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「応仁の乱」3(勝者がいない戦い)

2021年11月14日 | 歴史
🌸「応仁の乱」3(勝者がいない戦い)

細川頼之の一番の政敵は、足利一門の名家斯波
 ☆三代将軍の義満は細川と蜜月関係にあった
 ☆四代将軍の義持は、斯波家と深い関係があった
 ☆細川グループと斯波グループの対立に発展
 *細川派はそのまま権力を持ち続ける
 *斯波派は、義将の子どもの代から力を失っていく
 *斯波派閥は山名グループとなる
 ☆結果、応仁の乱の細川対山名という対立
 *西軍山名の支持は、義満に討伐された土岐や大内
 *東軍である細川の盟友は播磨の赤松と京極
 ☆西軍と東軍の顔ぶれ
 *室町幕府ができた当初の対立構造
 ☆応仁の乱は人間関係が入り組む様にみえるが
 *「細川対山名」の対立で、シンプルな組み合わせ

代々引き継がれてきた「憎き細川」「憎き山名」の恨み
 ☆「あいつらが嫌いだ」の気持ち双方の心の中にくすぶっていた
 ☆双方は「憎き細川」「憎き山名」と恨みを持ち続けていた
 ☆両家には、そんな想いがくすぶつていた
 *畠山家や将軍家の跡取り問題が起きた
 *両者の積年の恨みに火がついた
 ☆幕府は、西軍と東軍という二つの陣営に分裂した
 *双方の陣営に、細川Gと山名Gが味方し応仁の乱が起きた

⛳応仁の乱は11年続いた
 ☆理念なく、憎しみから戦った結果である
 ☆当時の戦いは、本気で戦ったのなら、1日~2日で終わる
 *天下の分け目の関ケ原の戦いも、1日で終わっている
 *応仁の乱は、ダラダラと戦っていたので長期化した
 ☆東軍でも西軍は、本気で「戦った」と言えない
 *大名たちは、戦いで死んでいない
 *全員、戦場ではなく、畳の上で死んでいる
 ☆応仁の乱を「戦い」と呼んでいいのかは、疑問が残る

⛳応仁の乱には勝者はいない
 ☆東軍と西軍の勝者、東軍が勝利したのだと考えられる
 ☆しかし既に、室町幕府は屋台骨が崩壊していた
 *細川家の覇権は長くは続かなかった
 ☆結果的に応仁の乱には勝者はいない
 ☆室町時代の政権構造
 ☆鎌倉幕府の北条氏のように室町幕府は細川の影響が色濃い
 ☆「細川政権」だった可能性が高い
                        (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『日本史の論点』


「応仁の乱」3(勝者がいない戦い)
(ネットより画像引用)

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