・上智大学のアルフォンス・デーケン教授の書籍にはずいぶんお世話になった。武蔵野大学大学院に入学させていただいてから知ったのだが、書籍から受けるイメージと、映像から受けるイメージでは全くちがった。
・今日、M教授にご指導いただいてから、次週までの課題でreading list提出ということになったので、思い出したのだ。私の場合、一方に死生学があるから、当然このことには触れなければならない。
・夕方、本学図書館にデーケン先生のVTRが20巻くらいあったのを思い出したので、早速院生室からモグラのようにモソモソと抜け出して、VTR視聴デスク(これもいくつあるのかわからんくらいに数がある=充実したいい図書館である)の19番目のデスクに座って見始めた。いつも図書館の方がほとんど同じデスクを指定してくださる。ありがたいものである。
・読書カードをとりながらである。
・文献で読んだときと、まったく違う先生のイメージである。だから映像教材はいいのである。義務教育時代にこれに関わっていたから尚更である。(**市教育委員会教育情報センター事務局次長というエラそうなのをやっていたのだ・・(^0^)/)
・「生き方と共に、死についてのあり方」をデーケン先生は問われる。死の哲学である。死への準備教育とも言われる。フォーダム大学大学院卒の哲学博士である。
・死生学は日本ではまだあまり知られていないのかもしれない。ヨーロッパとアメリカでは盛んである。日本では、死はタブーであるからである。まだまだ仏滅とか、なんだとか気にする人も多いからである。
・さらに、私に聞く人もおられる。なんのためにそんなのやってんの?って。
・これに対するアタシの答えは「オイラの死に方の勉強しちょるんだ・・・当然あんたのも」と答えることにしている。時にはそれで友人を失ってきた。ま、そんな程度で去っていくような奴は、最初からご縁がなかったのだ。
・多くの方々が、死のことについて触れると冗談を言っていると受け取るのも日本人の普通の感覚であるのかもしれない。と~ま君が、あるいはご自分が死んじゃうかもしれないってことを、考えてもみないからだ。だから悪い冗談を言っているというふうに受け取られてしまうのである。
・冗談ではないのである。死ぬのは誰でも死んじゃうのである。これを認めない人生設計ではいかがなものか。
・つまり、死と裏表の関係にある「生」を、死ぬことを否定した考えからは、生自体を弱めてしまうのである。ターミナル・ケアとかのことについても、武蔵野大学でずいぶんレポートを書かせていただいた。最後まで人間らしく生きるためには、学習しなくてはならないのである。死への準備教育でもある。本学の看護学部でも必要な学問であるのだろう。ある意味楽しみでもある。どんな風に展開されていくのかということである。
・デーケン教授が示した一枚の絵もよかった。南ドイツの絵で、周囲との和解をしながら亡くなっていくご婦人の絵である。周囲との和解ということも、重要な生き方である。
・ハイデガーは、人間は死への存在であると私のような無知蒙昧なる人間に説いてくださった。それは遠い将来ではない、今、現在が死の存在であるとも言った。まるで禅の師匠のようなことを言われた。今、現在がどういう意味を持っているのか、限られた時間をどう過ごすかということでもある。これはすばらしい指摘である。
・人生はある意味で、「別離」の連続である。デーケン教授はこれを悲嘆のプロセスと言われる。たしかにそうである。人生は別れ、別れの連続である。
・定年退職も、離婚も、臨終も、全部お別れである。
・最後に、デーケン先生から紹介していただいたウイル・デューラントの言葉「大きな苦しみを受けた人は、うらむようになるか、やさしくなるかのどちらかである」を紹介して、今日の記事は終わる。