誰でも幸せになれる方法【精神科医・樺沢紫苑】
日々の生活には波がある。好調な時もあれば、アタマが痛いとか、熱があるとかいろいろある。ボキも例外では無い。いつもいつもアホなことばかりやっているが、いつもアホばかりやっているわけではない。アホはアホなんだけど、好不調の波があるからだ。
それでもボキは、絶好調でありたい。朝からである。これは、朝から散歩に出て太陽を受けるからであろう。よく知らないが、鬱の防止にもなるらしい。鬱とは反対であるボキのことだから、そういう心配はないのだが、好不調の波はあまり無い方がいい。それと、どんなものにも人間にも感謝することが大事でっせ。バイト営業に行っても、貴重な時間を割いていただいたのであるから、「ありがとうございます」と一言感謝してから営業を始めるべきであろう。実践しているけど。
こりゃぁ、家人に対してもそうだわなぁ。「ありがとうございます」「ありがとうございます」「ありがとうございます」の連発をした方がいい。あ、だからボキは家人に口先だけだと叱責されてしまうのだ。
どうも、その傾向があるのは否定できない。クチだけであるのは。
それもこれも、人格が軽いからだ。重厚さがない。かけらもない。軽くてどうしようもない。ボキの重大な欠点である。
もっとある。ボキは官尊民卑が大嫌いで、偉そうに威張っている奴を見ると張り飛ばしてやりたくなっちまうのじゃ。で、つらつら考えてみた。そりゃ、ボキにもその傾向があるからだと気がついたのである。民間をレベルがヒクイと思ったことは一度もなかったが、官だと思って偉そうにしていたことが全くなかったかとなると自信がない。なにしろ何が起きても責任とって退職しなくちゃアカンかったからだ。相撲の横綱と一緒だった。後は引退しか無い。だって、ボキの後ろには誰もいないからだ。そのためだけにいるのだから。
幸運にも、実に幸運にも定年まで仕事をさせていただいた。これだけが、ボキのやったことである。引退をしなくてもよかったのだ。職員のミナサマや、家人にも支えられてここまで来ることができたのであった。
感謝すべきことの筆頭である。
「ありがとうございます」「ありがとうございます」「ありがとうございます」の連発である。
BYE-BYE!
このサイトに紹介されていた↓
なかなかです、なかなか
妙好人(みょうこうにん)とは「在俗の篤信者」すなわち、在家者(僧侶ではない仏教徒)で念仏信仰に篤い人物を指す。江戸中期から明治初期にかけて、妙好人の伝記が編まれ、多くの妙好人が知られるようになった。
妙好人は、不遇に遭ってもそれを嘆くだけで終わらず、肯定的に受け止める見方を併せ持っていた。一例をあげると、江戸時代の大和国(奈良県)の妙好人、清九郎(せいくろう)はある時、自宅を泥棒に入られた。ところが清九郎は「さぞかし不自由をしているであろうに」と泥棒に同情し、さらに「お慈悲のおかげで盗み心も起こらず、かえって盗まれる身になったということは有り難いことです。もしこの清九郎が五匁(もんめ)、十匁でも人のものを盗んだと評判になれば、私はもちろん、同行の顔まで汚し、再び同行の仲間入りはできません。盗まれたこと自体、油断があったといえましょうが、私の恥になることでもなく同行の顔を汚すことにもなりませんから、これほど嬉しいことはない」と語った。清九郎がこのように言ったのは、物事の優劣や損得に注目する、世間一般とは異なる視点を身につけていたからである。
これ以外にも、妙好人の言葉には、自分の至らなさを知る謙虚さと、「何があっても阿弥陀如来は見捨てない」ということから湧いてくる安心感がうかがえる。
浄土真宗に限らず、宗教の教えは日常と異なる価値観を提示する。そのため、不幸の中に肯定的な要素を見出し、幸運にあっても慢心しなくなる。これが信心の利益である。「宗教を信じることにどんな利点があるのか?」と思っている人にこそ、本書を勧めたい。