気取って孤独を味わうスタイルで一人食事をとっているってぇなワケにはいかないのだろう。似合っていないしねぇ。
今日は火曜日だから、老人大学に行く。毎週火曜日である。こちらも、爺婆たちとの交流が目的だからそれはそれでいい。内容もそれなりである。しかし、先週は楽しんだ。成田空港の下に眠っている側高神社の伝説のことを二時間たっぷり聞いた。郷土史のことはかなり興味があるからである。また別の機会に、こちらの方面は書いてみたい。
しかし、今日はまた別の講義をいただく。B5の100枚ノートを持参して熱心にノートをとる。けっこうなページ数になってきた。生徒として教わるというのはいいもんである。
なぜか。
うぬぼれることがないからである。定年退職をすると、それまでやってきた経験とか知識とかをどうしても披露したくなる。生徒として学んでいると、そんなもんはクソの役にも立たない。それどころか、言えば言うほど嫌がられる。後輩諸君にである。当然である。もう終わった人間からどうのこうのと言われたくないからである。あたりめぇである。そういうところの人情の機微ということを知らないと人生後半を誤る。
この人情の機微というのは、恩師小林勝人先生がよくおっしゃっておられたことだった。「列子の研究」という大著をあの明治書院から出しておられて、学部生時代からずっと私のbibleであった。それにいちいち小林勝人先生の日常ちょっとしたつぶやきが、今でも私のものの考え方と感じ方を左右している。ありがたいことである。
学問研究の型を教えていただいたのだ。それがあったから、学部卒業後の長い期間を喰っていくことができたのである。しかもありがたいことに定年まで勤め上げることができた。
懐かしい学部時代である。
?
なんでそんなことを思い出したか。村上春樹の「ノルウェイの森」をまたフロの中で読み始めたからである。この小説は、実に軽いタッチで大学生時代の主人公を登場させて、わかりすい文体で展開していく。作者は、私と殆ど同世代である。だから、よくわかるのである。全共闘とかの学生運動も共通する話題である。学生運動なんて邪魔だっただけであるが、私のような苦学生には。
村上春樹には反発こそ感ずるものの、ある意味「熱情」は感じない。今でも、バカなことをやっていらぁという印象しかない。気取って、あちこちとおバカキャラの自称インテリ女性と数々の浮き名を流して文学もどきをやっているだけの人間を登場させている。これはもしかしたら、村上春樹の企みかもしれないとも思いつつ。
だから、風呂の中でしか読むに堪えないという扱いを私にやられるワケだ。失礼だとは思いつつ。
ただのファンタジーと思って読めば、退屈しのぎにはなる。時間つぶしというわけである。しかし、文学なんてそんなものだろう。退屈しのぎ、時間つぶしの暇人のやることでしかないのかもしれない。
ま、こういう私のような暇人がいるから古典も含めて、小説なんていうものが売れるのかもしれない。
しかしだ。文学者をニックネームで呼び、まるで親しい親類縁者のように扱っている学会でも感じたことであるが、それっていかがなものかと思う。確かに発表者が作家論や作品論を披瀝するときに、発表者の感じている「熱情」を訴えたくなるというのはわかる。
でも、それは感情論でしかないだろう。好き嫌いの世界でしかない。そういうのはいかがなものか。
そもそも、好き嫌いだけでやっていると人生を誤る。文学研究のことだけではない。世間一般のことである。仕事も当然含まれる。あいつは好きだから仕事を与えてやろうとか、こっちは嫌いだから相手にしてやらないというスタンスでは、せせこましい。器が無い、小せぇというもんじゃよ。
研究や仕事というもんは、客観的なベースに支えられている。少なくともそうあるべきである。そこには個人の感情論をできるだけ排除していくべきである。でないと、論文とか仕事の成果っちゅうもんが、まやかしとなる。
私はそう思っている。そう思ってこれまで生きてきた。それだけである。
村上春樹も、108円の古本で買ったから、バラバラにして読もうかとずいぶん思った。その方が風呂の中で読むには都合がいいからである。軽いから。まさに村上春樹文学の本質をついている・・(^0^)。
この本をバラして読むというのは、塾で受験指導をしているから思いつきで始めたことである。特に、英単語の暗記には使える。バラして、A4のクリアファイルをそのサイズに切って、さらに中型のホチキスで綴じる。なにをやるのかというと、既に知っている単語は、マジックで消していく。そしてマジックがついていない単語を暗記していく。
私のように年をとってくるとなかなか一回では暗記できない。できないから、工夫しているのである。そういう日頃からの実践を塾の生徒たちに実物で見せて、刺激している。意欲の涵養というやつである。
こんなみっともない爺でもやることはやっているのである。そういうことを実際にノートとか、自作の資料という形で見せるのである。なかなかためになるらしい。なぜか。進学高校を目指している生徒は、そういうやり方を指導されることを望んでいるからである。そんな生徒にはうってつけであろう。私は。マジに。だから、爺になってもクビを切られることもないのだろう。ま、いつクビになってもいいのだけれどもね(^0^)。所詮バイトだから。
塾もなぜ始めたかということを、ここで突然思い出した。それは退学した大学の学位請求には、試験があったからである。Qualifytestとprospecttestである。英語の試験もある。だからそのために始めたのであった。準備のためである。用意周到である。私は実に計画的に生きているのだよん。見かけと違うんです(^0^)。
しかし、今となっては、まったく無意味であった。学力劣等・低評価で受験すらさせてもらえなかったのだから。さらに、こっちが病気になってしまった。意欲・気力・やる気がまったく無くなってしまったからである。所詮、不良大学院生でしかなかった。こういうのは、学校教育法でもって、退学を命ずることもできるのである。自主退学であったけれども。大学にはそういうのは、学則で定められているんだろうけど。ま、どうでもいいことだわな。
こんなこともある。こんなことも。
人生計画が大狂いであった。おかげでまだ惚けていないっていうのが、唯一の収穫であったけれどもねぇ~。わはははっははっはは。
さ、今日はまたルンルンと老人大学に行く。愛車に乗って。なにしろ爺婆の社交場である。雑談の名手、と~ま君である。ベラベラしゃべってくる。
とくにお昼の弁当時間が楽しい。
こんなんだから、村上春樹の主人公のように、気取って孤独を味わうスタイルで一人食事をとっているってぇなワケにはいかないのだろう。だから、おバカキャラのミニスカバカねーちゃんにはモテねぇのだよん。バカバカしい。
あ、モテない若い男子諸君。どうやったらいいのかという回答にはなりますぜ。この世界のノーベル文学賞候補大センセの小説は。そんな程度じゃよん。所詮。
わあっはははっははっはははっはは。
じゃぁねぇ~。
(^_^)ノ””””