日本語教育のボランティアをやりたいが・・日本語と中国語を教え・教えてもらえるかもしれないから
昨日は、週明けの市営Gymであった。だから、本格的にトレーニングに取り組んだ。しかし、思うようにいかない。どうも疲れているようだ。Walkingの時間が長いような気がした。体調が良くないのかな?と思った。思ったが、あっと気がついたことがある。
それは老人大学の帰りだったからだ。要するに、午前・午後の6時間近くじっと椅子に座って授業を聞いていたことになるからである。
老人大学では、一限目でびっくりした。非常勤のバイトで授業をしている某大学の教授が先生であったのだ。老人大学では、これで某大学の先生は二人目となる。もっとも、最初の先生は、私と一緒で非常勤の先生であったけど。
昨日の先生は、よ~く知っている先生である。黒板には、その先生の名前だけ書いてあったのであるが、なんだか聞いたことのあるお名前だなと思っていた。授業が始まって、顔を拝見したら、ナントその先生であった。当然、授業の始まる前に直接伺って挨拶はしたけれども。NPOのことで講義をいただいた。それで、日本語教育のことでボランティアを募集されていると言われた。チラシもいただいた。
終了後、さっそく私もボランティアでやりたいと申し上げた。
こういう積極性が私のウリである(^_^)。
爺になってもおさかんなことである。私は。バカだという方もおられるけどねぇ。自覚しているからなんとも思わないケド。
で、その日本語教育の事務局が某大学にあるから、携帯で電話をした。そしたら、こっちが大笑いをした。担当の教授に連絡をしてくださいというのである。
「その先生なら、今、目の前におられるんですけど」と私。教授も苦笑いをされていた。
事務局は混乱したようである。なにがなんだかわからないようだった。ま、いいか。申し込みだけはしたからである。あとは、採用されるかどうかは別問題。まさか、退学・・じゃなくて、お断りはしないだろうけど。
それもわからんか。断られる可能性はあるから。その時は、その時。世の中には、無理だということもあるだろうから。無理を無理矢理通したら、壊れるものがたくさんできてくるからである。
円滑・円満にものをやり遂げるということの方が、私は好きである。だからだ。
それでも爺婆になるとトラブルを起こす輩が多い。もうオノレの好き勝手にやっている輩である(人のことはいえねぇケドね)。昨日も、講師が教室に到着されているのに、カラオケの誘いを1・2分させてくれと言って教卓のワキで、しゃべっているのがいた。大幅に時間オーバーしていたから、私は「時間だよ~ん」「講師のセンセがきていらっしゃるのに失礼じゃないのぉ~」と言った。私の声はでかい。なにしろ応援団で硬派を気取っていたからである。柔道でも声だけは鍛えたからだ。だから、声だけはでかいし、ドスがきいている。そういう時には、うってつけである(^_^)。
つまり爺婆になると周囲が見えない。私も人のことはいえねぇが、注意したいことの一つである。いっぱいあるからだ。そういうことが。私もである。だから気を付けているのだ。ただし、私は人のいうことに謙虚である。言われた時は反省する。あたりめぇである。至らないから注意されるのである。それをである。オレは、ワシは、アタシは爺婆になって「完成」したから、やることなすこと「完璧」だと思ったらもうおしめぇである。誰も注意してくれない。
言われるうちが花である。
誰も相手にしてくれなくなったら、おしめぇである。しかしながら、無理なつきあいはしない。もう結構である。酒を媒介とした無理な社交なんて、カネもなければ、時間もない。ホントである。
老人大学だって、火曜日だから行けるようなもんだ。他の曜日では、バイトが非常に忙しい。なにしろ年金生活である。古本を買うのに資金を捻出できていない。研究費なんて無い。生きてるだけで精一杯である。だから、来年は曜日の調整をしなくてはならない。
ま、あまり無理をしないことである。
無理してつきあうこともない。そんな相手もいない。つまり、こっちからスリスリとゴマすりバッタのように、ご機嫌伺いをする必要はまったく無くなったからである。そうなのである。そういう現役時代とはまるっきり無関係になったからだ。
だから、トラブルは起こさないようにしているのだ。完成しただの、完璧だの、相手を指導してやろうなんてことは、一切考えていない。バカでもあるめぇし。
基本的に私は感謝主義である。なんでもかんでも、感謝である。合掌までする。
それはこんな自堕落な爺でも相手をしてくださっている方々への感謝である。時間を割いてくださっているからである。一瞬でも、私のようなみっともない顔を見てくださっているからである。しかもこんなキタナイドスのきいた声を聞いてくださっている。
こんなありがたいことがあるだろうか。どこにもない。だから感謝するのである。
一期一会である。
どうせお互い寿命が来たら死んじゃうのである。人間は100%死ぬのである。それを微かに知っているらしいから、私はなんでもかんでもアリガタヤと感謝しているのである。
わかるかな、わっかんねぇだろうなぁ。
わははははっははっははっはははっはははは。
けふは、これから古文書講座である。夜は、居住地の方で中国語講座である。
あ、今、気がついた。日本語教育のボランティアというのは、外国人相手だった。中国の方がいたら、教えてもらえるのかなぁ~。中国語。バイト代を払ってでも、ネイティブの発音を聞きたいものであるからだ。
さ、これくらいにしまひょ。
じゃぁねぇ~。
(^_^)ノ””””