十年ちょっと前のこと。勤務していた学校で、定年まであと数年の先輩が、定年を待たずに退職した。
退職がおおやけになった後、『なんでですか』と、ずうずうしく尋ねた。先輩はちょっと困った顔をしていたが、いろいろ説明してくれた。
熟慮の末の決断であるが、退職の意思・決意は、徐々にではなく、ある日突然という感じとのこと。一番印象に残るのは、『心にストンと落ちてきてた。固まった。』という言葉だった。なんとなくfluidだったものが、ある日の朝突然solidになった。そんなことを教えてくれた。
埼玉県の公立学校教員は、次年度当初人事異動にむけて、毎年9月末までに人事調書(転勤等希望表明、意思表示)を提出する。その先輩は前年末には退職を考え始めていたとのことだ。
***** *****
僕は公務員、学校の先生。仕事をする。がんばる。自分のよりどころは一体全体何だろう。先輩の年齢に近くなり、考えることががよくある。
先生という仕事が好きだ。生徒の成長とともに生きていたい。少なくともそう思えるのは大前提として、、、
・仕事の対価としての収入・評価 時間的な余裕
・達成感や充実感
・公務員としての責任感
一つ目は非常に現実的なこと。僕たちは先生になるために、先生であり続けるために時間とコストをかけている。安定的なパフォーマンスを、40年近く維持するためには、ちゃんと生活できなくてはダメだろう。様々な意味で余裕が必要なのだ。
二つ目は日々の仕事の達成感。退職した時に感じるであろう、達成感を信じていること。信じたいこと。残りの人生の充実感への期待である。
三つ目は当たり前のこと。ただ、ここ20年余りの公務員組織への不信に対する反発の裏返しでもある。
(もちろん、まっとうな批判は甘んじてうける。)
別のものもあるかもしれない。でも、これらが僕の背中を押してくれている。だから、教師として歩むことが出来る。現実問題として毎日勤務ができる。僕はそんな感じがしていた。でも、なんだかここ10年ほど、違うのかなと思い始めている。
・・・自分のブログにたまに不満、不安が顔を出すのである。
***** *****
どう違うのかはうまく言えない。ただ、実は歩んでいるのではなく、これらに周りを支えられて、立っている。そう思うようになっているのだ。だから、どれかが失われたり揺らいだりすると、ばったり倒れる気がするのだ。
三つは背中を押すものではなく、倒れないための添え木、つっかい棒。そういうイメージである。
では、僕自身は何で立っているのか。実はこれもよくわからない。こんな風に考えることもある。
三つは僕本体ではないのか。だれも背中を押してはいないし、つっかい棒ですらない。これらのバランスが崩れたら、アウトである。一つ目への納得が揺らいだり、二つ目が信じられなくなったり、三つ目ががイヤになったら、もう先がない。続けられないのではないか。
Being a teacher is tough.
よくわからなくなってきた。自分のブログを読んでみると、いろいろ悩んでいるのがわかる。ブログがあってよかった。いろいろな感情を(はき)出せる場所があるのは、助かる。