いきなり無を言うことは、ボキのような庶民は無理である。まずこれまでやってきた悪をしっかり把握していかないと、アカンでっせ。
西田幾多郎は、善の研究をしていった。高名な「善の研究」である。
最初は善の追求をしていた。そして、無の方向に行ってしまった。善からなぜ無に行ってしまったのか。悪の追求になぜ向かわなかったのか。悪を素通りしてである。なぜだったのか。
以上のような指摘を山折哲雄先生がされていた。NHKの「こころの時代」を見てからはまっている。毎晩、山折哲雄先生の講演データをKindleにいれたのを聞きながら寝ている。昨日の晩もそうだった。「日本人のうたと心」である。去年の11月28日に大阪自由大学での講演会である。
インドの葬送を昨日はお話をされていた。10日間ほどガンジス川に滞在されて、人間の死をみつめておられた。調査とはおこがましいとも言われていた。このあたりが、民俗学者のような言い方と違っている。先生の人間性である。高所から見ていない。
インドガンジス川で、亡くなった方をどうやって葬るのかということである。油で焼きながら、すぐ側で家族が見守る。手や足がそれでも焼け残る。でも、そのままガンジス川に流してしまうのだそうな。
ヒンズー教のこと「も」よくわかっていないのだけれども、そうした死の理解というのは興味深いものがある。
そもそもがである。人間理解でもって、善を基盤とするか、悪を基盤とするかは大きな違いである。しかし、善であっても悪であっても結局はジ・エンドで人生は終わってしまう。死である。
それでもどうしようもない宿業がある。我々は、無にはなれないからだ。捨てることは実に難しいではないか。
捨てて、捨ててすっきりと無になっていくことができるのだろうか。欲望もなんも、全部捨ててである。地位も名誉も捨てられるか。ゼニもである。捨てるくらいなら、そんなもんにこだわって生きる必要も無い。
だから人間は悪なのである。欲望を捨てられないからである。
人間関係だってそうだ。捨てられない。
ま、ボキはアワナイ人間とは会わないけど。時間の無駄だからだ。仮病を使ってでも会わない。
それに九十九里浜には血縁がない。子どもと孫以外は。
つまり孤独なのである。孤独であってもよい。ろくでもない友人・知人なんか要らない。クソみたいなアホとつきあっている暇もない。もう残されている時間はないからだ。ジ・エンドまであと何年生きていられるがわからんからである。
そういう人間の根源的な悪を見つめることなくして、いきなり無を言われても、庶民のボキはこまっちまう。エリートならば、無を考えることもできるだろう。しかし、ボキにはできない。性欲も、金銭欲も、名誉欲も、うわっつらの美もまだまだこだわりがあるからだ。
いきなり全部を捨ててしまって、捨て聖のように生きるこたぁ不可能である。ましてや、厳しい修行の結果悟りを得たいと思っても、その前段階で挫折してしまうだろう。
それでなくても、挫折ばっかりしてきたボキである。
うううううううううううううううううううううううううううむ。
諸行無常である。
わははっはははっははっははっははははっははははははっはは。
ボキにそんなことを言う資格はないのだけれども。
ヾ(*´∀`*)ノ