In the primal sympathy 時間の共鳴
第75話 懐古act.5-another,side story「陽はまた昇る」
不思議になる、この部屋に誰かがいるなんて?
「でも…なんで伊達さん…?」
声ひとり零れてシャワーの音に流される。
いつも通りの浴室で髪を洗う、けれど扉の向こう気配は温かい。
この感覚は9月の終わり実家に帰って以来だろう、そんな2ヶ月ぶりに周太は首傾げた。
―ほんとに伊達さんが僕の部屋にいるのかな、具合が悪くって幻だったりして、ね?
15分ほど前に聴いた声、見た貌、それから負われた背中の温度。
身長170cmほどの大柄では無い体躯、けれどスーツの背中は広く頼もしくて温かだった。
どこか森と似た香も懐かしくて、そんなどれもが現実なのに意外で、だけど2ヶ月を共にした時間に納得も出来る。
―最初は怖かったよね、いつも厳しい感じして…でもお昼いつも誘ってくれて、
厳しい男、
そんな印象は今も変わらない、けれど温度がもう違う。
事務でも訓練でも謹厳な男、だけど笑った瞳深くから優しくて背中は広く温かい。
その優しさは今までの誰とも違っていて、それなのに俤すこし重ねるのは寂しさだろうか?
―英二が知ったら怒るのかな、今夜のこと…どうしよう、
今夜、伊達は自分の部屋に泊まっていく。
それは看病が目的で他意は無い、そんなこと男同士なら当然だろう?
けれど英二が知ればきっと嫉妬しそうで、その誤解に困らされそうで今から困りだす。
―だってなんて説明したら良いの、今日の事は話せないのに、
今日、自殺未遂を見た。
拳銃による自傷行為は庁舎の洗面所で起きた、その瞬間を目撃して手当てして、それから発作が起きた。
そのまま呼吸困難に墜ちこみ意識を失った、そんな自分を救けてくれたのは伊達だった。
そうして運ばれた医務室での事情聴取にも伊達の証言で援けられ被疑を免れている。
この事実たちに守秘義務は課されて、だから誤解されても解くことが出来ない。
「…でもメディア発表はどうするんだろう」
ひとりごと声こぼれながら蛇口を閉める。
きゅっ、ちいさな音に水音も止まって唇そっと引き締める。
もう水音が無いなら独り言など洩らせない、そんな緊張と体拭い素早く着替えて扉を開けた。
「…あ、」
開いた空気に声が出る、だって醤油の香がする?
なぜ今こんな香がするのだろう?その意外の先ワイシャツ姿が振り向いた。
「冷蔵庫を勝手させてもらった、とりあえず食え、」
「え、」
言われた言葉に途惑ってしまう、今どういう状況なのだろう?
―冷蔵庫を勝手するって伊達さんが?
解らなくてタオル握りしめたまま見つめてしまう。
いま小さなキッチンにワイシャツ姿は袖捲りして立つ、その謹直な貌と台詞が結びつかない。
あまり家事の気配を感じさせない貌、そんな先輩が冷蔵庫を勝手するのは意外で、ただ驚く背中とんと軽く叩かれた。
「ほら、突っ立ってないで座れ、」
「あ、はい…」
言われるまま頷いて小さなテーブルに着く。
80cm角程のダイニングテーブルに来客の想定は無い、だから椅子ひとつしかない。
けれどワイシャツ姿はパソコンデスクの一脚を引き出して向かいに座った。
「無理なら残せ、でも薬を飲める分くらいは腹に入れろ、」
言ってくれるトーンは直截な言葉で、だけど温かい。
そんな食卓に据えられた鍋と御椀と茶碗に周太は瞬ひとつ思わず訊いた。
「あの…鍋ごと置くんですか?」
だってこれは普通の調理用鍋だ?
こんなふう鍋ごとテーブルに出すなんて初めて見た、その驚きに低い声すこし笑った。
「しかたないだろ?土鍋は無いし丼も一個しか無いからな、」
確かにその通り、この部屋には全て一人分しかない。
土鍋はもちろん食器も一組しかなくて、その唯一の御椀を箸と置いてくれる。
香ばしい湯気の椀は白いうどん浸す琥珀色やさしい、ごくシンプルな食膳に周太は微笑んだ。
「いい匂い…ありがとうございます、戴きますね?」
「素うどんだから胃の負担は軽いだろ、茶碗借りるぞ、」
言いながら茶碗へうどんを盛り付けていく。
その手際が想ったより慣れているようで、意外なまま箸つけ微笑んだ。
「おいし…伊達さん、料理上手なんですね?」
このひとが料理するなんて意外だ、けれど今ふくむ味は優しい。
醤油やわらかに香ばしくて出汁もほど良い、この味ならきっと腹に納まってくれる。
そんな膳に気遣いは温かくて、けれど作ってくれたワイシャツ姿の手許に周太は笑ってしまった。
「伊達さん、フォークでうどん食べるんですか?」
こんなことする人は初めて見た。
つい可笑しくて笑ってしまった向かい、生真面目な瞳ふわり和んだ。
「しかたないだろ、箸も一つしかないんだ、スプーンじゃ無理だしな、」
これくらい別に普通だろう?
そんなトーンの眼差しは落着いたまま明るくて、なにか寛いだ想い笑いかけた。
「それはそうですけど、割箸ありましたよね?」
「勝手に使ったら悪いと思ってな、フォークなら洗えばいい、」
なんでもない貌で答えてくれる、その瞳はシャープだけれど温かい。
こんなふう笑ってくれると素直に嬉しくて、笑って箸運ぶうち一碗きれいに空いた。
「お替りあるぞ、食うか?」
「はい、」
素直に頷いた手許から御椀とってくれる。
また慣れたふう盛り付け置いてくれて、その手際につい尋ねた。
「料理とか、好きなんですか?」
「好きっていうか、必要だったからな、」
フォーク動かしながら答えてくれる言葉に鼓動そっと絞められる。
必要だった、そんな言い方に生立ち垣間見えるようで周太は箸を置き頭下げた。
「すみません…僕、また余計なこと訊きました、」
同僚には実家や家族のことを訊くな、解かるだろ?
そう注意されている、言われた「解かるだろ」の理由も解っている。
それなのに今つい気持ちが緩んだ、こんな油断に後悔して、けれど先輩は微笑んだ。
「俺の家は男所帯でな、祖父と父と弟と、毎日4人分の飯を作ってたんだ。母親は出ていった、」
家族のことを話してくれる?
こんなこと意外すぎて途惑うまま低く響く声は続けた。
「古い家でな、嫁に来て馴染めないまま出ていった、弟の喘息のことも居辛い理由だったらしい。もう他に家庭があって、息子二人は無いことになってる、」
離婚して母親がいなくなる、その理由に喘息があった。
そんな現実を聴かされて鼓動そっと軋みだす、喘息に他人事だと想えなくなる。
けれど自分の知っている時間には想像も出来ない、だって自分は「無いことになって」なんかいない。
発病しても気づかぬほど両親に護られ愛されて、父が亡くなっても母は愛して護ってくれた、置き去りになんかされなかった。
「…無いことに、って…喘息が理由でお母さんが、そんな」
そんなこと酷い、そう言いかけて呑みこむ。
これは自分にとっては遠いかもしれない、けれど伊達には寄りそってしまった現実でいる。
それを安易に酷いだなんて言えない、そう想うほど鼓動ゆっくり軋んで瞳の深くもう熱くなる。
―泣いたりなんてダメ、僕が泣くなんて失礼だ、
まだ2ヶ月程度のつきあい、それも職場の同僚で守秘義務を負うパートナーでいる。
そんな間柄で泣いたら安易な同情じみているようで、俯いて堪えた頬ふわりタオル触れた。
「髪まだ濡れてるぞ、風邪ひく、」
タオル被せてくれた影に低い声は柔らかい。
いつのまにか後ろに来てくれた、その深い渋みの香の気配は微笑んだ。
「風邪ひくと発作がひどくなる、だから風邪はひくな。今日みたいな咳することになるぞ、そんなの辛いだろ?」
話しかけながら髪を拭ってくれる、その大きな手の温度がタオルを透かす。
こうしていればお互い顔を合せずに済む、そんな気遣い武骨なようで細やかに温かい。
―泣いているの気づかないふりしてくれるんだ、タオルに隠して…でも傍に来てくれて、
涙に気づないふりをして、けれど傍にいてくれる。
そんな気遣い意地もプライドも壊さない、この優しさに伊達の生立ちと涙が解かってしまう。
きっと何度も泣いてきた、そして泣かせてあげてきた、そんな時間ふれるタオルの翳で涙ひとつ零れた。
―こうやって弟さんの髪を拭いてたんだね、おんぶも…きっと帰りたい、ね、
タオルに髪拭う時間に、背負って連れ帰ってくれた時間に、想い伝わってしまう。
この寮の前にはタクシーを止めることが許されない、だから離れたところで今日も降車した。
そこから歩く距離はそんなに遠くは無い、それでも伊達は背負ってこの部屋まで連れて来てくれた。
『俺の弟も喘息を持ってるんだ、疲れが溜まると発作を起こす。そんな時は歩くだけでも負担らしい、』
背負う背中に笑ってくれた言葉は、望郷の愛情だった。
そのままに今も髪を拭ってくれる、そんな気遣いは今この涙も気づいているだろう。
こんなふうに懐から深い温もりに解かれてゆく、それでも未だ解らない可能性が今こんなに痛い。
―このひとも罠に使われてるかもしれないんだ、お祖父さんの小説が事実なら、
本人が気づいていなくても使われてしまう、そんな「罠」だ。
あの小説が事実なら祖父は「罠」で罪を負わされて、その罪に脅かされていた。
それが父すら追い込んだ可能性がある、そして自分が今ここに居る発端も「罠」から始まった?
そんな推論にはタオルの優しい手すらも疑わなくてはいけなくて、それでも信じたい想いに深い声が尋ねた。
「湯原、なぜお父さんって叫んだ?」
信じたい、けれど言葉に鼓動また停められる。
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」】
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第75話 懐古act.5-another,side story「陽はまた昇る」
不思議になる、この部屋に誰かがいるなんて?
「でも…なんで伊達さん…?」
声ひとり零れてシャワーの音に流される。
いつも通りの浴室で髪を洗う、けれど扉の向こう気配は温かい。
この感覚は9月の終わり実家に帰って以来だろう、そんな2ヶ月ぶりに周太は首傾げた。
―ほんとに伊達さんが僕の部屋にいるのかな、具合が悪くって幻だったりして、ね?
15分ほど前に聴いた声、見た貌、それから負われた背中の温度。
身長170cmほどの大柄では無い体躯、けれどスーツの背中は広く頼もしくて温かだった。
どこか森と似た香も懐かしくて、そんなどれもが現実なのに意外で、だけど2ヶ月を共にした時間に納得も出来る。
―最初は怖かったよね、いつも厳しい感じして…でもお昼いつも誘ってくれて、
厳しい男、
そんな印象は今も変わらない、けれど温度がもう違う。
事務でも訓練でも謹厳な男、だけど笑った瞳深くから優しくて背中は広く温かい。
その優しさは今までの誰とも違っていて、それなのに俤すこし重ねるのは寂しさだろうか?
―英二が知ったら怒るのかな、今夜のこと…どうしよう、
今夜、伊達は自分の部屋に泊まっていく。
それは看病が目的で他意は無い、そんなこと男同士なら当然だろう?
けれど英二が知ればきっと嫉妬しそうで、その誤解に困らされそうで今から困りだす。
―だってなんて説明したら良いの、今日の事は話せないのに、
今日、自殺未遂を見た。
拳銃による自傷行為は庁舎の洗面所で起きた、その瞬間を目撃して手当てして、それから発作が起きた。
そのまま呼吸困難に墜ちこみ意識を失った、そんな自分を救けてくれたのは伊達だった。
そうして運ばれた医務室での事情聴取にも伊達の証言で援けられ被疑を免れている。
この事実たちに守秘義務は課されて、だから誤解されても解くことが出来ない。
「…でもメディア発表はどうするんだろう」
ひとりごと声こぼれながら蛇口を閉める。
きゅっ、ちいさな音に水音も止まって唇そっと引き締める。
もう水音が無いなら独り言など洩らせない、そんな緊張と体拭い素早く着替えて扉を開けた。
「…あ、」
開いた空気に声が出る、だって醤油の香がする?
なぜ今こんな香がするのだろう?その意外の先ワイシャツ姿が振り向いた。
「冷蔵庫を勝手させてもらった、とりあえず食え、」
「え、」
言われた言葉に途惑ってしまう、今どういう状況なのだろう?
―冷蔵庫を勝手するって伊達さんが?
解らなくてタオル握りしめたまま見つめてしまう。
いま小さなキッチンにワイシャツ姿は袖捲りして立つ、その謹直な貌と台詞が結びつかない。
あまり家事の気配を感じさせない貌、そんな先輩が冷蔵庫を勝手するのは意外で、ただ驚く背中とんと軽く叩かれた。
「ほら、突っ立ってないで座れ、」
「あ、はい…」
言われるまま頷いて小さなテーブルに着く。
80cm角程のダイニングテーブルに来客の想定は無い、だから椅子ひとつしかない。
けれどワイシャツ姿はパソコンデスクの一脚を引き出して向かいに座った。
「無理なら残せ、でも薬を飲める分くらいは腹に入れろ、」
言ってくれるトーンは直截な言葉で、だけど温かい。
そんな食卓に据えられた鍋と御椀と茶碗に周太は瞬ひとつ思わず訊いた。
「あの…鍋ごと置くんですか?」
だってこれは普通の調理用鍋だ?
こんなふう鍋ごとテーブルに出すなんて初めて見た、その驚きに低い声すこし笑った。
「しかたないだろ?土鍋は無いし丼も一個しか無いからな、」
確かにその通り、この部屋には全て一人分しかない。
土鍋はもちろん食器も一組しかなくて、その唯一の御椀を箸と置いてくれる。
香ばしい湯気の椀は白いうどん浸す琥珀色やさしい、ごくシンプルな食膳に周太は微笑んだ。
「いい匂い…ありがとうございます、戴きますね?」
「素うどんだから胃の負担は軽いだろ、茶碗借りるぞ、」
言いながら茶碗へうどんを盛り付けていく。
その手際が想ったより慣れているようで、意外なまま箸つけ微笑んだ。
「おいし…伊達さん、料理上手なんですね?」
このひとが料理するなんて意外だ、けれど今ふくむ味は優しい。
醤油やわらかに香ばしくて出汁もほど良い、この味ならきっと腹に納まってくれる。
そんな膳に気遣いは温かくて、けれど作ってくれたワイシャツ姿の手許に周太は笑ってしまった。
「伊達さん、フォークでうどん食べるんですか?」
こんなことする人は初めて見た。
つい可笑しくて笑ってしまった向かい、生真面目な瞳ふわり和んだ。
「しかたないだろ、箸も一つしかないんだ、スプーンじゃ無理だしな、」
これくらい別に普通だろう?
そんなトーンの眼差しは落着いたまま明るくて、なにか寛いだ想い笑いかけた。
「それはそうですけど、割箸ありましたよね?」
「勝手に使ったら悪いと思ってな、フォークなら洗えばいい、」
なんでもない貌で答えてくれる、その瞳はシャープだけれど温かい。
こんなふう笑ってくれると素直に嬉しくて、笑って箸運ぶうち一碗きれいに空いた。
「お替りあるぞ、食うか?」
「はい、」
素直に頷いた手許から御椀とってくれる。
また慣れたふう盛り付け置いてくれて、その手際につい尋ねた。
「料理とか、好きなんですか?」
「好きっていうか、必要だったからな、」
フォーク動かしながら答えてくれる言葉に鼓動そっと絞められる。
必要だった、そんな言い方に生立ち垣間見えるようで周太は箸を置き頭下げた。
「すみません…僕、また余計なこと訊きました、」
同僚には実家や家族のことを訊くな、解かるだろ?
そう注意されている、言われた「解かるだろ」の理由も解っている。
それなのに今つい気持ちが緩んだ、こんな油断に後悔して、けれど先輩は微笑んだ。
「俺の家は男所帯でな、祖父と父と弟と、毎日4人分の飯を作ってたんだ。母親は出ていった、」
家族のことを話してくれる?
こんなこと意外すぎて途惑うまま低く響く声は続けた。
「古い家でな、嫁に来て馴染めないまま出ていった、弟の喘息のことも居辛い理由だったらしい。もう他に家庭があって、息子二人は無いことになってる、」
離婚して母親がいなくなる、その理由に喘息があった。
そんな現実を聴かされて鼓動そっと軋みだす、喘息に他人事だと想えなくなる。
けれど自分の知っている時間には想像も出来ない、だって自分は「無いことになって」なんかいない。
発病しても気づかぬほど両親に護られ愛されて、父が亡くなっても母は愛して護ってくれた、置き去りになんかされなかった。
「…無いことに、って…喘息が理由でお母さんが、そんな」
そんなこと酷い、そう言いかけて呑みこむ。
これは自分にとっては遠いかもしれない、けれど伊達には寄りそってしまった現実でいる。
それを安易に酷いだなんて言えない、そう想うほど鼓動ゆっくり軋んで瞳の深くもう熱くなる。
―泣いたりなんてダメ、僕が泣くなんて失礼だ、
まだ2ヶ月程度のつきあい、それも職場の同僚で守秘義務を負うパートナーでいる。
そんな間柄で泣いたら安易な同情じみているようで、俯いて堪えた頬ふわりタオル触れた。
「髪まだ濡れてるぞ、風邪ひく、」
タオル被せてくれた影に低い声は柔らかい。
いつのまにか後ろに来てくれた、その深い渋みの香の気配は微笑んだ。
「風邪ひくと発作がひどくなる、だから風邪はひくな。今日みたいな咳することになるぞ、そんなの辛いだろ?」
話しかけながら髪を拭ってくれる、その大きな手の温度がタオルを透かす。
こうしていればお互い顔を合せずに済む、そんな気遣い武骨なようで細やかに温かい。
―泣いているの気づかないふりしてくれるんだ、タオルに隠して…でも傍に来てくれて、
涙に気づないふりをして、けれど傍にいてくれる。
そんな気遣い意地もプライドも壊さない、この優しさに伊達の生立ちと涙が解かってしまう。
きっと何度も泣いてきた、そして泣かせてあげてきた、そんな時間ふれるタオルの翳で涙ひとつ零れた。
―こうやって弟さんの髪を拭いてたんだね、おんぶも…きっと帰りたい、ね、
タオルに髪拭う時間に、背負って連れ帰ってくれた時間に、想い伝わってしまう。
この寮の前にはタクシーを止めることが許されない、だから離れたところで今日も降車した。
そこから歩く距離はそんなに遠くは無い、それでも伊達は背負ってこの部屋まで連れて来てくれた。
『俺の弟も喘息を持ってるんだ、疲れが溜まると発作を起こす。そんな時は歩くだけでも負担らしい、』
背負う背中に笑ってくれた言葉は、望郷の愛情だった。
そのままに今も髪を拭ってくれる、そんな気遣いは今この涙も気づいているだろう。
こんなふうに懐から深い温もりに解かれてゆく、それでも未だ解らない可能性が今こんなに痛い。
―このひとも罠に使われてるかもしれないんだ、お祖父さんの小説が事実なら、
本人が気づいていなくても使われてしまう、そんな「罠」だ。
あの小説が事実なら祖父は「罠」で罪を負わされて、その罪に脅かされていた。
それが父すら追い込んだ可能性がある、そして自分が今ここに居る発端も「罠」から始まった?
そんな推論にはタオルの優しい手すらも疑わなくてはいけなくて、それでも信じたい想いに深い声が尋ねた。
「湯原、なぜお父さんって叫んだ?」
信じたい、けれど言葉に鼓動また停められる。
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【引用詩文:William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」】
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