🌸「応仁の乱」3(勝者がいない戦い)
⛳細川頼之の一番の政敵は、足利一門の名家斯波
☆三代将軍の義満は細川と蜜月関係にあった
☆四代将軍の義持は、斯波家と深い関係があった
☆細川グループと斯波グループの対立に発展
☆細川グループと斯波グループの対立に発展
*細川派はそのまま権力を持ち続ける
*斯波派は、義将の子どもの代から力を失っていく
*斯波派閥は山名グループとなる
☆結果、応仁の乱の細川対山名という対立
*西軍山名の支持は、義満に討伐された土岐や大内
*西軍山名の支持は、義満に討伐された土岐や大内
*東軍である細川の盟友は播磨の赤松と京極
☆西軍と東軍の顔ぶれ
*室町幕府ができた当初の対立構造
☆応仁の乱は人間関係が入り組む様にみえるが
*「細川対山名」の対立で、シンプルな組み合わせ
⛳代々引き継がれてきた「憎き細川」「憎き山名」の恨み
☆「あいつらが嫌いだ」の気持ち双方の心の中にくすぶっていた
☆双方は「憎き細川」「憎き山名」と恨みを持ち続けていた
☆両家には、そんな想いがくすぶつていた
*畠山家や将軍家の跡取り問題が起きた
*両者の積年の恨みに火がついた
☆幕府は、西軍と東軍という二つの陣営に分裂した
*双方の陣営に、細川Gと山名Gが味方し応仁の乱が起きた
⛳応仁の乱は11年続いた
☆理念なく、憎しみから戦った結果である
⛳応仁の乱は11年続いた
☆理念なく、憎しみから戦った結果である
☆当時の戦いは、本気で戦ったのなら、1日~2日で終わる
*天下の分け目の関ケ原の戦いも、1日で終わっている
*応仁の乱は、ダラダラと戦っていたので長期化した
☆東軍でも西軍は、本気で「戦った」と言えない
☆東軍でも西軍は、本気で「戦った」と言えない
*大名たちは、戦いで死んでいない
*全員、戦場ではなく、畳の上で死んでいる
*全員、戦場ではなく、畳の上で死んでいる
☆応仁の乱を「戦い」と呼んでいいのかは、疑問が残る
⛳応仁の乱には勝者はいない
☆東軍と西軍の勝者、東軍が勝利したのだと考えられる
☆しかし既に、室町幕府は屋台骨が崩壊していた
*細川家の覇権は長くは続かなかった
☆結果的に応仁の乱には勝者はいない
☆室町時代の政権構造
☆結果的に応仁の乱には勝者はいない
☆室町時代の政権構造
☆鎌倉幕府の北条氏のように室町幕府は細川の影響が色濃い
☆「細川政権」だった可能性が高い
(敬称略)
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⛳出典、『日本史の論点』
「応仁の乱」3(勝者がいない戦い)
(ネットより画像引用)
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