・「翁」という能楽は、古くからもっとも能の神聖なる曲であるという理由で、厳粛に舞われる。
・野上豊一郎先生の「野上豊一郎批評集成 能とは何か 下 専門編」(書肆心水社)を読んでいて、これこそ私の喜劇性を現しているんではないかと思ったからである。
・野上先生によると、翁は決して謹厳な、窮屈な、神経質な老翁の舞踊ではないと言われる。(同書 p.523)
・むしろ、晴れやかな、にこやかな、屈託のない、平和な、牧歌的な微笑をたたえているではないかとも。(同上)
・ここのところを読んで、私は思ったのである。いつものとおり院生室である。午前中からずっと城西の院生室にいる。
・のんきな、愉快な、わだかまりのない、でたらめな民謡をば口ずさんでいる翁こそ、私そのものではないかと。
・それは「物語」でもあるからである。
・多くの優れた哲学者たちは、知的な考究の果てに、人間は物語なしには生きられないというレベルにまで達している。
・知性に優れた人々は、知性の徹底性について、根元的な疑惑にとらわれる。デカルトがその代表であろうか。
・知の徹底性となると、優れた人ほど、そこから逃れようとする。決して疑い得ないことを求める必然性を持っているからである。だから、物語を求めるのである。逃れるためにである。でないと生きていけないではないか。つらくて。
・具体的な生活者のレベルでしか、俗世間に別の物語を作っていくしか徹底的な知的生活者というのは生きるすべがなくなっていくのである。
・だから、物語が必要なのである。
(私は、その徹底的な知的生活者ではない・・当たり前だ)
・切れ味するどい評論家のマスコミでの登場の仕方をみていると、自分に疑いというものを感じていないのだろうかと思ってしまう。
・もっとも、オレが、ワタシが世界で一番知的な生物で、テレビを視聴している、あるいは新聞を読んでいるおめ~らに、教えてやっているんだというのが毎日のようにある。うぬぼれというか、自己満足というのが、その辺でまるっきりワタシのようにふらふらと生活をしている庶民とは違う独特の存在感をもたらすのである。そういう価値を持っているから、マスコミはその手の先生方をマスコミで使うのであろう。でないと個性的にはならない。マスコミは、建前だけの人間を嫌っているようだから。(私こそその建前だけの人間チャンピオンである)
・だから、現実とオノレの能力のギャップに、「トホホ」となるのである。
・たとえば、私は現在の教育システムを批評することはできるが、批判することはできない。
・なぜなら、オノレはその批判されるべき教育システムの片棒を担いできたからである。37年もである。ついつい弱腰になるのである。
・今の教育のシステムは・・なんて、まるっきり外国人のように言ったり書いたりすることは許されない。許されているのかもしれないけど、それをするのはとてもとても恥ずかしいことである。
・含羞というものが私にだってあるのだ。
・この罪責感と、オノレだって許されているのだという免責感と、いろいろ混じりあった「ふらふら感」が、私に喜劇性をもたらすのである。
・だから、一見するとふざけてブログを書いているんじゃぁないのか?と思われるのかもしれない。ふらふらしているからね。
・しかし、まじめはまじめなんである。私ほどまじめな人間はいない(ホントか?)
・しかし、日本の男性諸君の多くは、(否、女性もか)自分のいたらなさや、お金がもうからなかったこと、出世できなかったこと、学者になれなかったこと、たいした論文も書けなかったこと等々(こりゃぁ、全部私のこってすね)を、外部禁圧の結果とする。
・なんでもかんでも他人が、他者が、ほかのシステムが悪かったとするのである。
・私は、自分がこんなにも「無力」で「能力がない」ことを、自分が弱くてバカだったからであると、毎日のように思っているが、多くの人はそうは思えないのであろう。
・いつも国が悪く、組織が悪く、自分を理解してくれるボスがいなかったからだという「物語」を作っているんである。その方が気が楽であるからだ。
・だから、私はここのところ毎日城西国際大学に通学しているが、毎朝「私はただ単に無力である。無知である。だから知を求めて東金まで行くのだ」と思うことにしているのだ。そして、行動に移しているのである。
・私は確かに弱く無知である。それを根拠に柔道も、勉強もしてきた。なんでも知っていれば、柔道の稽古も、読んでもよくわからない哲学書とか、古典を読む気にはならなかった。だから、私の無力と無知に感謝しているのである。こんな老後を過ごさせていただくとは、思ってもみなかったからである。
・喜劇を生きているのかもしれない。けっこうである。十分である。バカにされたっていいのである。バカがバカにされたって、痛くもかゆくもないんである。だって、事実なんだから。バカ+変わり者という図式も成り立つんでしょう。ワハハである。
・お昼に学食に行った。今日は3カ所ある学食でまだ行ったことのないところへ。
・若人があふれるほどたくさんいた。凄い大学だ。なんてたって、私のようなじじぃが埋もれっちまうからです。歯牙にもかけないって言い方があるんだけど、まさにオイラは歯牙のはしっこにもかからんですな。
・私は、250円のショウガ焼き+筑前煮と、ライス普通もり(150円)と味噌汁(50円)を注文した。あまりの安さに卒倒しそうになった。通学定期も学割がきいている。JR様のおかげである。義兄の会社だ。なんてったって、学割はおっきいですよ。半値だもの。(^0^)/ウフフ 携帯も学割がきくのだそうですね。ついでに言えば、医療も学割がきいたりして。
・食事も安いし、カロリーも計算されている。これじゃぁ毎日大学に来て、図書館や院生室で勉強して、生き生きとした若人の姿を見て、圧倒されて、負けてたまるかと気負い、死ぬのをわすれっちまうですなぁ。
・若人のじゃまになってはいかんと思って、一番隅っこにお茶の機械があったから、その脇で黙々と食べ始めた。壁に面しているから、「面壁」だ。(ちょっと意味は違うケド) 相席では若人に悪いではないか。こんな人相の悪いじじぃが目の前で飯を食っていたら、おいしいものもまずくなる。
・しかし、私はおいしい、実においしい。
・そしたら、先日声をかけてくださった県立銚子の卒業生で看護学部の新入生からまたまた声をかけていただいた。「コウチョウセンセ」と声をかけてくださる方はあの方しかいない(^0^)/
・よくわかりましたねぇ・・と言ったら、「オーラが出ている」のだそうな。
・オーロラと聞き間違えないで良かったです。だって、隠しようもない禿げ頭でござんすからね。
・前回あ~たをちょっと書いておいたからと再度ブログを紹介した。今度は新種の名詞の裏側に書いて差し上げた。わぁうれしいという彼女の反応がとてもうれしかったですな。
・明日も学校に来まずぜ。なんてったって、年金生活者なんだから時間だけはたっぷりございますんで。