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と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

昨日の日曜日、ジムに行ったら・・・ナント死んだことになっていた?

2019年01月07日 17時48分23秒 | とーま君の流儀2019

今日はジムがなかった。なかったから、居住地をウロウロと歩いていた。10.1キロは歩いた。

で、昨日のこと。市営のジムに夕方5時頃行った。午前中は孫がいたから歩けなかった。孫が帰った夕方からウロウロと歩いていた。

そして、終わって更衣室に着いた。

着替えて、さぁ帰ろうとしたら、市営体育館の職員(公務員サマ)が来た。

ずいぶん久しぶりだねぇと言われた。

受付の女性陣もあの光頭ジジイが来ていないと心配していたとのことだった。

彼氏は、ボキの授業を受けた方である。つまり、教え子。この言い方は嫌いなんだが、ま、仕方がない。心配してくれたのだから。ありがたいもんである。

死んだと思っていたの?

と、これはボキ。

だったら線香の一本でもあげてくださいな、とも申し上げた。

実は、去年の9月から千葉市でアルバイトをやっているんだよんとも言った。

これなかったのでございまするよん、とも。

そしたら、柔道のアルバイト?と、聞かれた。

冗談でしょとボキ。

二人で呵々大笑であった。

それにしてもありがたいもんである。

マジに、心配してくれたのだから。

 

わははっははっははっはははっははははっははっはあははっは。

 

ヾ(*´∀`*)ノ

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善か悪か・・・・・それが問題だなぁ。ボキのような庶民の言う台詞ではないけど(^_^)

2019年01月07日 09時54分07秒 | とーま君の流儀2019

いきなり無を言うことは、ボキのような庶民は無理である。まずこれまでやってきた悪をしっかり把握していかないと、アカンでっせ。

 

 

西田幾多郎は、善の研究をしていった。高名な「善の研究」である。

最初は善の追求をしていた。そして、無の方向に行ってしまった。善からなぜ無に行ってしまったのか。悪の追求になぜ向かわなかったのか。悪を素通りしてである。なぜだったのか。

以上のような指摘を山折哲雄先生がされていた。NHKの「こころの時代」を見てからはまっている。毎晩、山折哲雄先生の講演データをKindleにいれたのを聞きながら寝ている。昨日の晩もそうだった。「日本人のうたと心」である。去年の11月28日に大阪自由大学での講演会である。

インドの葬送を昨日はお話をされていた。10日間ほどガンジス川に滞在されて、人間の死をみつめておられた。調査とはおこがましいとも言われていた。このあたりが、民俗学者のような言い方と違っている。先生の人間性である。高所から見ていない。

インドガンジス川で、亡くなった方をどうやって葬るのかということである。油で焼きながら、すぐ側で家族が見守る。手や足がそれでも焼け残る。でも、そのままガンジス川に流してしまうのだそうな。

ヒンズー教のこと「も」よくわかっていないのだけれども、そうした死の理解というのは興味深いものがある。

そもそもがである。人間理解でもって、善を基盤とするか、悪を基盤とするかは大きな違いである。しかし、善であっても悪であっても結局はジ・エンドで人生は終わってしまう。死である。

それでもどうしようもない宿業がある。我々は、無にはなれないからだ。捨てることは実に難しいではないか。

捨てて、捨ててすっきりと無になっていくことができるのだろうか。欲望もなんも、全部捨ててである。地位も名誉も捨てられるか。ゼニもである。捨てるくらいなら、そんなもんにこだわって生きる必要も無い。

だから人間は悪なのである。欲望を捨てられないからである。

人間関係だってそうだ。捨てられない。

ま、ボキはアワナイ人間とは会わないけど。時間の無駄だからだ。仮病を使ってでも会わない。

それに九十九里浜には血縁がない。子どもと孫以外は。

つまり孤独なのである。孤独であってもよい。ろくでもない友人・知人なんか要らない。クソみたいなアホとつきあっている暇もない。もう残されている時間はないからだ。ジ・エンドまであと何年生きていられるがわからんからである。

そういう人間の根源的な悪を見つめることなくして、いきなり無を言われても、庶民のボキはこまっちまう。エリートならば、無を考えることもできるだろう。しかし、ボキにはできない。性欲も、金銭欲も、名誉欲も、うわっつらの美もまだまだこだわりがあるからだ。

いきなり全部を捨ててしまって、捨て聖のように生きるこたぁ不可能である。ましてや、厳しい修行の結果悟りを得たいと思っても、その前段階で挫折してしまうだろう。

それでなくても、挫折ばっかりしてきたボキである。

 

うううううううううううううううううううううううううううむ。

 

諸行無常である。

わははっはははっははっははっははははっははははははっはは。

 

ボキにそんなことを言う資格はないのだけれども。

 

ヾ(*´∀`*)ノ

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1月6日(日)のつぶやき

2019年01月07日 06時28分06秒 | とーま君の流儀2019
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/