感情を制御できる大人になりたい
大人になるということは、感情を制御できる人間になることである。
それをである。周囲の人間に苛立ちをぶつけたり、破壊的な言動をとっていると、軽蔑される。特に家庭内ではアカン。子どもたちには特にアカン。
成績が悪いと言っては怒鳴り、あげくの果てには「俺の血筋ではない」とか「お前の(奥様)血筋にはロクなのがいない」とか言っていちゃぁいけない。
子どもたちは、そういう感情をコントロールできない大人を軽蔑しているのである。よくわかっているのだ。
奥様に暴力をふるっているダンナは将来そういうダンナを養成していることになる。もっとも、最近ではそんなことをしたら警察の生活安全課に通報されて事件になっちまう。児童相談所からも調べがくる。児童虐待の疑いで。
だから、拙ブログでそういう問題で悩んでおられる方がいたら、そういう場所に相談されたらよろしい。ま、これは蛇足だが。
母親も、ヒステリックに怒鳴っていると、子どもたちは「なんだ、おかーさんも子どもと変わらないじゃぁないか」と残念に思う。さらに、親の言うことなんか聞いていられるかとなってしまう。言うことを聞かなくなる。
子どもが子どもを作ってしまったと揶揄されるのはこういうことなのである。
なにも人格的に優れた人間になれと言っているのではない。欠点は誰にでもあるからだ。
しかし、最低限の条件がある。それが「感情をコントロールする」ことである。
子どもたちは、怒鳴られたり嫌みを言われたりすることを嫌う。将来良き大人になりたいと思っているから。さらに言えば、自分の感情をコントロールできない大人を子どもたちは「大人とは認めない」から。
一般的に子どもというものは、感情を制御できない。たとえば、自分のことを極端にけなされたら真っ赤になって怒る。抗弁もしちゃう。ケンカになったりする。
大人の語源は、一説によると「音なし」でもあるそうだ。つまり、音を立てない、子どものように騒がずに静かで落ち着きがあるという解釈が成り立つ。和室では、音を立てずに、すり足で歩く。これが日本文化の特徴でもある。
あまり感情的になっていると、「なんだ親も子どもと変わらないじゃないか」と思われてしまう。そうではない生き方をしていきたいものである。
だから「淡々として生きたい」と思っているのである。感情をコントロールするには、感情の起伏がないに限る。波があっては、淡々としているとはとてもじゃないがそんなことは言えないからだ。
今年もそういう考えでやっていこうっと思っている。
そして、「引き受けの思想」である。物理的に無理ならそんなことはやらない。特に借金の申し込みは無理である。こっちにゼニがないからだ。可能な限り頼まれごとは引き受けて、他人のために尽力したい。それだけである。それで喜ばれるのなら、こっちもシアワセになるからだ。
この二つのことを今年の目標にして生活をしていくつもりである。
「淡々として生きる」
「頼まれごとは引き受ける」
以上の二点である。
今年もよろしくお願いいたします。
(午前6時08分)