望、闇冥の先に
第67話 陽照act.6-side story「陽はまた昇る」
まだ蛍光灯の照らす廊下、擦違う先輩ごと笑顔で会釈する。
ときおり話しかけられながら歩いてゆく手には一冊の厚みが何か温かい。
『これを湯原くんに渡して下さい、私からと言わなくても良いから…何より湯原くんには御守になる本です』
吉村医師から預ってきた英文綴りのハンドブックは、銃創処置の実例が多く記される。
本当は異動すぐ渡すつもりだった、けれどそれでは周太が奥多摩に行った目的を暴くようで間を置いた。
踏みこみ過ぎてはいけない領域は周太にもある、そんな尊重に一週間を預かった本を自分も読み、現実を見つめた。
―この本に書いてあった現実に周太は立つんだ、もうじき…もう、明後日かもしれない、
廊下を歩く自分の靴音に、一歩一刻の時限は近づいてゆく。
そんな瞬間が本当は怖い、出来るなら今すぐ攫って遠くへ逃げたいと願っている。
それでも同じ男だからこそ出来る理解と想いに受けとめて支えるプライドと信頼が自分も欲しい。
本気で想っているから黙っている、それでも今夜、周太は話してくれるだろうか?
―もし明後日なら今夜が最後かもしれない、でも嫌だ、
もう明後日に終わりは来る?
その覚悟だけはしなくてはいけない、それくらい解っている。
自分も警察官なら一秒後に危険へ駈けるかもしれない、けれど自分事なら恐怖の感覚は今もう鈍い。
山岳救助の最前線、そんな青梅署の生活は救助要請が無かった月など一度もなくて、召集は日常だった。
だから緊張感はあっても「怖い」は少ない、それなのに周太のことは怖くて座りきれない覚悟が悶えている。
それでも周太はもう、覚悟を決めている。
『銃器の第1小隊長サンは声が昏かったね、普通は解んないだろうケド意に反した事をヤらされた鬱屈があるよ』
七機に異動して間もなく、光一に教えられた周太の上司にあった異変。
あの言葉が今をカウントさせて明後日だと告げてくる、この週明けに瞬間が訪れる。
そんな予測は毎日どこかざわめいて跫に鳴ってゆく、そう想うほどに自分は本音は、怖い。
「…ダメだ、」
ぽつん、独り言こぼれて廊下に脚が止まる。
あの角を曲がれば周太と光一の部屋がある場所へ着く、けれど心が何も定まらない。
もう止められない時間に自分たちはいる、それなのに進めない覚悟に英二は踵を返した。
かつん、かつん、かつ、かつ…
速まらす足音は自分の靴音、そのビートアップに鼓動が呼応する。
背を向けてしまった扉が遠ざかる、それでも現実は呼吸するごと近づいて攫いこむ。
そう解っているからこそ迫上がってしまう孤独感と喪失の予兆に突き飛ばされて、英二は階段を駈け上がった。
「…っ、」
呼吸ごと呑みこんだ息に、瞳の熱くなるまま心泣きだしている。
もう幾度も重ねてきた覚悟と決断、それなのに抱えこんでしまう涙が悔しい。
そんな想いに非常灯の緑を登って把手を掴み、開錠した扉から夜が英二を抱きとめた。
「…昏い、」
声と見あげた空は、自室の窓と同じ闇夜に月は無い。
あわく墨の滲ませた雲も融けてしまう空、その下は隊舎のライトだけが無機質に光る。
同じように灯り無くても奥多摩はこんなに昏くない、そんな想いと歩く屋上でも風は吹いてゆく。
ゆるやかに濡れ髪を梳いてゆく風はTシャツ透かして肌ふれる、ほっと涼しさに微笑んで鉄柵に腕を組んだ。
「奥多摩は今夜、晴れかな…」
ぽつり声こぼれた想いは、きっと郷愁。
この想い見あげる西北の空で自分は「山」に生きられた。
山の世界は時に冷厳で、けれど深い懐へ抱かれる安らぎは訓練や任務の時すら温かい。
そういう空気が心地よかった、そして自分がどれだけ慰められていたのか今、この人口壁の要塞で思い知らされる。
―山があったから俺、周太のことも強く居られたんだな、
山があったから、その夢と悦楽と責任が自分の支えだった。
こんなにも自分に「山」は大きくなっている、そんな実感が燈火ひとつ心に灯す。
もしも唯ひとつ、自分が「誇り」と呼べるものを抱いているのなら、それは「山」に懸けたのかもしれない。
『立派な男なら自分の意志を貫くことが本望だ』
夏富士の時間、最高の山ヤの警察官が贈ってくれた言葉が今すこし解かる。
あの言葉は周太の決意を護るためのアドバイスだった、けれど今の自分に大きな杖になる。
「俺の意志は山にある、よな、」
自分の言葉でなぞらす杖は、しっくり背骨に徹ってゆく。
そんな感覚に気づかされる、きっと周太も同じなのかもしれない。
―お父さんとお祖父さんのことが背骨なんだ、周太には、
大学で警察で、二人の軌跡を辿ろうとすること。
それは周太にとって少ないヒントで始まった謎解き、けれど辿り着いてゆく。
その時間のなか樹木医の夢と再会した周太は今、こんな瀬戸際にも微笑んでいる。
過去と現実に向きあいたい、その意志ひとつで周太は記憶喪失も病気も超えてゆく。
“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る
本当は泣き虫な周太、きっと独り何度も泣いてきた。
それでも「探し物」を真直ぐ見つめ辿り着く姿は晉のメッセージに叶う。
そんな祖父と父と孫の一冊に繋がってゆく意志に、記憶の詩が闇夜に映る。
Who have sought more than is in rain or dew
Or in the sun and moon, or on the earth,
Or sighs amid the wandering, starry mirth,
Or comes in laughter from the sea’s sad lips,
And wage God‘s battles in the long grey ships.
The sad, the lonely, the insatiable,
To these Old Night shall all her mystery tell;
愁雨や涙の雫より多くを探し求める君よ、
また太陽や月に、大地の上に、
また陽気な星煌めく彷徨に吐息あふれ、
また海の哀しき唇の波間から高らかな笑いで入港し、
そして遥かなる混沌の船に乗り神の戦を闘うがいい。
悲哀、孤愁、渇望、
これらの者へ、盤古の夜はその謎すべてを解くだろう。
“The Rose of Battle”
闘いの薔薇、そんな意味の題名を英国の言葉は謳う。
きっと馨もこの詩を読んだろう、息子にも読み聴かせたかもしれない。
あの庭のベンチに座り詩を聴かす、その幸せな時間に馨は何を祈っていたのだろう?
「…そのために俺が今、出来ることは、」
そっと言葉に出して見つめる手に一冊の本が闇に浮ぶ。
この一冊に籠めてくれた医師の願いは、他にも願われる祈りかもしれない。
そんな想い肚に静まってゆくのを見つめながら微笑んで、英二は屋上の扉へ踵を返した。
【引用詩歌:William Butler Yeats「The Rose of Battle」】
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第67話 陽照act.6-side story「陽はまた昇る」
まだ蛍光灯の照らす廊下、擦違う先輩ごと笑顔で会釈する。
ときおり話しかけられながら歩いてゆく手には一冊の厚みが何か温かい。
『これを湯原くんに渡して下さい、私からと言わなくても良いから…何より湯原くんには御守になる本です』
吉村医師から預ってきた英文綴りのハンドブックは、銃創処置の実例が多く記される。
本当は異動すぐ渡すつもりだった、けれどそれでは周太が奥多摩に行った目的を暴くようで間を置いた。
踏みこみ過ぎてはいけない領域は周太にもある、そんな尊重に一週間を預かった本を自分も読み、現実を見つめた。
―この本に書いてあった現実に周太は立つんだ、もうじき…もう、明後日かもしれない、
廊下を歩く自分の靴音に、一歩一刻の時限は近づいてゆく。
そんな瞬間が本当は怖い、出来るなら今すぐ攫って遠くへ逃げたいと願っている。
それでも同じ男だからこそ出来る理解と想いに受けとめて支えるプライドと信頼が自分も欲しい。
本気で想っているから黙っている、それでも今夜、周太は話してくれるだろうか?
―もし明後日なら今夜が最後かもしれない、でも嫌だ、
もう明後日に終わりは来る?
その覚悟だけはしなくてはいけない、それくらい解っている。
自分も警察官なら一秒後に危険へ駈けるかもしれない、けれど自分事なら恐怖の感覚は今もう鈍い。
山岳救助の最前線、そんな青梅署の生活は救助要請が無かった月など一度もなくて、召集は日常だった。
だから緊張感はあっても「怖い」は少ない、それなのに周太のことは怖くて座りきれない覚悟が悶えている。
それでも周太はもう、覚悟を決めている。
『銃器の第1小隊長サンは声が昏かったね、普通は解んないだろうケド意に反した事をヤらされた鬱屈があるよ』
七機に異動して間もなく、光一に教えられた周太の上司にあった異変。
あの言葉が今をカウントさせて明後日だと告げてくる、この週明けに瞬間が訪れる。
そんな予測は毎日どこかざわめいて跫に鳴ってゆく、そう想うほどに自分は本音は、怖い。
「…ダメだ、」
ぽつん、独り言こぼれて廊下に脚が止まる。
あの角を曲がれば周太と光一の部屋がある場所へ着く、けれど心が何も定まらない。
もう止められない時間に自分たちはいる、それなのに進めない覚悟に英二は踵を返した。
かつん、かつん、かつ、かつ…
速まらす足音は自分の靴音、そのビートアップに鼓動が呼応する。
背を向けてしまった扉が遠ざかる、それでも現実は呼吸するごと近づいて攫いこむ。
そう解っているからこそ迫上がってしまう孤独感と喪失の予兆に突き飛ばされて、英二は階段を駈け上がった。
「…っ、」
呼吸ごと呑みこんだ息に、瞳の熱くなるまま心泣きだしている。
もう幾度も重ねてきた覚悟と決断、それなのに抱えこんでしまう涙が悔しい。
そんな想いに非常灯の緑を登って把手を掴み、開錠した扉から夜が英二を抱きとめた。
「…昏い、」
声と見あげた空は、自室の窓と同じ闇夜に月は無い。
あわく墨の滲ませた雲も融けてしまう空、その下は隊舎のライトだけが無機質に光る。
同じように灯り無くても奥多摩はこんなに昏くない、そんな想いと歩く屋上でも風は吹いてゆく。
ゆるやかに濡れ髪を梳いてゆく風はTシャツ透かして肌ふれる、ほっと涼しさに微笑んで鉄柵に腕を組んだ。
「奥多摩は今夜、晴れかな…」
ぽつり声こぼれた想いは、きっと郷愁。
この想い見あげる西北の空で自分は「山」に生きられた。
山の世界は時に冷厳で、けれど深い懐へ抱かれる安らぎは訓練や任務の時すら温かい。
そういう空気が心地よかった、そして自分がどれだけ慰められていたのか今、この人口壁の要塞で思い知らされる。
―山があったから俺、周太のことも強く居られたんだな、
山があったから、その夢と悦楽と責任が自分の支えだった。
こんなにも自分に「山」は大きくなっている、そんな実感が燈火ひとつ心に灯す。
もしも唯ひとつ、自分が「誇り」と呼べるものを抱いているのなら、それは「山」に懸けたのかもしれない。
『立派な男なら自分の意志を貫くことが本望だ』
夏富士の時間、最高の山ヤの警察官が贈ってくれた言葉が今すこし解かる。
あの言葉は周太の決意を護るためのアドバイスだった、けれど今の自分に大きな杖になる。
「俺の意志は山にある、よな、」
自分の言葉でなぞらす杖は、しっくり背骨に徹ってゆく。
そんな感覚に気づかされる、きっと周太も同じなのかもしれない。
―お父さんとお祖父さんのことが背骨なんだ、周太には、
大学で警察で、二人の軌跡を辿ろうとすること。
それは周太にとって少ないヒントで始まった謎解き、けれど辿り着いてゆく。
その時間のなか樹木医の夢と再会した周太は今、こんな瀬戸際にも微笑んでいる。
過去と現実に向きあいたい、その意志ひとつで周太は記憶喪失も病気も超えてゆく。
“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る
本当は泣き虫な周太、きっと独り何度も泣いてきた。
それでも「探し物」を真直ぐ見つめ辿り着く姿は晉のメッセージに叶う。
そんな祖父と父と孫の一冊に繋がってゆく意志に、記憶の詩が闇夜に映る。
Who have sought more than is in rain or dew
Or in the sun and moon, or on the earth,
Or sighs amid the wandering, starry mirth,
Or comes in laughter from the sea’s sad lips,
And wage God‘s battles in the long grey ships.
The sad, the lonely, the insatiable,
To these Old Night shall all her mystery tell;
愁雨や涙の雫より多くを探し求める君よ、
また太陽や月に、大地の上に、
また陽気な星煌めく彷徨に吐息あふれ、
また海の哀しき唇の波間から高らかな笑いで入港し、
そして遥かなる混沌の船に乗り神の戦を闘うがいい。
悲哀、孤愁、渇望、
これらの者へ、盤古の夜はその謎すべてを解くだろう。
“The Rose of Battle”
闘いの薔薇、そんな意味の題名を英国の言葉は謳う。
きっと馨もこの詩を読んだろう、息子にも読み聴かせたかもしれない。
あの庭のベンチに座り詩を聴かす、その幸せな時間に馨は何を祈っていたのだろう?
「…そのために俺が今、出来ることは、」
そっと言葉に出して見つめる手に一冊の本が闇に浮ぶ。
この一冊に籠めてくれた医師の願いは、他にも願われる祈りかもしれない。
そんな想い肚に静まってゆくのを見つめながら微笑んで、英二は屋上の扉へ踵を返した。
【引用詩歌:William Butler Yeats「The Rose of Battle」】
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