全英連参加者のブログ

全英連参加者の、言葉やその他諸々についての雑感... 不定期更新です。

MISSION IMPOSSIBLE / ACTION UNBELIEVABLE

2015-08-22 04:00:00 | 全英連参加者 2015
 Ethan and team take on their most impossible mission yet, eradicating the Syndicate - an International rogue organization as highly skilled as they are, committed to destroying the IMF.
 IMDbの作品紹介より。
MI ROGUE NATION

+++++ ++++

 このシリーズ、主演のトム・クルーズが「どこまで行くのか」不安になるけど、期待はどんどん高まる。彼は前作で「ブルジュ・ハリファ」の壁面を上るシーンをスタントなしで撮影している。事前公開のメイキング映像でも、トム、体をはりすぎの印象をうける。でも、問題は本編である。「予告編、PVが本編よりもよかった*」というお話しは、枚挙に暇がない。今度はどうだろうかと思っていたけど、やっぱりすごかった。彼は期待を裏切ることはなかった。

 一つだけネタばらしをする。
 イーサン・ハントが輸送機のドアにしがみついたまま... のシーンがある。あのものすごいショットがそんなに長くない。前作の壁面よじ登りくらいの長さなのかなと思っていたけど、そうではない。
 あらすじはウェブサイト、IMDbの作品紹介を読んでもらうとして、キャラクター(役者さん)のこと、ガジェットのことを書こうと思う。

 イーサン・ハント(トム・クルーズ)
 第1作(1996年)からもうすぐ20年。あたりまえだけど、トムも年をとる。昔に比べたら、さすがに体つきは変わった。でも、あんなに動けてしまう。どうなっているのか不思議なくらいである。
 今回も不死身で無敵でスーパーな、イーサン・ハント。もはやトム・クルーズの分身・アバターである。

 ベンジー・ダン(サイモン・ペッグ)
 ペッグが演じる天才技術屋ベンジーは、MI第3作から登場。彼はリブートのスター・トレックのスコッティーもいいが、MIのベンジーは、はまり役である。彼が画面に出てくると、どんな緊迫した場面でもなんだか面白くなる。もちろん、ものがたりが緩むということではない。ひょっとして、MIの中で一番おいしいキャラクターではないか。

 ウイリアム・ブラント(ジェレミ・レナー)
 前作から登場のエージェント・ブラント。前作は途中で実は...という姿を見せた。今回はフィールド・エージェントというよりも、分析官である。

 スーサー・スティッケル(ヴィンス・レイムズ)
 今回出番が少ない。でも、いいところで出てきて、ものがたりにアクセントが付く。前作には登場していないので、ブラントとは初仕事。ふたりのからみが、いい意味でぎこちない。

 イルサ・ファウスト(レベッカ・ファーガソン)
 今回のヒロイン。イーサンの味方なのか敵なのかずーっとわからないままものがたりが進む。初めて見る女優さん。注目である。

+++++ +++++

 007シリーズもそうだが、MIの小道具の凝りようが、今回も見ていて楽しい。
 今から半世紀前、オリジナルのスター・トレックが放送されていた。その中で登場した二つ折りの無線機(コミュニケーター)、横たわると体の中が見えるバイオベッド。音声命令可能な電子機器。これらは、形をそのまま、もしくはちょっと代えて現実社会に登場した。MIも様々な小道具が出てくる。それらのどれかが10年後、日常の道具として僕たちの目の前に登場しそうだ。メガネ型の無線機などは、ほぼ実用化できそうだ。

 ストーリーの満足度は、、、、いいと思います。
 夏休みの最後はMIでどうでしょう。結構自信を持っておすすめできる。

 しかし、イーサン・ハントは次はどうするんだろう。次は宇宙かな。

 (文中敬称略)

+++++ +++++

 *アメリカのサイトでWatchMojo.comというものがある。様々な分野のトップ10をリストアップして、YouTubeで公開している。その中に「本編よりも予告編がよかった10本」というリストがある。


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流れをくむ

2015-08-21 04:00:00 | 気になる 地方自治・行政

 平成27年夏の甲子園は、8月20日、神奈川代表・東海大相模の優勝で幕をとじた。
 今夏の京都代表は、京都府立伏見高等学校。同校は旧制京都府立京都第二中学校の「流れをくむ」学校と紹介される。この言い方、埼玉県の県立高校の先生としては、なんだか奥歯にものが挟まったように聞こえた。何が「流れをくむ」なのか、調べてみることにした。
 同校ウェブサイトの「鳥羽高校の歴史」を読むと、以下のようにまとめられている。

 明治33年(1900年)4月1日
 京都府第二中学校として創立。
 同年9月
 京都府立第二中学校と改称。
 大正4年(1915年)8月23日
 第一回全国中等学校優勝野球大会で優勝。
 大正7年(1918年)4月1日
 京都府立京都第二中学校と改称。
 昭和6年(1931年)
 創立30周年。

 (第二次世界大戦後、学制改革)

 昭和23年(1948年)4月1日
 京都府立洛南高等学校設置。
 京都府立鳥羽高等学校〔夜間〕(旧校名京都府立上鳥羽中学校)設置。
 同年10月15日
 新制高等学校の再編成にともない京都府立洛南高等学校廃止。
 同・鳥羽高等学校廃止。

 この段階で旧制第二中学の後継学校である府立洛南高校は消滅したことになる。調べてみたが、同校の統合先は見つからなかった。
 府立鳥羽高等学校は府立朱雀高等学校に移管。鳥羽分校定時制課程に。府立朱雀高校は旧制府立第二高等女学校の後継学校である。昭和23年度に設置されている。
 府立鳥羽高等学校は昭和10年(1935年)設置の京都府立夜間中学を元とするもの。(この部分現鳥羽高校・定時制課程ウェブサイト「鳥羽定の歴史」より)

 現在の鳥羽高校は、昭和58年(1983年)に京都市地区・府立新設高校の設置が決まり、開設準備をスタート。昭和59年(1984年)に京都府立鳥羽高等学校が開校。30年以上の空白期間を経て、旧府立鳥羽高校の名称が、全日制課程の学校名として復活した。同時に朱雀高校鳥羽分校を廃止、府立鳥羽高校定時制課程を設置、現在に続いている。
 なお、同校は平成12年(2000年)に京二中・鳥羽高校創立百周年記念式典、平成25年(2013年)に鳥羽高校としての創立30周年記念式典を挙行している。

+++++ +++++

 公立学校ならばどこでもとは言い切れないが、埼玉県ならば事務引継校というものがある。複数学校統合により新校が設置される場合、統合された学校は、統合前の生徒が卒業した段階で「廃校」になる。廃校後も学校が永久保存するべき書類は、統合後発足する新校が事務引継校になる。ただ、これはあくまでも事務の引継であり、学校が継続していることにはならない。
 第二次世界大戦後の学制改革で旧制中学校・高等女学校が、現在制度の高校に移行された場合などは、後継校として一般的には学校が継続していると見做されることが多いのではないか。沿革史に、こんな風に書かれているのをよく見かける。

 本校は旧制〇〇中学校と〇〇高等女学校が昭和23年に統合開校した。本校はこれらを前身とし、本年度で創立〇〇である。
 本校は旧制〇〇中学校を前身とする学校である。等々

 京都府の府立高校の設置がどうなっているか、埼玉県の公立高校教諭にはわからない。
 洛南高校(廃校)と鳥羽高校の事務引継校は、埼玉県の県立高校再編時の扱いで考えれば、朱雀高校である。洛南高校の分は朱雀高校の全日制、鳥羽高校の分は、朱雀高校(本校)でもよさそうだが、場所が離れているので、そのまま分校として引き継いだのかもしれない。ひょっとすると、洛南高校の分も鳥羽分校がそのまま引き継いだのかもしれない。いずれにしても、沿革を読む限り、かなりめずらしい例だと思う。

 勉強になりました。

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ILEC、今年も終わりました。

2015-08-20 16:24:04 | 教師の研修 2015

 甲子園決勝と、ILEC夏季セミナーが終わると、もうすぐ2学期です。今週中に研修報告書まとめたいと思います。
 毎年のことだけど、会場名が「サンプラザ。。。」に思えてならない。(^_^;)


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LUNCH BREAK

2015-08-20 11:38:09 | 教師の研修 2015

 ILEC夏季セミナー、午前の部終了。これからお昼です。
 ・・・雨は降ってなさそうだ。


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中野サンプラザ到着。

2015-08-20 09:11:12 | 教師の研修 2015

 研修。。。参加費+交通費を出している。速攻性のある技能を求めてはいない。それがすぐできるなら、苦労はない。あと数年の教師生活で生かせる「何か」の元・種さがし。ちゃんと勉強だ。


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2015年夏の勉強日 その2

2015-08-20 04:00:00 | 教師の研修 2015
 今日は中野サンプラザに出向きます。『ILEC言語教育文化研究所夏季セミナー』に参加します。


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全英連参加者、さいたま新都心のH&Mでお買いものをする。

2015-08-19 04:00:00 | 全英連参加者 2015

 よく映画を見る劇場のひとつに、さいたま新都心COCOON CITYのMovixさいたまがある。過去何度となくブログで取り上げている。

 2015年、COCOON CITYが大きく姿を変え、COCOON 1、2、3の三つになった。これまでは映画を見るためだけに出かけていたのだが、映画の前後になんとなくCOCOON 2も見て回るようになった。3はヨドバシカメラが出店。こっちはまだ、混んでいるので出かけていない。

POLO 過日映画を見たあとで、2に出店した「H&M」に入ってみた。全く知らなかったことなのだが、「H&M」には男物があるのだ。ポロシャツを1枚買ってみた。
 次に映画を見に行く時、隣のFOREVER 21ものぞいてみようかな。


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平成27年度の学校基本調査を読んでみる。

2015-08-18 04:00:00 | 気になる 学校の問題
学校基本調査 ロゴ  毎年実施の文部科学省の学校基本調査、速報値が8月6日付で公表された。

 毎年読んでいる資料、気になる項目についてブログに書いている。自分は高校の先生なので、高校生に関する数値や教職員に関することがらが気になる。でも、今年はそうでないことについて、資料をチェックした。それは「居所不明者数」である。

 報道発表資料(Ⅳ 1年以上居所不明者数の状況)に、『1年以上居所不明者数は123人で,平成23年度調査以降,4年連続で減少傾向。』とある。人数を見てみよう。

 H.23 1,191(855,336)
 H.24 976(704,272)
 H.25 705(498,207)
 H.26 383(239,144)
 H.27 123(76,47)

 左から、「調査年度」「居所不明者数(学齢児童、学齢生徒)」である。

 減っているとは言え、まだ123名わからないのである。
 123名のうちには、無届けで就学義務免除の状態になっているものもあると思う。ただ、ホントに行方不明もいるだろう。これらに加えて、無戸籍の学齢児童生徒の問題もある。無戸籍ではデータにも載らない。
 日本は気がつかないうちに、とんでもないことになっているのだ。

+++++ +++++

 統計資料は「学校基本調査(政府統計の総合窓口(e-Stat)のホ-ムペ-ジへリンク) 」で閲覧できる。


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J2第29節・大宮対愛媛 J3第26節・町田対藤枝

2015-08-17 04:00:00 | 全英連参加者 2015

 J2 第29節
 大宮アルディージャは、前節8月8日(土)、栃木SCと、対戦1対0で勝利。28試合で21勝4分3敗で首位。
 今節15日(土)はアウェイゲーム、第11節に1対0で勝利している愛媛FCとのオレンジ対決である。

愛媛 vs. 大宮

【得点】
 前半:近藤貴司(愛媛,29min)
    瀬沼優司(愛媛,31min)
 後半:内田健太(愛媛,63min)
    家長昭博(大宮,76min)

 大宮は21勝4分4敗、勝ち点66。得点54失点18、得失点差36で首位。2位の磐田も負けたので、勝ち点差は変わらない。
 次節8月23日は、ザスパクサツ群馬とのホームゲームである。

+++++ +++++

 J3 第26節
 町田ゼルビアは、前節9日、SC相模原と対戦、1対0で勝利。23試合で14勝6分3敗で2位。
 今節16日は、藤枝MYFCとのホームゲームである。今節を終えると、J3はしばらく試合がない。

町田 vs. 藤枝

【得点】
 前半:得点なし。
 後半:森村昂太(町田,54min)
    宮崎泰右(町田,64min)
    鈴木崇文(町田,70min)
    星野悟(町田,88min)

 シーズン36試合のJ3リーグ戦。これで3分の2が終了。残り12試合。
 今節は山口○、町田○、長野●、相模原△である。
 上位4チームの状況は以下の通り。
 1位 山口 20勝1分3敗、勝ち点61。得点70失点20、得失点差50
 2位 町田 15勝6分3敗、勝ち点51。得点35失点11、得失点差24
 3位 長野 14勝3分7敗、勝ち点45。得点27失点17、得失点差10
 4位 相模原 12勝5分7敗、勝ち点41。得点34失点23、得失点差11

 リーグ戦再開は9月5日(土)である。日程を再確認しよう。
 hはホーム、aはアウェイゲームである。特記がない場合は、日曜日開催。

 第27節 9/5(土) 横浜 a
 第28節 9/13 盛岡 a
 第29節 9/20 山口 h
 第30節 9/23(水) Jリーグ選抜 h
 第31節 9/27 藤枝 a
 第32節 10/4 試合なし。 
 第33節 10/11 富山 h
 第34節 10/18 相模原 h
 第35節 10/25 琉球 a
 第36節 11/1 福島 h
 第37節 11/8 鳥取 a
 第38節 11/15 秋田 h
 第39節 11/23(月) 長野 a


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なつやすみのじゆうけんきゅう

2015-08-16 04:00:00 | 全英連参加者 2015
自由研究2015ロゴ  来年3月、東武アーバンパークライン(野田線)大宮~春日部間に急行運転が始まります。
 実態としては「各駅停車じゃない運転」だと思いますが、急行停車駅はどこか、まだ公式発表、非公式なうわさとも聞こえてきません。大宮駅の平日時刻表を見て、考えてみました。
5 25 40 51                  
                 
6 0 9 15 24 32 41 45 50 58      
     
7 3 9 14 19 24 29 33 38 42 47 52 56
8 1 5 10 15 19 25 30 35 43 48 53  
 
9 3 13 20 27 35 45 55          
         
10 5 15 25 35 45 55            
           
11 5 15 25 35 45 55            
           
12 5 15 25 35 45 55            
           
13 5 15 25 35 45 55            
           
14 5 15 25 35 45 55            
           
15 5 15 25 35 45 55            
           
16 5 15 25 35 45 55            
           
17 4 14 22 30 39 49 58          
         
18 5 12 20 27 35 42 50 59        
       
19 6 13 21 29 36 43 51 59        
       
20 5 14 24 36 44 54            
           
21 4 16 26 36 46 56            
           
22 7 18 28 38 46 59            
           
23 10 25 40 55                
               
24 10 17                    
                   

 駅名略称は以下の通り。カッコ内は本数です。
 船:船橋駅(3) 七:七光台駅(7) 春:春日部駅(14) 岩:岩槻駅(3)
 柏:柏駅(104)
 全部で131本あります。

+++++ +++++

 小学生の頃に、旧大宮市に転居して以来、僕はずっと野田線沿線住民です。でも、沿線住民=野田線利用者とは限りません。大学を卒業後、埼玉県の県立高校の先生になりました。沿線駅が最寄り駅の学校に勤務したことは一度ありません。大宮駅を経由して通勤する場所の学校でも、大宮駅まではバスで出ていたこともあります。初任校へは2年半バイク通勤でした。
 以前ブログに書いたことですが、野田線の大宮~春日部の完全複線化(東岩槻~春日部複線化完了)は2004年です。それまでの野田線は大宮発岩槻行きが非常に目立つダイヤでした。だから、今回調べてみて、岩槻止まりが1日3本というのには、ちょっとビックリでした。また、春日部止まりが14本もあるのも驚きでした。なんとなくの思い込みがあったのだと思います。
 さて、朝の通勤時間帯(午前6時から8時)大宮駅発は32本(9+12+11)あります。このうち岩槻止まり1本以外がすべて春日部まで来ます。31本中11本が春日部止まりです。
 6時台、春日部大宮行きは10本。そのうち2、9、50、59分の4本、7時台は13本で17、27、45、54分の4本、8時台は8本で4分の1本が、春日部始発大宮行きです。全部で9本です。なんとなく、ホントになんとなくですが、この3時間で春日部止まりの11本のうち、1時間で2本程度が大宮発、たぶん岩槻停車、春日部経由、スカイツリーライン乗り入れの列車のはめ込み場所になりそうな気がします。また、春日部発大宮行きの始発駅が、スカイツリーラインのどこかになるのではないでしょうか。

 朝の通勤時間帯以外、日中・夕方から夜の通勤時間帯はどうなるんだろうと考えてみましたが、よくわかりませんでした。ダイヤ改正を楽しみに待とうと思います。


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2015年8月15日 その3

2015-08-15 12:00:00 | 全英連参加者 2015

 全国戦没者追悼式における天皇陛下のお言葉

 「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。

 終戦以来既に70年,戦争による荒廃からの復興,発展に向け払われた国民のたゆみない努力と,平和の存続を切望する国民の意識に支えられ,我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。戦後という,この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき,感慨は誠に尽きることがありません。

 ここに過去を顧み,さきの大戦に対する深い反省と共に,今後,戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い,全国民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,心からなる追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。


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2015年8月15日 その2

2015-08-15 06:00:00 | 気になる 政治・政治家

平成27年8月14日 内閣総理大臣談話

〔閣議決定〕

 終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

 そして七十年前。日本は、敗戦しました。

 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。

 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。

 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。

 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。

 ですから、私たちは、心に留めなければなりません。

 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。

 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。

 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。

 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。

 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

平成二十七年八月十四日
内閣総理大臣 安倍晋三

+++++ +++++

Statement by Prime Minister Shinzo Abe

Friday, August 14, 2015

Cabinet Decision

On the 70th anniversary of the end of the war, we must calmly reflect upon the road to war, the path we have taken since it ended, and the era of the 20th century. We must learn from the lessons of history the wisdom for our future.

More than one hundred years ago, vast colonies possessed mainly by the Western powers stretched out across the world. With their overwhelming supremacy in technology, waves of colonial rule surged toward Asia in the 19th century. There is no doubt that the resultant sense of crisis drove Japan forward to achieve modernization. Japan built a constitutional government earlier than any other nation in Asia. The country preserved its independence throughout. The Japan-Russia War gave encouragement to many people under colonial rule from Asia to Africa.

After World War I, which embroiled the world, the movement for self-determination gained momentum and put brakes on colonization that had been underway. It was a horrible war that claimed as many as ten million lives. With a strong desire for peace stirred in them, people founded the League of Nations and brought forth the General Treaty for Renunciation of War. There emerged in the international community a new tide of outlawing war itself.

At the beginning, Japan, too, kept steps with other nations. However, with the Great Depression setting in and the Western countries launching economic blocs by involving colonial economies, Japan's economy suffered a major blow. In such circumstances, Japan's sense of isolation deepened and it attempted to overcome its diplomatic and economic deadlock through the use of force. Its domestic political system could not serve as a brake to stop such attempts. In this way, Japan lost sight of the overall trends in the world.

With the Manchurian Incident, followed by the withdrawal from the League of Nations, Japan gradually transformed itself into a challenger to the new international order that the international community sought to establish after tremendous sacrifices. Japan took the wrong course and advanced along the road to war.

And, seventy years ago, Japan was defeated.

On the 70th anniversary of the end of the war, I bow my head deeply before the souls of all those who perished both at home and abroad. I express my feelings of profound grief and my eternal, sincere condolences.

More than three million of our compatriots lost their lives during the war: on the battlefields worrying about the future of their homeland and wishing for the happiness of their families; in remote foreign countries after the war, in extreme cold or heat, suffering from starvation and disease. The atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki, the air raids on Tokyo and other cities, and the ground battles in Okinawa, among others, took a heavy toll among ordinary citizens without mercy.

Also in countries that fought against Japan, countless lives were lost among young people with promising futures. In China, Southeast Asia, the Pacific islands and elsewhere that became the battlefields, numerous innocent citizens suffered and fell victim to battles as well as hardships such as severe deprivation of food. We must never forget that there were women behind the battlefields whose honour and dignity were severely injured.

Upon the innocent people did our country inflict immeasurable damage and suffering. History is harsh. What is done cannot be undone. Each and every one of them had his or her life, dream, and beloved family. When I squarely contemplate this obvious fact, even now, I find myself speechless and my heart is rent with the utmost grief.

The peace we enjoy today exists only upon such precious sacrifices. And therein lies the origin of postwar Japan.

We must never again repeat the devastation of war.

Incident, aggression, war -- we shall never again resort to any form of the threat or use of force as a means of settling international disputes. We shall abandon colonial rule forever and respect the right of self-determination of all peoples throughout the world.

With deep repentance for the war, Japan made that pledge. Upon it, we have created a free and democratic country, abided by the rule of law, and consistently upheld that pledge never to wage a war again. While taking silent pride in the path we have walked as a peace-loving nation for as long as seventy years, we remain determined never to deviate from this steadfast course.

Japan has repeatedly expressed the feelings of deep remorse and heartfelt apology for its actions during the war. In order to manifest such feelings through concrete actions, we have engraved in our hearts the histories of suffering of the people in Asia as our neighbours: those in Southeast Asian countries such as Indonesia and the Philippines, and Taiwan, the Republic of Korea and China, among others; and we have consistently devoted ourselves to the peace and prosperity of the region since the end of the war.

Such position articulated by the previous cabinets will remain unshakable into the future.

However, no matter what kind of efforts we may make, the sorrows of those who lost their family members and the painful memories of those who underwent immense sufferings by the destruction of war will never be healed.

Thus, we must take to heart the following.

The fact that more than six million Japanese repatriates managed to come home safely after the war from various parts of the Asia-Pacific and became the driving force behind Japan’s postwar reconstruction; the fact that nearly three thousand Japanese children left behind in China were able to grow up there and set foot on the soil of their homeland again; and the fact that former POWs of the United States, the United Kingdom, the Netherlands, Australia and other nations have visited Japan for many years to continue praying for the souls of the war dead on both sides.

How much emotional struggle must have existed and what great efforts must have been necessary for the Chinese people who underwent all the sufferings of the war and for the former POWs who experienced unbearable sufferings caused by the Japanese military in order for them to be so tolerant nevertheless?

That is what we must turn our thoughts to reflect upon.

Thanks to such manifestation of tolerance, Japan was able to return to the international community in the postwar era. Taking this opportunity of the 70th anniversary of the end of the war, Japan would like to express its heartfelt gratitude to all the nations and all the people who made every effort for reconciliation.

In Japan, the postwar generations now exceed eighty per cent of its population. We must not let our children, grandchildren, and even further generations to come, who have nothing to do with that war, be predestined to apologize. Still, even so, we Japanese, across generations, must squarely face the history of the past. We have the responsibility to inherit the past, in all humbleness, and pass it on to the future.

Our parents’ and grandparents’ generations were able to survive in a devastated land in sheer poverty after the war. The future they brought about is the one our current generation inherited and the one we will hand down to the next generation. Together with the tireless efforts of our predecessors, this has only been possible through the goodwill and assistance extended to us that transcended hatred by a truly large number of countries, such as the United States, Australia, and European nations, which Japan had fiercely fought against as enemies.

We must pass this down from generation to generation into the future. We have the great responsibility to take the lessons of history deeply into our hearts, to carve out a better future, and to make all possible efforts for the peace and prosperity of Asia and the world.

We will engrave in our hearts the past, when Japan attempted to break its deadlock with force. Upon this reflection, Japan will continue to firmly uphold the principle that any disputes must be settled peacefully and diplomatically based on the respect for the rule of law and not through the use of force, and to reach out to other countries in the world to do the same. As the only country to have ever suffered the devastation of atomic bombings during war, Japan will fulfil its responsibility in the international community, aiming at the non-proliferation and ultimate abolition of nuclear weapons.

We will engrave in our hearts the past, when the dignity and honour of many women were severely injured during wars in the 20th century. Upon this reflection, Japan wishes to be a country always at the side of such women’s injured hearts. Japan will lead the world in making the 21st century an era in which women’s human rights are not infringed upon.

We will engrave in our hearts the past, when forming economic blocs made the seeds of conflict thrive. Upon this reflection, Japan will continue to develop a free, fair and open international economic system that will not be influenced by the arbitrary intentions of any nation. We will strengthen assistance for developing countries, and lead the world toward further prosperity. Prosperity is the very foundation for peace. Japan will make even greater efforts to fight against poverty, which also serves as a hotbed of violence, and to provide opportunities for medical services, education, and self-reliance to all the people in the world.

We will engrave in our hearts the past, when Japan ended up becoming a challenger to the international order. Upon this reflection, Japan will firmly uphold basic values such as freedom, democracy, and human rights as unyielding values and, by working hand in hand with countries that share such values, hoist the flag of “Proactive Contribution to Peace,” and contribute to the peace and prosperity of the world more than ever before.

Heading toward the 80th, the 90th and the centennial anniversary of the end of the war, we are determined to create such a Japan together with the Japanese people.

 

August 14, 2015
Shinzo Abe, Prime Minister of Japan


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2015年8月15日

2015-08-15 00:00:00 | 全英連参加者 2015

 玉音放送のあの日から丸70年である。
 宮内庁は今月1日、『当庁が管理する先の大戦関係の資料について』として、戦後70年にあたり、同庁管理の大戦関係資料を公表した。

+++++ +++++

 宮内庁ウェブサイトを調べると、いわゆる玉音放送音源と、大東亜戦争終結に関する詔書が掲出・公開されていた。
 終戦の玉音放送は部分的には聞いたことがある。報道によれば、約4分40秒あった従来の音源より10秒ほど短く、昭和天皇の声がやや高く聞こえるという。天皇皇后両陛下、皇太子殿下、秋篠宮様も聞かれたとのこと。

 前者はWMPで再生できるデータ。後者は原本かどうかわからないが、原稿をスキャナで取り込み、PDF形式の文書になっている。改めて昭和天皇の声を聞き、難しいけれど詔書を読んでみた。

 今日もう一度読み直し、聞き直してみようと思う。


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高等学校の設置者

2015-08-14 04:00:00 | 気になる 教育行政

 になれるのは誰か?
 ・・・国、地方公共団体、学校法人。


学校教育法 第一章 総則
第一条 この法律で、学校とは、幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校とする。
第二条 学校は、国(国立大学法人法(平成十五年法律第百十二号)第二条第一項に規定する国立大学法人及び独立行政法人国立高等専門学校機構を含む。以下同じ。)、地方公共団体(地方独立行政法人法(平成十五年法律第百十八号)第六十八条第一項に規定する公立大学法人を含む。次項において同じ。)及び私立学校法第三条に規定する学校法人(以下学校法人と称する。)のみが、これを設置することができる。
○2 この法律で、国立学校とは、国の設置する学校を、公立学校とは、地方公共団体の設置する学校を、私立学校とは、学校法人の設置する学校をいう。


 「国」は国立大学(国立大学法人)の付属高校のことになる。
 (全国国立大学附属学校連盟ウェブサイトによれば、12大学に17校。)
 「地方公共団体」は、都道府県・市町村の設置の高校である。
 (公立大学法人は設置できない。)
 「学校法人」は、いわゆる私立高校である。

 これ以外の高校はあるだろうか。
 高卒資格の取れる、高等専修学校(専門学校のうち中学校卒業者が入学できるもの)は除外する。

 一部事務組合(いちぶじむくみあい)によるもの。
 これは複数の普通地方公共団体や特別区が、行政サービスの一部を共同で行うことを目的として設置する組織で、地方自治法284条2項により設けられる。
 特別地方公共団体といい、地方公共団体の組合の一つである。
 調べてみると3校ある。

 学校設置会社(いわゆる株式会社)によるもの。
 特区制度を用いた株式会社立の通信制高校がある。


構造改革特別区域法
学校教育法 の特例)
第十二条 地方公共団体が、その設定する構造改革特別区域において、地域の特性を生かした教育の実施の必要性地域産業を担う人材の育成の必要性その他の特別の事情に対応するための教育又は研究を株式会社の設置する学校(学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第一条に規定する学校をいう。以下この条及び別表第二号において同じ。)が行うことが適切かつ効果的であると認めて内閣総理大臣の認定を申請し、その認定を受けたときは、当該認定の日以後は、同法第二条第一項中「及び私立学校法第三条に規定する学校法人(以下学校法人と称する。)」とあるのは「、私立学校法第三条 に規定する学校法人(以下学校法人と称する。)及び構造改革特別区域法(平成十四年法律第百八十九号)第十二条第二項に規定する特別の事情に対応するための教育又は研究を行い、かつ、同項各号に掲げる要件のすべてに適合している株式会社(次項、第四条第一項第三号、第九十五条及び附則第六条において学校設置会社という。)」と、同条第二項中「学校法人」とあるのは「学校法人又は学校設置会社」と、同法第四条第一項第三号中「都道府県知事」とあるのは「都道府県知事(学校設置会社の設置するものにあつては、構造改革特別区域法第十二条第一項の認定を受けた地方公共団体の長。第十条、第十四条、第四十四条(第二十八条、第四十九条、第六十二条、第七十条第一項及び第八十二条において準用する場合を含む。)及び第五十四条第三項(第七十条第一項において準用する場合を含む。)において同じ。)」と、同法第九十五条(同法第百二十三条において準用する場合を含む。)中「諮問しなければならない」とあるのは「諮問しなければならない。学校設置会社の設置する大学について第四条第一項の規定による認可を行う場合(設置の認可を行う場合を除く。)及び学校設置会社の設置する大学に対し第十三条第一項の規定による命令を行う場合も、同様とする」と、同法附則第六条中「学校法人」とあるのは「学校法人又は学校設置会社」とする。

 (背景色、下線は法律原文にはない。念のため。)


 かなり難しいが、上記条文で「学校教育法第三条」にある「私立学校法第三条に規定する学校法人(以下学校法人と称する。)のみ」の「のみ」を外していることになる。
 学校設置会社立の通信制高等学校は上記十二条の下線部に該当することになると思う。実態としては3番目だろうか。
 私立学校を学校法人以外でも設置できるようにしているのだから、学校設置会社立の高校は私立高校ということになる。


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埼玉県知事の在任期間に関する条例

2015-08-13 04:00:00 | 気になる 政治・政治家

 平成十六年八月三日
 条例第五十二号

 埼玉県知事の在任期間に関する条例をここに公布する。

 埼玉県知事の在任期間に関する条例
(目的)
 第一条 この条例は、知事が幅広い権限を有する地位にあることにかんがみ、知事の職に同一の者が長期にわたり在任することにより生ずるおそれのある弊害を防止するため、知事の在任期間について定め、もって清新で活力のある県政の確保を図ることを目的とする。
(在任期間)
 第二条 知事の職にある者は、その職に連続して三期(各期における在任期間が四年に満たない場合も、これを一期とする。)を超えて在任しないよう努めるものとする。
 附則
 この条例は、公布の日から施行し、同日に知事の職にある者について適用する。

 記録は残しておこうと思う。


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