・灯の消えたようなという言い方があるが、まさに孫が帰ってしまった後の寂寥は表現のしようもない。予期していたとは言え、これはたまらん。
・昨夜まで、書庫まで聞こえてくるような、かわいい声でぴひゃぁ、ぴぴぃひゃぁ・・・と泣いていたのが、いなくなったのである。たまらん。
・長女をヨメにやったのだから、これは当然である。
・ レヴィー・ストロースは、女性の贈与論を人類学的にのたもうた学者せんせいであるが、ほんとうに、長女を遠隔地にヨメに出し、はたまたその子を産みに帰ってきて、この3ヶ月ほど在宅していたのである。それが、今日のお昼に、ムコドノとかわいい孫と一緒に、まったくあっという間に、ささささぁっと帰ってしまった。
・さみしいのぉというわけである。当然である。往生際が悪いと叱られそうだが、そう感じるものは感じるのである。
・初孫なので、初めて知る寂寥感である。いろいろ自分を分析してみたが、やはり孫に拘っているのである。ずっとだっこもしていたし、言葉かけもずっとやっていた。おむつ替えだって、長女と長男の赤ちゃん時代のときはやっていたのでやれるのだが、長女がやらしてくれないから不満だったくらいである。
・自分の血を分けた孫だからからなのかと最初は思ってみた。あるいは、我々世代の人間がよく言うところの、自分だってよそんちの女性を略奪してきて、ヨメさんにしたからかとも思ってみた。どうやら違うようである。フロイド流の(嫌いなんだけど)理論で説明可能なものでもないと思って言っている。
・じゃぁなんなのか。
・命のつながりということのような気がするのである。オレの後に、オレのこどもたちがいる。そしてその後に孫がいる。逆に考えれば、オレの前には無数の命が存在している。その無数の命のおかげで、オレも、長女も、長男も、孫も、そしてその後も連綿と続くのではないのかということである。
・じゃぁオレってなんなのだ?と思う。ただの流れか?・・・川のような。
・そうかもしれないのだ。
・愚生だっていつまでも元気でいたいけど、いられるワケもない。誰でも命は、次の世代にパスしていかなくてはならない。
・仕事もそう。有期のものであるのだ。いつまでも、拘っていてはならないのである。会社を定年退職して、時々永久追放を受けた会社を訪ねてはかつて部下であった後輩諸君を呼び捨てで激励して、不快感を与えて、嫌がられるという話はよく聞く。バカの骨頂である。
・私は、週に一度は前の職場近くにある千葉科学大に行っているが、ただの一度も前の職場の邪魔をしにいったことはない。バカでもあるまいし、全部メールで用が足りるのである。何をいまさら、ご迷惑をおかけしにいくことはないのである。それくらいの恥は知っているつもりである。バカなあたくしではあるが。否、バカであるが故に、あるいは恥の多い半生を送ってきたが故に、行動には慎重であるからである。
・存在というのは、「過程」である。今、現在と言ってもいい。昔のことはきれいさっぱり忘れ、明日という未来へ、今現在のことをパスしていくことが重要である。それが「贈与論」であるのだと、思っている。
・どうやらこれはレヴィ・ストロースせんせいの回答が正解のようであると、経験上思っているのである。
・これからは、月に一度は孫の顔を見に、小旅行をするつもりである。ただのじぃさまでありますから。(^0^)/ウフフ