と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

楽に生きようホトトギス。あはは、おほほと。明るく笑って。

2018年12月05日 16時03分25秒 | とーま君の流儀2018

ボキは根っから明るく、楽しく生きるのが大好きである。だって、その方が楽しいんだもん(^_^)。

しかし、あるときこういう性格はちょっと他人と違っているのではないかと思ってしまったのである。

ちょっとだけかじった心理学のせいなのかもしれない。これって、現役時代は必須科目であった。いろいろ役だったこともあったが、逆に子どもたちを固定観念でしばってしまったこともあった。

さらにある。ボキは気分の落ち込みが少ない。したがって、躁鬱でいえば躁状態の方が多い。圧倒的に多い。それも心理学からいうと、危険らしい。

ま、それはそれで良しとしよう。

精神科医がなにを言おうと、心理学者がなにを言っても気にしないことである。誰だって、気分の浮き沈みはあるからだ。それを異常ととらえるとはかなくなる。

本当に精神科医が、病気だと診断したならそれに従った方が良い。

そうでなければ、やはり楽しく生きていった方が良い。

楽だからである。

なにも深刻ぶって、眉間に皺を寄せて、ニヒリストのような顔をしていなくても、生きているうちは生きているのである。

深刻に生きても、楽しく生きても、時間は平等にたっているのだ。

 

ボキは、確かに苦学をした。新聞配達をして大学学部をやっとこさ卒業した。このことに関しては、知人友人に大変だったなぁ、苦しかっただろう、とてもじゃないが俺にはできないと言われた。

毎日、毎日狂ったような気分でいたのだろう?と聞かれたこともある。

そんなことはなかった。

毎日、無意識で新聞を配っていた。日本経済新聞だから固定読者が多く、たいていはエリートのお客さんばかりだったから、暗記していたのである。配る順番を。しかも、夜明けがきて、スズメがチュンチュンと鳴き始めるのも楽しかった。一緒に歌を歌いながら団地の階段を上り下りしていたこともあるのだ。

でないと、朝と夕刊両方をやることなんかできやしなかった。深刻ぶっていたら、たちまちノイローゼになったであろう。

一種の防衛本能だったかもしれない。

しかし、ずいぶん鍛えられたなぁと思う。

ありがたい経験であった。

大学の学部卒業よりもずっとありがたい経験であった。

世の中に教えていただいたからである。

勤労の尊さをである。

ただし、学問の尊さをマスターすることはできなかったが。あたりめぇである。第一志望が五流大学であったし、それしか受験できなかったし、それで十分満足していたからだ。

今もボキは楽に生きている。深刻ぶって、眉間に皺を寄せていたりしない。

あははっはは、おほほほほと生きている。

アホだから、まるっきりアホのように生きているのだ。

この方が楽だしねぇ。

 

16:00である。

ウオーキングが終わって打鍵している。

これから成績をつけるためのエクセルの書式を作る。

電卓でやっていたら、オワンナイからだ。

エクセルでやったら、楽だしねぇ。

 

ヾ(*´∀`*)ノ

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12月4日(火)のつぶやき

2018年12月05日 06時17分20秒 | とーま君の流儀2018
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脳の退化を防ぐには、日々新しい体験をすべきだと教わった

2018年12月04日 21時11分22秒 | とーま君の流儀2018

千葉市でバイトをしてきてから、古女房ドノと一緒にありがたく夕食をいただいていた。

テレビを見ながらである。ちなみに我が茅屋では、一番テレビの見やすい椅子に古女房ドノが鎮座ましましている(^_^)。家長のようなもんである。

TBSの「この差ってなんですか」という番組だった。

その番組の中で、「認知症を防ぐには、ジジイになっても日々新しい体験をすべし」とやっていた。歩いて図書館に行くにも、日々ルートを変えていくべしとも言っていた。

これは非常に同感できる。

日々のウオーキングでもボキは実践している。

さらにある。

それは複数のバイトである。

去年やったから、今年もやりたいというスタンスにないからである。バイトだからいつでもそれこそ雇い止めになる。

ボキはちっとも気にしていない。

雇い止めになったら、また新しくバイト先を探せば良いだけだ。

それこそビッグデータに登録していれば、メールでも来る。やってみないか?って。

それで、けっこう・毛だらけ・猫灰だらけである。

ジジイになったからと言って、日々同じ事の繰り返しでは、つまらんのである。

ボキは、どうもそういう人生のシナリオを書いてしまったらしい。前世で。

わははっはははっはははっはははっはははっはははっはははっははは。

 

だから、毎日がスリリングである。

仙台スクーリングの準備もある。

明日それを準備する。

今日やったことと、明日やることはまったく関係がないのである。それに事務方のミスもあったし、そいうスリルを味わいながら、「とーま君よ、しっかり目を開いて生きていなくちゃアカンでっせ」と考えることも惚け防止になるのだ。

来年4月から、大学の授業も始まる。講義資料もまったく新しく作り始めた。毎年同じことをやっていたのでは、学生に失礼だ。工夫改善がなくちゃアカンからである。

まったく、ボキは新しいことにチャレンジしていくのが大好きなようである。

その方が退屈しないからなぁ。

ただのアホだったりして(認めるけど)。

 

ヾ(*´∀`*)ノ

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アタマの上にハリネズミがいるようになってしまうのが、ボキのヘアスタイルなのだ(^_^)

2018年12月04日 20時41分58秒 | とーま君の流儀2018

いつも休日の連続で、やることもないから床屋に行っていた。歩いてである。昨日のことである。

年金暮らしだから、そもそも足繁く床屋なんか行きたくないのだが、なんと言ってもこっちはスキンヘッドである。実は、ハゲなのに薄い髪の毛で隠していたときよりも床屋代が高くなってしまったのだ。

スキンヘッドだとポヨポヨと伸びてくると、実に気分が悪くなるのだ。髭と一緒である。短い毛が邪魔になるのだ。

頭頂部に、ボウボウと爪楊枝の短い木片が刺さっているような感じになるのだ。

みっともない。

ヒトの評判なんかまったく気にしないのであるが、これだけはアカン。しかも洗面所に鏡がある。こんなもん見たくもないのだ。

しかし、ついつい目に入ってくる。

ハリネズミが頭のてっぺんにいるようなもんである。

わははっはははっはははっはははははっははははっははははっはははっは。

剃るのが一番良いとは知っている。あるいは、価格の高いひげそりでもって、頭も剃っちまうのが安価だとも知っている。しかし、自分でやると頭が血だらけになりそうで怖い。だからまだやったことがない。

そんなわけで、今日は千葉市にアルバイトに出かけたのだが、アタマだけが寒いのであった。これには参る。しかも、ハンチングを忘れて電車にのっちまったのだ。

ま、日々新しい体験をするためにあちこちアルバイトに出かけているのだから、どうでもいいようなもんである。

でも、これからの季節、アタマだけが寒いというのはちょいと困る。

頭寒足熱でかえって良いのか。

まぁ、シアワセなジジイでございまするよん。

 

ヾ(*´∀`*)ノ

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12月3日(月)のつぶやき

2018年12月04日 06時15分22秒 | とーま君の流儀2018
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できる・できないということにコダワルことはないのだよん

2018年12月03日 08時10分32秒 | とーま君の流儀2018

ジジイになったということは、断絶の憂き身にあうということなのかも知れない。

鷲田清一先生の「真の自立とは」という文章に書いてあったことが、身につまされた。

この文章、実は知らなかった。なんで読んだのかというと、来週バイト先の通信制高校で受講生と一緒に学ぶから教材研究をしていたのである。いろんな場所でバイトしているから、混乱しそうだがまだそれほど惚けていない(^_^)。

そんなことより、この文章である。

「できる、できない」ということの考察をしてくださっている。だが、できることはプラスで、できないことはマイナスだとしていることに疑問を感じているというのが、肝である。

履歴書なんかは、まさにこれだ。学歴や職歴、賞罰、資格なんかを書く。すなわち、自分ができることや、それまで自分がしてきたことの一覧表である。

しかし、鷲田清一先生は、そこに疑問を持つ。

できることの物差しが、実は一面的に過ぎないのではないのかと言っておられるのだ。

できるか、できないかという質問に対して、「ハイ」や「イイエ」で答えられるようなものはいかがなものかと書かれている。

だとしたら、年老いていくことは、そのままできることが少なくなっていくことに他ならない。

当然、年老いていくことを拒否する御仁が現れる。なんとかして、「老い」に抵抗しようとするからである。

ところが、かつては「長老」とか「大老」とか呼ばれた老人がいた。経験値が高くて、周囲に尊敬されていた。

でも、現代の若者はいつまでも大人になれない。なぜなら、できることを基準にした教育課程の中で育っているからである。小学校に入るまえから、大学卒業まで実に長い間自分のできることの内容を問われながら育っている。試験、試験の連続である。大学の上にはさらに大学院まである。

こいつが現代の若者が大人になりきれない遠因であるとのたまわれている。

同感である。

できないことが増えるその都度、我々は負い目を感じる必要があるのだろうか。ボキもできないことは多い。多いけど、そんなのは若い時からそうだ。学校秀才とは無縁の劣等生であったからだ。

だからボキは教育に向いているのである。できない苦しみを十分味わって育ってきたからだ。なぜできないのかということを、長い間考えてきた。古文でも、現代文学でもそうだ。文章の「ことがら」を追っていくのではなく、文章から「形象」を味わうというボキの独特のスタイルもこれでもって確立したのだった。

この詩をどうやって指導するか?

こんな短い詩をである。

 


太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 

これを指導できるかできないかということで、教師の力量がわかる。マジにである。あ、もうやめよう。

これ以上打鍵していると、バレル。

オノレの力量の無さが。

 

わはっはははっはははははっはははっはははっはははっはははっはは。

 

ヾ(*´∀`*)ノ

 

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12月2日(日)のつぶやき その2

2018年12月03日 06時28分19秒 | とーま君の流儀2018
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12月2日(日)のつぶやき その1

2018年12月03日 06時28分18秒 | とーま君の流儀2018
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淡々として生きる+楽しんで生きるのがよろしいようで

2018年12月02日 07時37分47秒 | とーま君の流儀2018

センセも走る季節になりましたなぁ。ボキはそれでも「淡々として」生きておりますが(^_^)

 

 

センセも走ると言われる時期になっている。もう今年も終わりに近い。センセも生徒も期末試験が近いから、ミンナ走りながらその準備をしている。

ガッコというのはそんなに暇ではないのである。試験があるからだ。

もっとも、それしかやっていないのだから、暇だと言えば暇なんだろう。

それで、それこそ一生の思い出になるからと思って、受講生に授業感想記を書いてもらった。ミニペーパーである。100円ショップであらかじめ買って準備していった。愚生の授業を受けてどう思ったかということを書いてもらった。

結果は予想したとおり。声が悪い、モゴモゴとしゃべっているというのが一番多かった。これは大学のバイトでも学生に指摘されているから自覚している。

おっと、これ以上は書けない。

しかし、棺桶の中まで持っていくつもりである。楽しかったからである。ボキも受講生もである。そう書いてあったのだから間違いない。

生まれて初めての体験だったし。さらにある。それは管理職になってから授業を持てなかったから、25年近く授業をやっていない。それでかなり不安だったが、なんとかこの3ヶ月やってこられた。受講生に恵まれたのである。笑顔の絶えない授業ばかりであった。なんと言ってもやる気がある。たいしたもんである。

そして、今月はさらに仙台にも行ってくる。通信制高校の仙台キャンパスで授業である。むろん交通費は出ている。こちらも楽しみである。実態が異なっているからである。だから楽しみなのである。コンピュータを使ってやることにしている。動画も使う。西郷竹彦先生の文芸学理論を応用している。視点論、形象論のいわゆるイメージ化の読みである。こういうのがボキの特徴なんだろう。むろん、仙台でも授業感想記を書いてもらってくる。100円ショップで買って持っていく。あ、仙台にも100円ショップはあるか。

それにしても、バイトだから来期もやれるかどうかはまったくわからない。

それならそれで仕方なし。

ご縁がなかったということになる。

バイトというのは、こっちから接近していくようなものではない。あちらから「ちょっとやってくれないか」という形で、「頼まれごと」として登場してくるようなものである。

やりたいからやっているものでもない。海外旅行の資金にしているわけでもない。

AMAZONの支払い用にしているだけである。それほど買っているのじゃよん(^_^)。

もっとも所詮バイトである。現役時代とは収入の額が違い過ぎる。現役時代の収入はそれだけで生活していかなくちゃならないから、それなりに貰わないと喰っていけないからだ。

今は、所詮年金暮らしである。

ただひたすらおとなしく生きているだけである。世間様の邪魔にならないように。

「淡々として生きる」

これがボキのモットーでもあるからだ。

淡々として生きていると、「楽しい」からなぁ。マジに。

 

ヾ(*´∀`*)ノ

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12月1日(土)のつぶやき

2018年12月02日 06時22分22秒 | とーま君の流儀2018
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文明との未接触部族の存在

2018年12月01日 21時24分35秒 | とーま君の流儀2018

文明との未接触部族がいるという情報はたいへん興味深い。今日の記事で先行アップしてみたのが、youtubeの動画である。文明未接触部族の存在である。拙ブログでそれをいくつか紹介してみたけど。

なぜそんな気分になったかというと、あるアメリカ人宣教師の死からである。

最近のニュースで知ったのだが、アメリカ人宣教師がインドの文明未接触部族に殺されたらしい。

ボキは、いかにもキリスト教宣教師らしい生き方だと思った。南米などの宣教師たちもこういう危険性と隣りあって宣教をしていたのだろうと思った。しかし、キリスト教の宣教成功というその結果こそが、文明未接触部族の滅亡とつながったのではないのか。文明との接触が、疫病をもたらし、欲望を刺激した。自称文明国からのプレゼントで、自分たちの生活がちょっとは遅れているのかもしれないと思ってから、文明未接触部族は堕落したのである。

欧米文明は、上から目線である。

自分たちの方が文明の発達したエリアであって、それ以外の地域は野蛮で未発達であるという認識がどうしても働いているような気がしてならないからだ。

そういうのを上から目線と言うのである。

上から他人を見下しているってぇ輩は、ろくでもないのが多い。自分だけは、文明人だと思っているからである。

知的エリートで、出世頭。

銭も相当持っている。

飲み屋に行ってもモテル。

されど、そんなんで良いのかねぇ。

ボキとは無縁の世界だから、どうでも良いのだろうが。

ボキは文明とはご縁がない。だから、いつまでもオノレの好き勝手な世界で生きていくことができるのだ。

ホントにそう思っている。



ヾ(*´∀`*)ノ

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世界仰天ニュース 「世紀の大発見 タサダイ族」

2018年12月01日 18時08分54秒 | とーま君の流儀2018

世界仰天ニュース 「世紀の大発見 タサダイ族」

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ドキュメンタリーナショナルジオグラフィック - アマゾンのドキュメンタリー2016の失われた部族への最初の連絡

2018年12月01日 17時49分53秒 | とーま君の流儀2018

ドキュメンタリーナショナルジオグラフィック - アマゾンのドキュメンタリー2016の失われた部族への最初の連絡

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11月30日(金)のつぶやき

2018年12月01日 06時19分17秒 | とーま君の流儀2018
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/