マイナス面を乗り越えていくことができるのが、家族を持つということだと思うから
昨日あたりから、拙ブログのカテゴリー「明るい話」というのに、結婚に関わる動画を拾って、さらにリンクをかけてある。プロポーズについても紹介してある。
なぜか。
私がプロポーズするという話しではない。結婚するのでもない。もうそんなことは金輪際あり得ない話である(^_^)。
こりごりであるからだ。よくまぁ結婚できたと思うし、爺婆になるまで古女房ドノもつきあってくださったものだ。そう思うから、こういうことは二度と経験できない貴重な体験であったと感謝しているからでもある。
なに、私がプロポーズするのではない。結婚もである。そんなことはあたりめぇである。
あることがあって、そういうことに関心があるからである。まだここには書けないが。
さらに、現代の若者たちがなかなか結婚しないということを心配しているからでもある。このままだと、日本人滅亡となるかもしれないからである。
気取って「オレは・アタシは、お一人様がいい」というのは、いかがなものかと爺としては思うからだ。それに誰がなんと言おうと、人間は動物でもある。子孫を残して欲しいと思う。思うから遺言のように書かせていただいている。今。
確かに、結婚というのはある意味やりたくなければ、しなくてもいいようなものだろう。好きな相手がいないというのならば、無理してするものでもないだろう。
しかし、その前提として好きな相手がいないというのはいかがなものか。
好きになるというのはナンだろうか?
相手をとことん信頼できるということだろうか。そして、そんなことがそもそもあり得るのであろうか。絶対に信頼できるというようなことが。
つまり、「愛」とはなにかということだ。これは一神教の言っている「愛」とも直結する。しかしである。一神教の愛というのは、「個」の確立が前提となっている。つまり個性は不変であるという思想である。そりゃそうだ。霊魂不滅主義から成り立っているのが、一神教の個性観であるからだ。霊魂が不滅でないと、一神教の教義は成立しない。なぜか。最後の審判というのがあるではないか。人間は死んで、最後にまた蘇って、最後の審判があるからだ。だから死んで消えて無くなってしまっては、教義そのものが成立しない。愛はそういう前提のもとに考えないと、おかしなことになる。
だから、ある意味システムとして考えた方がよろしいと思う。子孫を残すために考え出したシステムが、プロポーズであり、結婚であるというように考えた方が、私は納得がいく。人類繁栄のためである。男と女がいるかぎり、そういう前提を崩すことはできないだろう。
もっとも、そんなことを言っていたら身も蓋もないと言われてしまうかもしれない。しかしである。結婚が現代のように一夫一妻になったというのは、別に古いことではない。さらに昔も今も、愛人というのもいた。殿様には側室というのもあった。妾というシステムもあった。
根底に経済があるのはわかる。金持ちでないとそういうことはできないだろう。だからハラが立つのである。なぜか。私はそういうことをやったこともないし、やる気がないからだ。だいいち、年金暮らしをしていて、そんな人倫にもとることができるわけもない。
だから、システムとしてそういう人倫にもとる行為について制限をかけなくてはならないと思う。離婚が多くなったのは、そういうシステムとしての制限が効いてきたからではないのか。簡単に言えば、男も女も我慢ができなくなったということではないのか。
特に女性。
経済的地位の向上でもって、我慢しなくてもいいようになった。良く言えばそういうことである。新興国が経済的なチカラを身につけるととたんに大きな顔をするのと一緒である。マジに。
しかしである。我慢しないで簡単に離婚するっていうのは、そもそも結婚ってなんだったのか?という疑問にもつながる。ただのオスとメスの集合離散だったのか。
つがいをもって巣作りをして、ちょっと子育てをして、完了したから、また別の相手を探して流浪するっていう鳥類と一緒ではないのか。
これまた身も蓋もない話をしていると叱られそうだ。人間様と鳥類を一緒にするってぇことはふざけているって。もっとも、生涯相手を替えない鳥もいるってことはいくら私でも知っているけど。
いやぁ~、そんなことを書きたいから、動画をリンクさせたりしたのではない。
家族ということがどんなに大切であるかということを書いてみたかったからである。
つまり、結婚とかプロポーズには「感動」がある。「感動」が、人間の行動を推し進める原動力になる。そう思うからである。
一時の心の高ぶりが「感動」なのではない。激しく心を揺さぶられたから「感動」というのではない。自分を変えたい、ますます向上していきたい、人生を変えたい、変えていきたいという意欲になるからである。
人間は変わるからである。
何かがあるから生きていて楽しいのである。
あるいは、これから何があるかわからないから生きていて楽しいのである。
それを可能な限り、プラスの方向にもっていくことが大切であるような気がするのだ。
マイナス面だけ見て生きるのは容易である。こんな簡単なことはない。なぜなら、意識していないとプラス面は見えてこないからだ。それほど、世の中や人生は辛いことや、苦しいことが一杯あるからだ。
そういうマイナス面を乗り越えていくことができるのが、家族を持つということである。生きる力の原動力になる。だから結婚式やプロポーズで人間は「感動」するのである。
経験上、みんなそれを知っているのである。
ふうううううううう。
たまには、まともなことを書いてしまったよ~ん。
こんな時もあるのでござる。
わはははっはははっは。
けふは、朝からまた雨だ。
宮沢賢治ではないが、そんな雨にも負けないで暮らしまひょ。この「雨ニモマケズ」という詩は大好きであるし、私のような爺にも生きる力を与えてくださる詩でもあるからだ。
以下に引用して、けふはこれで終わる。
「雨ニモマケズ」
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ