・認識の枠組みは、仮のものというのが、唯識論の根幹であろう。
・空思想に現されるところの、一切無的な思想からは、だったら現実にこうやって生きている現実はどう説明するんだい?と聞かれたら、答えようがないからである。
・私がおり、他人がおり、物があるという我々人間が認識する枠組み自体が仮のものである、それどころか妄想であるとするのが、唯識の主張である。
・映像に置き換えて考えると分かりやすい。映像は確かに妄想である。ある種の記号を、主体として、***と解釈しているだけである。
・それが真実であるかどうかはわからないのである。
・これは小説でもそうだろう。今日は、内田百先生の本を読んでいてそう思った。
・まったく内田百せんせは楽しい。まるで俺のことが書いてある。ブログの記事のようだ。こんなに楽しい方がいたんだ。文体も見事である。短文の積み重ねで、イメージを作り上げていく。
・最初は取っつきにくいかもしれないが、まさに思考の枠組みを取りこわされておられる方である。
・なんだか面倒くさい思考や、認識のあり方なんてものは、どっかに吹き飛んでしまっているのである。お見事である。
・こういうせんせを今までないがしろにしてきたことを、詫びねばならない。誰に?内田せんせに。
・「蜻蛉玉」が秀作である。ちくま日本文学シリーズで読んでいるが、この文庫本の解説が赤瀬川原平さんなのだ。これまた楽しい。そして内田せんせのこの「蜻蛉玉」をおすすめしているのだ。同感である。
・読むのがもったいないくらいである。しかし、この文庫は例の古本チェーン店で買ったものでワンコイン一枚であったから、定価的にはもったいないということはない。よって、おもしろいところにはグリグリと線を引いて読んでいる。
・なんといってもアタシの本ですからね。
・それにしてもある種の予感がする。のめり込むのではないかという予感である。
・ある本が、一冊でもおもしろいと次々と読みたくなるのである。
・丸山健二がそうであった。「爆走オデッセイー」を読んで、アタシャ、400CCのバイクまで買ったのだから、相当いれこんだのだった。(今は、丸山健二せんせは、おとなしくなったものである=アタシも)
・個人全集を買った作家というのは、こののめり込みがないと買う気にもならない。あたり前であろう。
・唯識は、岡野守也せんせに入れ込んだから、知ったのだ。岡野せんせの著作物はほとんど買った。買ったあげくに修士論文はご丁寧に「岡野守也論」であったのである。
・だから感謝しているのである。のめり込むような対象に出会ったということにである。
・人生はこうでなくちゃいかんと思っている。
・今は、我が師匠の本を集めさせていただいている。書かれたもの全部をアマゾンで探しては、買わせていただいている。
・弟子たるもの、そうでなくてはいけない。
・なんてったって、こちらは無知であるからである。知らないから、教えていだくのである。知を、贈与していただくのである。あるいは、考え方を、知るための方法論を学ぶのである。こんなに楽しいことはないのである。
・この「贈与論」というのも、レヴィ・ストロースから教えていただいたことで、まだまだこちらも学習中であるから、一丁前に記事にはできない。しかし、記事にしながら、書きながら勉強していると、ミスについても指摘してくださる方もおられるのかもしれないと期待しているからである。
・もっとも、5人くらいしか読者を想定していない貧者のブログであるから、期待はずれであろうとは思っているが。
・貧者と言えば、年金暮らしになってから、出費がない。反対に収入も乏しくなった。当たり前である。
・それに、毎日定刻に駅まで出かけ、11時16分ので東金まで出かける。そして、大学に着いたら、院生室にバッグを置いて、すぐ学食で昼食をとり、午後からの読書をする。ノート片手に、あるいは読書カードを持って。
・夕方5時には切り上げる。5時間も勉強できる。最後は決まって図書館である。死生学のVTRを今のところは毎日見ている。デーケン先生のである。カード片手にである。
・そして、求名の駅から、5時29分の電車に乗って自宅まで帰るのである。
・実に決まりきった生活である。カントのようだと言ったら、これは笑われるなぁ。。。。当たり前だ。
・知的生活というのは、こうした決まりきったリズムでないとできないと思う。
・どっかで読んだような書きぶりである。あ、あれだ。「知的生活の方法」を書かれた上智の渡部昇一教授の台詞だ。これもまた贈与論の一環であろう。
・今日も有意義であった。実によかった。