gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがあるが、随分前に書き込んだ古い記事で、すっかり忘れてしまっているような記事に、アクセスが有ったりする。「エッ?」と驚くと同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりすることがある。
先日、もう7年も前、2015年12月5日に、ブログ・カテゴリー「懐かしいあの曲」に書き込んでいた記事、「青い山脈」にアクセスが有ったことに気が付き、「おお!、懐かしい!」・・、早速、コピペ、リメイクしてみた。
そんな古い記事を、クリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。
振り返り記事
2015年12月5日
「青い山脈」
昭和20年代から30年代、M男の家は、北陸の山村に有って、まだまだ貧しい暮らしが続いていた。戦後の復興は、目覚しかったと言われているが、「表日本」と「裏日本」(当時は、そう呼ばれていた気がするが)の経済格差、暮らしぶりの差は、かなり有ったように思う。
池田内閣が、所得倍増計画を打ち出す前の年代であり、M男が、小学生高学年、中学生の頃の話である。東北や北陸の農村の中学卒業生は、「金の卵」等と呼ばれて、東京園、大阪園等、大都市園へ集団就職が始まっていた頃でもある。
それでも、M男が暮らしていた山村から5~6キロ離れた小さな町にも、映画館が2館も出来ていて、映画全盛期を迎えようとしていたように思う。
まだまだ、映画を見に行くことさえ、「不良」等という目で見られていた土地柄、時代ではあったが、「文部省推薦映画」だけは、学校から許可が出て、M男達も映画館に行くようにはなっていた。
ただ、当時の農村の大人達には、映画館等に足を運ぶ時間的、経済的余裕は無く、また、近所の目も有り 昼間、映画を見に行くこと等、とんでもないという空気もあったように思う。
年中無休、娯楽も少なかった農民に、映画を見る機会を作ろうと、地元の青年団やPTAの有志が 立ち上がり企画したのではないかと思われるが、年に数回、村の学校の小さな体育館で、夜、映画会が催されるようになっていた。
それは、隣りの町の映画館で上映中のフィルムと映写機を、上映終了後の時間帯に、一時的に借りてきて上映するというものだったのだと思う。
映画会がある日は、農作業を早めに切り上げて、夕方、大人も子供も家族総出で、学校に参集、茣蓙が敷かれた体育館は、びっしり満員となり、わいわいがやがや・・、待機するのである。
「今、映画館から、こちらに向かって、フィルムを運んでいるところです。もうちょっと待って下さい」等というアナウンスもあったような気もする。
映写機は 地元の大工が作ったような類の卓球台の上に設置され 「機械に強い」と 自他共認めていた 中学のI先生が 四苦八苦 セットしていた姿が思い出される。
どんな映画が上映されたのか等、ほとんど記憶に残っていないが、
なんとなく印象に残っている白黒映画に、三益愛子主演の母物シリーズ?が有った。
お涙頂戴映画だった気がするが、年寄りには好評だったようで、後日、近所のおばあさん達が、よるとさわると「良かったね」等とうなづきあっている光景が見られた。
そして、M男が中学2年~3年の頃のある日の映画会では、それまで上映された映画とは、まるで違う映画が上映され、いまだにその感動を忘れない。
それは、総天然色映画、シネマスコープ・・・・等とうたった「青い山脈」だった。
石坂洋二郎原作、「青い山脈」は、戦後、何度も映画化され、昭和を代表する作品となっているようだが、今更になってネットで調べてみると、その映画会で上映されたのは、第2作目の、司葉子、宝田明、雪村いずみ、久保明、淡路恵子、水谷良重、草笛光子等が出演した、1957年版(昭和32年版)だった。
体育館に反響する大音響の主題歌「青い山脈」・・・・、
大型スクリーン、鮮烈なカラー・・・・、
戦後の暗い暮らし、田舎の因習、を吹き飛ばしてくれるような迫力・・・
青春、憧れ、初恋、夢、希望・・・、いろんな要素が重なって、感動が増幅、
多感な少年が、まだまだ貧しかった暮らしの中、粗末な会場で見た「青い山脈」だったからこそ とてつもなく、大きく、鮮烈に 脳裏に焼きついたのだと思う。
毎回、映画会が終わる時刻は、かなり遅くなるため、幼児はおんぶされ、外灯の無い暗い田んぼ道を、近所同士、三々五々黒い塊となって、家路についたものだが、そんな情景までが思い出される。まだまだ、現実は、映画のように明るくは無かったのだ。
今年(2015年)、9月5日に、昭和を代表する映画女優と言われる原節子さんが亡くなられた。原節子さんは、今井正監督の「青い山脈」第1作目に出演されたことでも知られており、打ちひしがれた戦後日本に、明るさと元気を与えた映画として語り継がれているが、M男にとっては、 映画「青い山脈」と言えば、どうしても、第2作目なのである。
主題歌の「青い山脈」は、1949年(昭和24年)に、作詞 西條八十、作曲 服部良一、唄 藤山一郎・奈良光枝で発表された歌謡曲だが、今でも「国民的愛唱歌」、「昭和の歌・心に残る100第1位」となっている。
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