ちょっとした仕草。微笑んだ顔。ふとつぶやいたこと。中でも、後ろ姿が印象的な場合もある。生き方が左右する。故人の。
故人の思い出というもの、それはどんなものがあるのだろう。心の中にはちきれんばかりになっている思い出。
ちょっとした仕草。
微笑んだ顔。
ふとつぶやいたこと。
中でも、後ろ姿が印象的な場合もある。
生き方が左右する。故人の。
結局、故人と遺された周囲の人間との絆でもある。その一つ一つが、故人と遺された我々とをつないでいる。さらに絆は、故人との決して忘れられない思い出になる。
いつかは別離があるとわかっていても、あるいは人間は100%死ぬとわかっていても、遺された人間には別離の哀惜がある。たとえ大往生でもそれはある。なぜなら、遺された側に幾多の思い出があるからだ。
だからこそ、生きているうちに、多くの思い出をつくるべきなのである。
しかも、死ぬのは順番である。順番に死なないと、周囲に迷惑がかかる。
親より早く死んじゃぁいけない。親を絶望の淵に陥れる。そういうことである。順番は守ったほうがいい。
しかし、犯罪や事故で亡くなる場合もある。これが一番しょうが無い。
生前の故人とのかかわりが深ければ、深いほど哀しみが増大する。そして、故人を慕う気持ちが強ければ強いほど別れは辛くなる。
辛くなるのは、故人との出会いが、それだけかけがいのないものであった証左になっているということである。
良き出会いであったということになる。
その思い出を味わうこと、故人が遺された我々に与えてくれたこと、我々が故人に伝えたこと、共に学びあい、共に生き、共に励まし合い支え合ってきた過去を静かに思い出してみたいものである。
死を悼み、冥福を祈るとき、精一杯の思い出をいだきて、故人に向かい合いたい。
すべての思い出をそのままに、心を込めて祈りを捧げたい。
それが、日本人の古来伝承されてきた傳統である。
いにしえからの。
合掌