった。
ほとんど経験がない、昭和末期の旧型客車の旅。経験してみたいような、してみたくないような。かと言って、冷房があり、特急と遜色ない速度の701系電車で満足と、言いたいようで言いたくもなく…

【21日いただいたコメントより追記】カーブではなく、橋を渡ってさらに秋田駅寄りの、第一手形谷地町踏切(グランマート裏の保育所前)、第二手形谷地町踏切(手形陸橋そば、いちばん駅寄りの踏切)付近で飛び降りる高校生がいたとのこと。
上下線の間の空間は一般的な幅であり、秋田工業への徒歩距離は遠くはなる。しかし、工業横よりもかなり減速していて、第二踏切手前が場内信号なのでそこで停まる可能性もあり、第二踏切では外側に入換線があるので飛び降りられるスペースもある。カーブより現実的な場所かもしれない。

【6月6日追記】2021年春までは、秋田発の下りの電車(気動車でなく)では、旭川橋梁までに加速を終えてカーブに入るような運転だったはず。前回の記事の通り、この先に電力を供給する変電所の境界として架線に電気が流れていない区間(デッドセクション)があるのも理由(通電してセクションを通過すると、機器が壊れることがある)だろう。
【7月26日追記】2021年3月の泉外旭川駅開業以前はどうだったか知らないが、2021年春以降の下り電車では、橋を渡り終えてすぐ、軽くブレーキをかけて、すぐ解除することが多いようだ。カーブ~泉外旭川駅で減速が必要なのと、下り坂で加速してしまうのを抑える意味だろうか。
とある701系電車では数秒間2ノッチに入れていたが、意識しないと気付かない。EV-E801系電車では、加減速が一体化したワンハンドルマスコンのためか、性能・仕様上か、減速感がはっきり分かることが多い。

【9月16日追記】上りGV-E400系気動車での土崎→秋田の運転状況。泉外旭川停車時間を含めて、電車より1分多い10分かかる。
土崎発車後加速を続け、草生津川を渡る付近で95km/hに達し、ノッチオフ。惰行とブレーキで泉外旭川停車。
泉外旭川発車後、泉踏切手前付近・70km/h程度まで加速しオフ。惰行で工業カーブを通過し、(上り坂の影響か)60km/h程度まで落ちる。その後、多少再加速もしながら、秋田駅構内へ。
コメント (9)
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