死を見つめてばかりいる。
インドの動画を見ていると、ガンジス河に行って葬儀を見てみたい。非常に見てみたい。他のバイトで稼いだカネがあるからである。
それに、なにをやっても死ぬからだ。所詮、人間は生まれて死ぬまでの存在でしかない。途中で喰って、寝て、出すモノを出して、それで死んじまうだけである。どんなにカネを稼いでも、エラクなっても、立身出世しても、地位名誉だらけになっても死んじまうだけである。
だったら、意味がないのかとなるとそうではない。その生きている瞬間瞬間が貴重なのである。今が一番大事である。
だったら、こんなバカブログなんか打鍵していないで、もっと身のためになる読書でもしていれば良いではないかとは思う。
思うけど、死んじまうという人生の真実から目を背けることはできない。だんだんと年をとってきたからこそ、なおさらである。
愛欲まみれの人生だけを送ってきた方々も多いだろう。そして現世の修羅場を経験している方々もいるだろう。離婚や、浮気、果ては破産、壊滅状態になってしまった方々もいるに違いない。
源氏物語なんぞ、典型である。
むなしい古典でありまする。
読む気がしない。とりわけ源氏物語は。
時間の無駄である。
あんな愛欲まみれの人生を送っていて、なんの恥じらいもないのだ。
もっとも、紫式部は別のところに視点があったのかもしれない。それにしても、むなしい構想である。それをさもありがたがって、読む方も読む方である。雅というのなら、たしかにそうかも知れない。
しかし、そんなもんがなんになったのであろうか。
ただの愛欲まみれの人生であったのではないのか。
というようなことを今日は考えていた。
昨日、退学した某大学に行って師の講義を拝聴してから考えはじめた。「方丈記」の社会人対象講座である。三年間、一対一で教えていただいた師である。八十代になられた。そして、今まで古典を教えてきたが、この年になってまた改めて理解していない部分もあると述べられたのである。
あっと思った。
ボキも、ずいぶんこの分野ではやってきた。それでもって喰ってきたのだ。そして、完成したと思っていた。
なんという思い上がりであろうか。
ボキごとき中途半端な人間が言う台詞では無かった。
師ですらまだまだだと言われたのである。
これじゃぁ、死ぬまで学ぶしか無いではないか。
ボキ程度で、完成したとはおこがましい。うぬぼれも甚だしい。ちょっとかじった程度でなにをかいわんやである。
なんでも中途半端なジジイである。
ううううううううううううううううううううううううううううううむ。
愛欲も中途半端。もっともボキごときでは、愛欲まみれの人生を送ってみたいと思っても所詮無理であったけど。
そんな人生、送りたいと思ったら天に笑われてしまうからなぁ。
今日は、午後から佐倉市に行く。
バイトである、バイト。
60分。
ボキごときを待っているお方がいるからだ。52歳の男性である。某教室で指導をさせていただく。内容は書けない。秘密である。ヒミツ。
わはははっはははっはははっはははっははっははははっははははっはは。
BYE-BYE!