一橋大学の事件をどう考えるか?ってリクエスト頂いたので想うことを。
一橋大学法科大学院で、
男子大学院生Aが友人だった男子大学院生Bに告白し、
大学院生Bが「オマエがゲイだってことをばらしてやる」と発言し、その1ヶ月後に大学院生Aは自殺した。
そして大学院生Aの遺族が大学院生Bと一橋大学に対して訴訟を起こした。
っていうのが事件の経路ですけど、
ちょっと把握していない事実関係があるので明確なことは言い難いけれど、
1)男子大学院生Aから大学側は差別について相談を受けていたのか?それは教員か大学の相談窓口か?
2)男子大学院生AとBの共通知人はAに対してセクシャルマイノリティを理由とする差別的態度をとったか?
3)男子大学院生Aが自殺した理由は何か?セクシャルマイノリティへの差別か、告白を受け入れられなかった傷心か?
結論から言っちゃうと勝訴の可能性もアリって思います、その論点は4つ。
1.セクシャルマイノリティに対する世論
2.倫理観「いじめ」問題
3.プライバシー保護
4.法科大学院という教育機関の社会的意義
セクシャルマイノリティの世論の流れから考えると
同性カップルを家族に準じて認める渋谷区条例、ローマ法王の同性愛に対する見解、ロシアの同性愛否定に対する世界の反応、
そうした近年の法整備・世論から考えると司法の見解は「性的少数であることを理由に差別・迫害されてはいけない」になるだろうなあと。
次の2.は「人間関係のもつれた相手を追い詰めることが正しいのか?」って問題です。
ようするに「いじめ」問題、学校や職場など所属する組織内で迫害・孤立させられたことが争点になります。
こうした「いじめの果の自殺」については多くの判例が加害者に対して損害賠償命令を出しています。
3.については1.と関連して判断されるとこで「カミングアウト」をめぐる問題です。
セクシャルマイノリティ=少数者である本人にとって「大多数に受け入れてもらえるか?」は苦しい壁でもあります。
世間の差別的視線に耐えられるのか、親しい人から拒絶されたらどうしよう?という不安と恐怖が大きく覚悟が強いられることが現実です。
本人がカミングアウトに至るだけの相手への信頼感がある、それは「プライバシー保護を守ってくれる」という信頼感でもあります。
こうした信頼感を裏切るということは倫理上はもちろん、現在はコンプライアンスの問題としても法的に禁止されていることです。
この3点を踏まえて4「法科大学院」について考えると、
法科大学院側に大学院生Aから差別について相談があった、と仮定した場合は一橋大学も責任を負うことになると思います。
1.について適切な処置がとれなかったことは=大学という組織内で起きた差別問題について管理責任を問われます。
2.を放置したとすれば「いじめ」の放置=教育機関として倫理責任が問題です、法科大学院=法曹の育成機関である責務にも尚更かと。
3.に関しては国立大学も法人としてコンプライアンス規定があります、その違反に該当することが問題です。
大学院生Bについても同様三点すべてが問われるかなと。
法曹に就けば上記3点は遵守する義務があります、それを理解していない=不適格者として退学の可能性もあるかなと。
↑
法科大学院は司法試験を受け法曹を目指すための教育機関です、
法曹=裁判官・検察官・弁護士ですけど、裁判官と検察官については前科者は就くことができない規定があります。
弁護士も守秘義務があり、職務上知り得た秘密・プライバシーを漏らせば資格剥奪もありうることです。
↓
ようするに、
法科大学院生としてBは「倫理観がありプライバシー保護を理解している」という信用を持たれてしかるべき立場にある、ってことです。
その信用を裏切ることは法律家を目指す人間という社会的立場を壊すことでもあります、で、
↓
1.セクシャルマイノリティへの差別的態度は法科大学院生として相応しいのか?
2.大学内の人間関係で追い詰めたことは「いじめ」ではないか?その倫理観は法科大学院生として相応しいか?
3.プライバシー保護は法の規定もあり社会的通念でもある、それを法科大学院として遵守することは当然ではないのか?
といった法的判断がされていくと思いますが、
大学が有責を問われるかは「相談の有無」と「相談があってから自殺に至るまでの期間」によるかなと。
大学院生Bについては裁判で有責とならなかったとしても、法曹の世界で生きることは難しいかと思います。
1.差別的偏見的視点がある
2.弱者を攻撃することで自身の立場保全をはかる自己中心性
3.他者の秘密にしたいことを安易に暴露する弱い自制心=守秘義務を担える精神的能力・判断力に欠ける
この三点が法科大学院生Bに見られるってことです。
こうした評価は相手が同性愛者だったことが問題なのではなく、自己愛から相手を攻撃したという事実がポイントです。
とりわけ「社会的弱者・少数派である弱点を追い詰めた」ことが問題で、これは異性間の恋愛においても同じことです。
たとえば被差別出身者で同じような事例があります、
被差別出身であることを理由に結婚を断られ、出身であることを言いふらされ自殺に至った事件です。
被差別については同和問題と呼ばれていますが、出身者の差別問題も少数派=社会的弱者であるための偏見が原因です。
こうした「社会的弱者・少数派」への攻撃は人間社会ならどこでもあります。
子供の世界でも学校カーストと呼ばれる階級制度が暗黙され、会社組織の派閥争いなども同じ問題があります。
この「どこでもある」ことの一環として同性愛者・セクシャルマイノリティへの偏見や差別問題も存在しているわけです。
ようするに「同性愛であること」が問題なのではなく「社会的弱者・少数派であることを弱点として攻撃した」ことが問題になるってことです。
こうしたマイノリティに属する人で法律に携わる仕事をしている方もいます。
それは「社会的弱者・少数派を守るために法に携わることは正義」という社会的通念があるから実現していることです。
とはいえ法曹界の人間関係にあっても個人レベルでは同性愛者に対する偏見的視点はあると思います、が、それを理由とする攻撃は許されません。
日本では恋愛について異性間に限るという規定はなく、むしろ上述したとおり渋谷区の条例など同性愛者の権利を保護していく流れにあります。
また歴史的観点で言えば、日本における同性愛・特に男性同士の恋愛関係は明治まで普通のことでした。
男はバイセクシャルであることが常識で、女性にしか興味がない男性はむしろ異常=少数派だったわけです。
義兄弟の契り・血契ともいわれる関係で男同士の恋愛こそ崇高とされ社会的仕組みとしても有効でした、BLとはちょっと違う世界です、笑
が、明治になり西洋の風潮を真似ることが近代化との判断から同性愛は否定されることになります、キリスト教では同性愛を否定したからです。
キリスト教の同性愛は前にも書いたことあると思うんですけど、BLが大好物(笑)な倒錯的ケースを制限するために否定された経緯があります。
ようするに自制心ある関係性なら同性愛も否定する必要が無かった、そのためローマ法王から同性愛を否定しない意向が最近は示されるワケです。
訴状ちゃんと読んだワケじゃないから勝訴断定もしがたく、
判断材料も少ないので確かなことは言わないけれど、有責は認められる点が多いかなと。
で、個人的なセクシャルマイノリティに対する考え&経験論ですけど。
ずっと「雑談寓話」に書いていますが、自分にはバイセクシャルの友人が二人います。
自分自身も同性から告白されたことがあります、応えることはできませんでしたが・その後も友達関係は続きました。
バイセクシャルの友人も告白してくれた人も、普通に人間です。
どの人も普通に生活していて普通に家族生活があり友人もいる、好きな食べもの好きな場所がある。
告白してフラれたからってムリヤリ襲ったりなんかしない普通の良識ある人間です、だから自分も人間として普通に好きな友人です、笑
同性愛の人間もフツーに生きているだけで・その人それぞれ尊敬すべき点があるタダの人間。
ってことを言いたいから同性愛の人間を主人公にして、ごくフツーな生活を小説に描いてみています。
たとえば世の中そこらにあるBL小説とかマンガでは同性愛の主人公たちはヤタラSEXばかりするけど、
現実ではフツーに会社生活や学校生活があり、家族があり、恋人とSEXばかりしているわけじゃない。
同性愛=日常普通にあること。
タダそれだけのコトで、ソレは異性との恋愛とマッタク変わらないことです。
肉体関係目当てのツキアイもあるだろうし・心重視のプラトニックも当然ある。
ただし・男と女では思考パターンが違う=恋愛の価値観も違っているけれど。
「私と仕事どっちが大事?」
って女の人は言っちゃうことがある、
それは恋愛>仕事っていう方程式がドッカあるから言っているわけで、
ようするに恋愛も仕事も同じ次元のなかで起きている、だから順位付けもしてくる。
それが男だとドウかって言うと、恋愛と仕事は別次元の話とも言える。
サッカーと数学どっちができるほうがエライのか?っていう順位づけを無理矢理させられるようなモノ。
じゃあ恋愛と仕事ドウ別次元なのかっていうとタトエバ、
恋愛=感情・癒し休息
仕事=能力・評価競争
ってカンジに脳内スペースも居場所としてもマッタク性質が違う。
性質が違うわけだから、感情と能力を比較してどっちが上なのか?なんて順位づけは有得ない、
だからドッチが大事なんて言われても「はあ?」ってなってしまう、で、そこらへんすれ違いも出る。
だけど女性は感情論で動くことが多い、
ソレはタトエバ「自分磨き」とか「女子力」とか「モテワンピ」なんて言葉に出ている。
自分磨きして女子力UPしてモテワンピを着る、その結果に求めることは言ってしまえば「モテる女」になること。
↓
恋愛=能力=評価競争
恋愛も能力の一つで評価基準、だから仕事=能力のフィールドに一緒に乗せてしまう。
で、彼氏ないし夫の職種社会地位が妻のステータスなんてことにもなる。
だから「結婚=勝ち組」なんて考え方も出てくる。
たいして男は「結婚=勝ち組」というよりも「結婚=墓場」なんて考えもフツーにしてしまう、
それは結婚する=女性の価値観と一緒に暮らすことになる、で、
「家族と仕事どっちが大事?」
なんて責められることが出てくるワケで、
それから逃げられなくなるのが結婚、だから「ご愁傷様」なんて結婚するヤツに言ったりもする、
ほんとに自分が求めて一緒にいたい結婚相手ならソンナこともないだろうけれど、それでも恋愛/仕事のメーターが重荷になりやすい。
そういう恋愛の性差がある以上、男同士の同性愛と女同士の同性愛では価値観バロメーターが違っていてアタリマエ。
そこらへん理解しないで女の子がBLなんて書くからリアルと当然全く違う世界になる、
で、同性愛の男からすると「BLが偏見を生む嫌い迷惑」なんてコトになる。
少数=出会うことが少ない=現実を知れない=「理解する機会が少ない」
こんなふうに・セクシャルマイノリティの偏見は「少数」だからこそ生まれます。
たとえば異性愛者は多くいて、多くいる中にはSEX中毒者もいるだろうしSMあれこれ性的倒錯ってやつもいる、
ソウイウ性的倒錯いわゆる変態嗜好は刺激的=メディアに取り上げられやすいから有名で、でも同時にちゃんと分かっている。
「ああいう人間もいるけれど恋愛すれば誰もがSEX中毒になるワケじゃない、」
ようするに「多くいる」なかの「特殊」だと知っているから「恋愛=変態になるわけじゃない」だと解かっている。
だけどセクシャルマイノリティは人数が少なくて、その少ない中の特に特殊な人間がメディア化されてしまうわけで、
↓
「少ない+特殊=全員が特殊」っていう誤解を生むことになる。
こうした特殊性は刺激的、そして非現実性が高いです。
日常から離れていける非現実の刺激=それは楽しい娯楽で、だからメディアが取りあげる。
そういう刺激的娯楽としてBLもあるんだろうなって思います、で、刺激的であるほど楽しいって図式もある。
だから変な場所でXXXしたり強姦的であったりと倒錯した世界を妄想して、ただただ「楽しい」だけを理由に書いてしまう。
その「楽しい」は非現実性=妄想ファンタジーにあり、そこには一つの差別感があるなあと。
同性愛は差別され迫害されて当り前=迫害されてこそ美、
っていう上から目線の見下し感「下に見て同情的に理解する」ことを快感にする「楽しい」です。
この見下し感を正当化したいがため倒錯的描写はエスカレートする、っていう心理ベクトルがある。
↓
その倒錯しか読み手には情報がない、情報が少ないため「その情報で全部=現実」となる。
そうした妄想からの誤解に「同性愛は倒錯的XXXする」っていう偏見が生まれるワケです。
そういう偏見について去年の9月に記事にしています。
「文学雑談:ある偽善小説」知る人ぞな実話から書いた記事なんですけど、ご興味あったら、笑
今回の事件はセクシャルマイノリティと法科大学院に起きたことです、
これを裁判所はどう判断するのか?それは偏見と法律の関係を問うことでもあるかなと思います。
ただ同情論的な恋愛論で片づけるようなモンじゃない、人間が築いてゆく社会規範と個人の尊厳をどう綯い合せるかってとこです。
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