【武田邦彦 6/24最新】全部インチキでした!あのノーベル賞学者も 重篤85万人教授も みんな予測をハズしまくった理由がコチラです!あの人たちに必要なのは“この処分”です
劣等感とのタタカイというのが、ボキの半生だった。ある意味ボキの亡父と亡母が、劣等感をボキに伝えたようなもんだ。
ボキは実にいい子供だった。よく遊び、よく勉強し、いい子ぶっていた。なぜなら、役場の小役人だった亡父と田舎教師の亡母の子供だったからである。それなりに自覚していたのである。悪いことをしたら親に迷惑がかかるって。
これがいけなかった。知らず知らずにオノレを自己規制していたのである。親に迷惑をかけてはいけないとホントに思っていた。
これでボキはダメになった。要するに演じていたのである。役者だった。すばらしい役者だった。
いけすかないガキである。今でもそうだが、世のなかを、他人をシニカルに見つめるようになったのは、ガキのころのこういう態度にある。
さらにある。それは親の劣等感が、ボキをしばっていたのである。そのことに昨日気が付いてしまった。
亡父は、シベリア捕虜の生き残りである。ソ連でシベリア強制労働に連れ去られてしまった。そして生き残ってしまった。多くの戦友たちとの死別。これが亡父に劣等感を与えてしまった。生き残って日本に帰ってきてから、みちのくの小さな役場の小官吏になった。学歴もなかったから苦しめられたのである。
さらに亡母の家に婿養子に入った。これまた亡父の劣等感を刺激した。亡母は、大学を出ていたからである。
要するに、ボキはこの二人から劣等感を伝えられたのだ。それは愛情という仮面をかぶっていた。自分が劣等感を持っていたから、ボキを厳しく育てたのだろうが、それはまったく逆効果だった。
このあたりが、勘違いというのである。厳しく育てれば、愛情になるというのは嘘である。いわゆるスパルタ教育は、このあたりを勘違いしている。
結局、ボキは苦学せざるを得なくなった。両親が、ボキに学費を出すのを惜しんだのである。そもそも田舎の役場の小役人と田舎教師の収入では、とてもじゃないが、東京の私学に通わせることなんかできるわけもない。払う気もなかったから、苦学を選んだ劣等生のボキが家出のように田舎の駅を出ていくのを許したのであろう。
苦学自体も劣等感を刺激した。あたりまえの学部生ではなかったからである。実際腹が立った。馬鹿丸出しの学部生たちに。こんな程度で親の支援で遊びながら東京遊学してやがると実に腹が立った。ボキは、教科書すら新聞配達してもらった月給から支払っていたからである。
ま、そういう学部に学んだからこそ、自学自習の癖がついたんだろうがねぇ。まだ、現役の院生だから。
わははっははっはははっはははっははっはははっははっははっははは。
(@^^)/~~~!