代ゼミ、校舎の7割閉鎖へ 400人規模で希望退職募る(朝日新聞) - goo ニュース
こりゃぁ凄い。
他人事ではない。
もっともオイラは全国チェーンの塾のアルバイト社員だから影響もなにも、明日からもういいから、来なくていいからと云われたら、それっきりである。それも覚悟の高齢者生活である。いつ退職を迫られてもいいようにはしてある。後は死ぬだけだしねぇ。なんにも焦る必要は無いから。就職だってできないし、相手にしてくれるところがないから。わははっははは。
でもなぁ~、予備校とか、大学に入れるほうがこういう状態だと、心配なのは倒産する大学が出てきても不思議ではないってことだなぁ。若い人たちがかわいそうだよん。マジに。
うううううううううむと、うなっているしかないのだけれども。
充実した余生を歩みたい
中央仏教学院は受験しなかった。断念した。九月入学なので間に合わない。拙ブログに「中央仏教学院不合格」という検索語で未だ来てくださる方がいるから、今日ここにご報告しておく。来年どうするかは未定であるが。それよりなにより、現在の在籍大学をどうするかということの方が先決問題である。どうなるのか、オイラにもわからない。評価がからむからである。これ以上は書かない。所詮一介のしたたかな生涯学習者である。趣味でいろいろあちこち勉強させていただいているだけである。でも、生涯学習というのは、やってみなくちゃわからんのである。失敗は常のこと。中退も限りなくある。今までもである。と云っても、あれだ。一回だけだったか。生涯学習の女神である宮子あずさ様は、複数回あって、そんなの気にしないということを教えていただいたが。あわなかったら辞めればいいだけであるからだ。通教で明星大学を中退したのだっけ。20代後半のころ。小学校の教員免許がほしいと思ったことがあったから。部活であまりにも忙しくて、できなかったのだが。もう必要ないが。今更。
日本というのは生涯学習を認めないというか、就職の直前に卒業した学歴が、生涯つきまとう。就職直前の学歴で評価するわけである。履歴書だってそうではないか。順番で書くと、(中学)、高校、大学とあって、大学院の欄はあることはあっても(これもめったに見たことがない)、大学院を複数出ているということをそもそも想定していない。そんなのが受験生にいたら、採用担当から?に思われるのは必至である。日本の常識は、単線型の学歴コースなのであろう。それはそれでよくわかる。だからオノレを評価してほしいとか云っているのではない。もう、そんな世界からは離脱してしまったのであるから。それでも、やっているのは学歴がほしいとかというのではない。学歴ロンダリングというのも、やる気の現れとしては立派なもんであるとも思っているが、オイラは最終学歴がどうのこうのというので生涯学習を始めたのではないのだ。
木曜日に、塾におもしろい本があったので眺めてから帰ってきた。なに、たいした本ではない。大学受験ランキングというどこにでもあるようなくだらない本である。大学受験をする高校生も生徒にいるから、たまには見るのである。そう、大学受験組には英語と国語なら教えることができるからである。数学は無理だ。高校受験まで。(^_^)
そうではない。
その本に、なんと社会人大学院受験ランキング表が出ていたのである。
こいつはたまげた。
なんでか?
国立大学大学院のレベルが総じて低いのである。学部からだと絶対に入れない大学の大学院なら、入学できる可能性が高くなるのである。独立行政法人になってから、それぞれの大学に独自性を持たせるようになったから好きなようにできるらしいのである。しかし、入学する学部卒がいない。あたりまえである。日本の社会は、高学歴ワーキングプアーと揶揄されるように、院卒は就職できにくいらしいのである。博士となると会社は毛嫌いするというのだ。わかるような気がする。これもこれくらいにするが、採用担当からしてみれば、院卒は若くない。博士となるとかえって育成しにくいのであろう。
だから、オイラのようなじじいになって時間をもてあましているのが、入学していくようになったとも書いてあった。私立ならば話はわかる。経営と一緒だからである。じじいたちは、ネギしょって飛んでくる鴨である。わはははっははははである。ところが、国立大学もそうなのだ。学費も高い。オイラの在籍大学よりも高いのにはびっくりした。大学院は別世界なのだということを、木曜日は思った。
京都の龍谷大学で一番最初に入れていただいた仏教心理学会で出会った方で、旧制帝国大学大学院の博士課程にいるお若い方ともいろいろ話をした経験がある。居住地に近いこれまた旧制中学だった高校を出た方であったから話が弾んだ。彼は学歴ロンダリングであった。学部から、修士、博士とステップアップ(偏差値的には)していったのである。それはそれでなかなかすばらしいことである。ご自分が納得して選択した道である。仙台で一人暮らしをしていた。心配したのは就職のことである。研究者になりたいのだろうが、そこのところを心配したのである。学部がその旧制帝国大学ではないからである。所謂外様であるからだ。しかし、可能ならば研究者になってほしいからである。若い俊秀が挫折していくのは見ていられないからである。
じじいが生涯学習をやる場合には、一人暮らしをしてまで通学しないほうがよろしい。片道2時間以上かけて通学して、健康を害してはアカン。せいぜいアル中になって、カビの生えた布団の中でのたれ死にだ。きたねえアパート住まいをしてまで、今更ステップアップだの、最終学歴を立派なものにしたいだのとほざかない方がいい。そんなもん、棺桶に突っ込まれてそれでおしまいではないか。そうではないのだ。そんなのより、「今」を充実させることである。すぐれた師匠と充実した図書館さえあれば、なんの文句もない。今更、研究者になろうとか、学者センセになろうとかふざけた夢をみないことだ。そういうのは若い世代にお任せすることである。これからの人たちの邪魔をしてはイカンのである。マジに。
じじいになっても「自分捜し」だの「第二の人生を夢見て」だとの云わないほうがいい。そんなことより、「今」を充実させていくことである。他人にどれだけバカにされてもいい。充実した余生を歩みたいからである。
(;_;)/~~~
私たちは内的な時間を尺度にすべきであって、外的な時間を尺度にすべきじゃないということだけは、再び学び直さなければなりません。私は『モモ』の中でそれを試みたわけですが、時計で測れる外的な時間というのは人間を死なせる。内的な時間は人間を生きさせる。 『三つの鏡』
CiNii 論文?-? 國學院大學図書館所蔵「畠山家文書」 : 翻刻と考察 ci.nii.ac.jp/naid/110005943… #CiNii
立石寺奪衣婆像:山形県にある天台宗寺院で、通称・山寺。開基は円仁である。松尾芭蕉が『おくのほそ道』で立ち寄り、「閑さや巖にしみ入る蝉の声」と詠んだことでも知られる。奪衣婆は三途川の渡し賃を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。twitpic.com/dxynwu
去年の記事 なんということもないですが blog.goo.ne.jp/tym943/e/c90c5…
私たちはもう、ただ素朴に創作をしていればいいわけではなくなってきます。つまり、引用にしても、なぜなのか、の意識を明確に持つ必要がある。ナイーヴな創作態度ではやれなくなる、と言いたかったのです。 『三つの鏡』
真の世界は到達されえないのか?何にしても到達されてはいない。そして到達されていないものとして未知のものでもある。従ってまた、慰め、救い、義務づけるものでもない。どうして何か未知のものが私達を義務付けられようか?…(明けそめた朝。理性の最初の欠伸。実証主義の鶏鳴)-偶像の黄昏-
一は結局全ての対立を、より大きな統一性、一体性、見える世界と見えない世界を全部包括する一体性の中に、非常に大きな調和の中に入れ込む数字です。この全体性が一で、これを神、最高の存在と呼んだわけです。二元性が既に悪魔です。私達が常に二元的に考えざるをえなくなった事態こそが悪なのです。
不健康な近代性の唯中にあって、キリスト教的同情にまさる不健康なものは何一つ無い。ここで医者であること、ここで仮借なくやること、ここでメスを揮うこと――これこそが我々の仕事であり、我々の流儀の人間愛である。これによってこそ、我々は哲学者となるのだ、我々極北の民は! -反キリスト-
私の世界観を、魔術的世界観というふうにご覧になりたければ、それでも結構です。すべてが知的に説明できることを前提にした現代一般の世界観とは、私は絶対に相容れない立場を取っています。 『三つの鏡』
ここにあるこれらは私のためのいくつもの階段であった。私はそれらを登って越えてきた。このために私はそれらの上を飛び越えてこなくてはならなかった。ところが、階段の方では、私がそこに腰を落ち着けて休息しようとしているのだと考えていたのである。……-偶像の黄昏-
ボロブドゥール遺跡 最も美しいと言われる日の出の瞬間^^写真を見るだけでも涙腺が緩みます。 pic.twitter.com/nxetwtbiLL
北条実時が叡尊を鎌倉にお呼びした滞在記『関東往還記』はいくら実時の妻や幕府関係の女性がこぞって聴聞に駆け付けたと聞いても真面目な男性社会の記録のようで魅力を感じなかったのに、読んだら違う。中原師員という宗尊親王の側近の妻が実時に協力していて、亀谷の新清涼寺ももとは彼女の邸でした。
子どもと目線を同じにして対等に話をして下さい。大人は皆、上から物を言い過ぎます。そして、世の中は生きる価値があると感じてもらえるように、大人が努力しましょう。
音を語根とした「音を立てる」を本義とする語が、戸の音にばかり聯想が偏倚して、訪問する義を持つ樣になつたのは、長い民間傳承を背景に持つて居たからである
Investigadores de @NASA descubren que los #aerosoles alteran mucho la formación de nubes. ow.ly/AzF4e pic.twitter.com/3qWEuUdzuE
叱るとか諭すとき、なんか相手をやり込めて敗北感なり抱かせて言うこと聞かせたいだけなんじゃねえの、みたいな権力志向が発言に見えると、それだけで萎えるのだ
会社員時代嫌だったのは、趣味ごとをしっかり持っていることをとらえて「変わっている」という扱いをされたこと。まあ下手すりゃ週末ごとに鉱物採集行ってたからね。
これセカンドレイプじゃん。なんで女相手だと配慮するのに男相手にはこういうこと平気でするの?→ 高橋大輔「セクハラとは思っていません」 nikkansports.com/sports/news/f-… @nikkansportscomさんから
死というものは、必ず、いつか、みんなにやって来るもの。でも、今をどのように生きて行くか、何をしたいか、生きることに本当に真剣になれば、死ぬことなんて怖くなくなるもんです。