どうしても外せない事情というものがある。冠婚葬祭である。しかも、予定外でもって、突然そうした事情というモノはやってくる。それもまた人生、これもまた人生、あれもまた人生である。
実は今日からイタリア怪人紀行に出発する予定であった。すでに料金も振り込み、楽しみにしていたのであるが、前日キャンセルとした。よって料金は・・・ま、いいか。アリタリア航空で、今日の午後に成田から機上の人になる予定であった。世界遺産が世界一多いイタリアである。事前にそれこそ生涯学習をやっていたのである。Kindleにも作成した資料を、OneDriveに置いて準備万端整えていたのだが、知人の突然の死によってキャンセルとした。しかも昨日の朝である。わかったのは。
ま、仕方なし。かなり親しかったから。
なにもボキの体調が悪くなったわけではない。こういうことも人生には起こりうるのである。どうしても外せない事情というものがあるからである。冠婚葬祭である。しかも、予定外でもって、突然そうした事情というモノはやってくる。それもまた人生、これもまた人生、あれもまた人生である。
特に、「死」である。突然やってくるのが「死」である。病気はじわじわとやってくるが、たいていは気がつかない。あるいはもしかしたら、オレはアタシは病気になるのかもしれないと思う時はある。否、あったというべきか。ボキも、もしかしたら病気になるかもしれないという生活ぶりをしていたから、当然のごとく病気になった。
しかし、「死」だけは、誰しも100%死ぬのだけれども、予定というものがない。自死以外は。
ともかく死生観というものを、こんなバカジジイではあるが、持つことの必要性は感じて生きて来たからである。とりわけ武蔵野大学大学院で人間学の修士を60歳でとらせていただいた時から、人間の「生」と「死」を真剣に見つめるようになってきた。かの大学には、「死生学」という実にユニークな講義もあったからである。たいへんベンキョウになった。マジに。ジジイになってからの必須科目である。こういうのは。
しかも、還暦になってから修士をいただいたから、とりわけ「死」の問題について真剣に考えるようになった。当たり前である。
還暦を過ぎたということは、それだけ「死」に近づいたからである。ダレでも死んじゃうのである。わかるかな、わかんねぇだろうなぁ~。
つまらない不倫だの、暴力だの、家庭内不和だの、多くのトラブルを抱えている方々は、およそオノレの人生が永遠に続くと思っているからである。そう言い切っていい。
しかも永遠はないのである。命だって、永遠ではないという真理の前には、なにをもってしても逆らえない。そのことだけは絶対的真理である。一度生まれた以上はどんなもんでも死んじゃうのである。
しかも100%である。逃れようがないのである。
愛だの恋だのと命が永遠に続くという錯覚のもとに成り立っているものは、まさに錯覚なのである。永遠の愛があるんだったら、不倫だの離婚だのあり得るわけもない。愛を説く宗教もあるが、所詮錯覚なのである。愛が永遠ならば、不倫だの離婚だのをどうやって説明するのだろうか。ただ単なる努力義務であるのだろうか。
そんな疑問を感じるからである。
ま、こんなバカジジイには永遠にわからないことだけれども。
Bye-bye