ウィトゲンシュタインを読んで考えたこと
・教師を退職したので、ウィトゲンシュタインを書いたり、道元を書いたりできるようになった。実に喜ばしいことである。なぜなら、教師は、特に公務員としての教師は、このようなことを語ることができない、あるいはできなかったからである。
・つれづれなるままに、書いてみよう。
・ウィトゲンシュタインは、独我論を説いた。彼は「論理哲学論考」において、客観的な実在の世界は、無我の究極の世界においてのみ見ることができると考えている。
・察しのいい方は、これで道元との関連性を書きたいという私の意図を汲んでいただいただろうと思う。
・それは対象を見ている自分自身をまったく忘れ、周囲の世界だけが見えている状態である。主体としての感じ方というか、そういうものが無い。見えてきた世界だけしかない。
・自己の純粋経験、あるいは直接経験のみがあるとする独我論は、見るあるいは見ている自己が忘却され、消滅した時点で実在論と一致していく。
・このことは道元の思想と見事に一致するではないか。道元は無を説く。
・道元のことは置いておこう。
・見ている私が世界を判断し、ものをはかっているということ。それをウィトゲンシュタインは私の世界だというのである。
・私が、世界をいかに見たかということがもっとも重要なわけである。
・このときの私は、広がりを持たない点まで凝縮している。関心を持たないという意味での「無関心」がある。ある意味禅の境地と似ているような気がするのだ。
・見る自己を忘れて見た時が重要だとするなら、見る自分はただひたすら無心に見る「目」になりきってしまわなくてはならない。欲望を捨て、肉体的なものへの執着を捨てきってしまうことで、それは可能になるというのである。
・これまた道元と似た世界になる。
・これはおもしろい。実におもしろい。西洋人でこんなことを考える人もいるのである。
・どうだろうか?私だって、欲望を捨て、執着を断ち切り、ひたすら「目」になりたいと思ったこともあった。ある意味あこがれである。そうした心境に達することはできなくとも、そうした方面を志向することは可能なような気がしていたからである。これは高校以来ずっとそうであった。倫理社会という科目で、東大出の社会科の先生に鍛えられた。当時は校長と社会科の長老と物理の先生に東大卒の先生がおられて、愚昧な私たち(? それはとやまだけだろうって怒られるな・・)は、オメメをきらきらさせて聞き入っていたものであある。歌手の小椋佳さんが、東大の法学部を出てから銀行マンとなり、つい最近東大の文学部に入り直して、インド哲学で修士をとられたのは記憶に新しい。大秀才はやることもちがいますねぇ。
・外的なもの、なかでも自己の肉体への一切の執着を断ち切れば、あらゆるものに無関心になり、もはや動揺も迷いもない。あらゆるものをありのままに受け入れることができるというわけだ。
・しかし、そんなことが可能なのだろうか。
・さらに言えばそれでいいのだろうか。
・判断の基準が、認識の素材として、自分のこころに感じられる内的な意識だけで、それしかないというのはいかがなものかと思うからである。
・いわば、主体としての自己でしかものを考えられないということを言いたいのである。他者との関係性でやはりものをお考えになった方が、よろしゅうござんせんか?と大学者に申し上げたいのである。
・「語ることのできないものについて、私たちは、沈黙しなければならない」(「論考」7)
・こういう言い方をされるとたまらない。知力の無いあたくしフゼイなんぞは、沈黙の連続である。と~ま君は黙ってらっしゃい!としかられているようなものだ。
・でも、もう少し書かせていただく。
・似たようなことを言っておられる方が日本にもいるからである。西田幾多郎せんせである。大好きです。ホントに。
・「善の研究」に書いてある。それは、鏡のような心とそれに映る世界という文章である。
・心の曇りをとったならば世界は見えてくるとおっしゃっておられる。主観的な自己を没して、見る自己を忘却して物我一体の心になることであるとも言われる。
・内的な意識の世界以外には認識はできないと言われていると私は解釈した。
・いままでの私なら肯定をしたかもしれない。しかし、ちょっと今は違っている。
・基本的な思考の枠組みをちょとづつ変えていくしかないと思うようになってきた。
・いつからだろう。
・大震災からである。明らかに、私は自己の心象風景を変えた。変えてしまった。変えざるを得なかった。
・だって、「無」や「無関心」を生きることは私にはできなかったからである。
・あくまで、主体としての自己と、他者がおられた。大震災で津波に呑み込まれていった多くの尊い命に、私はあくまで主体として関わらざるを得ないからである。それがせめてめの無力な私のできることなのである。具体的になにをやったかということを、ここに書くこともできないくらいにささやかなことである。
・以上、考えたことである。院生室で。