水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

キンキーブーツ

2021年04月11日 | 演奏会・映画など
 たしか昨年、日本版のミュージカルが東山紀之さんらの出演で……と書こうとして、調べたら違ってた。
 東山さんは「チョコレート・ドーナツ」だ。そこでドラァグクイーン(女装のショーダンサー)を演じたのが東山さんだ。
 「キンキーブーツ」も、二人いる主人公のうち一人が「ローラ」と名乗るドラァグクイーンだ。
 もう一人は、イギリスの片田舎にある靴工場の一人息子のチャーリー。

 時代の流れか、昔ながらの生産工程でていねいに作られる靴は、売れなくなっていた。
 悪化する一方の経営状態だが、チャーリーは、ロンドンに出て婚約者と新しい生活を築こうとしていた。
 しかし、父親が急逝し、チャーリーは後を継がざるを得なくなる。
 従業員をリストラして工場を閉鎖しようとするものの、「私たちの生活をどうしてくれるんだ」と詰め寄られ、決断できない。
 もともと幼い頃から家族のように暮らしてきた人達だ。
 しかし、どうすればいいのか。何か方法はあるのか。ある日、ロンドンの街中でローラと出会う。
 街中でからまれている「彼」を見かけ救い出そうとする。実際にはローラの方が強かったのだが。
 それがきっかけで仲良くなり、ショーを観に行くことになる。
 「ブーツがボロボロよ」と楽屋で嘆くローラに、「そんなヒールの高いブーツが、男の体重を支えられるわけないだろう」と声をかける……。そうか、男性もはけるブーツは、ニッチな需要があるのではないか……。
 こうして二人の出会いから、新しいタイプの風変わりなブーツ(キンキーブーツ)が誕生するという、実話に基づくストーリーだという。
 産業構造が大きく変わる時代、しかし人権意識はまったく変わらず、女は男より下位におかれ、「女装する男など人間ではない」ぐらいに思われていた時代の話だ。LGBTなんて言葉はもちろん存在しない。
 主人公チャーリー自身、ローラと仲良くなった後も、ローラを気持ち悪いと思う気持ちを捨てきれないでいた。
 しかし、自分を偽らず懸命に生きるローラや、自分を支えてくれる人達の存在に気づき、自分の生き方を見直していく。

 笑いと涙、キレキレのダンスや、切々としたバラード。
 登場する人物すべてがキャラ立ちまくりで、ちょっとした役の人もみんな、お芝居も歌もとんでもないレベルだろうと思われる。
 日本のミュージカルだと、どうしても知名度優先のなんちゃってミュージカル風のキャストの方を見かけることがあるが、さすがブロードウェイミュージカルはそうはいかないだろう。
 本場の舞台をそのまま映画館で鑑賞できるなんて、すばらしい企画ではないか。
 「え?3000円」と一瞬でも考えた自分を恥じる。どうしようかなと思った自分を、今は張り倒しにいきたい。
 音楽に関わる者として、人前で何からかのパフォーマンスをしようとする者として、観ない選択肢はない。
 ていうか、3000円は安すぎる。現地で観ようとしたら、往復の航空運賃、宿代、当然チケット代もあるし、食べ物もいる。絶対おみやげ買うし、たぶん30万でも全然足りないよね。
 音楽もよかった。ポップで、どこか懐かしい感じもして、緩と急、メジャーとマイナーのバランスも見事。あとでシンディローパーの仕事と知って納得した。チャーリーを好きになる従業員の女の子のソロ曲が自分的には白眉だった。
 映像化してくれたおかげで、役者さんの表情もよくわかるし、客席の興奮も伝わる。本場の客はのりがいい。
 ミュージカルの、いや全てのエンターテイメントのお手本とはこれだと感じさせる「キンキーブーツ」。ぜひ、劇場へ!
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あのこは貴族

2021年03月10日 | 演奏会・映画など
 慶應大学に合格して富山から上京した美紀(水原希子)が見る「東京」像は、富山県出身の原作者、山内マリコさんが見てきたものが投影されているのだろう。
 学生時代、慶應に入った高校の同級生を頼って東京に遊びにいった。
 キャンパスに入り、都会の大学の雰囲気を味わわせてもらった。知り合いと出会った友人が、とってつけたような東京弁で会話するのを見て、ムリしてないか? とも感じた。
 上野毛にあったそいつのアパートで何泊かさせてもらい、ドキドキしながら都内をふらつき、でも金沢にもどったときは落ち着いたような気分になった記憶がある。その何十年後、こんなにも都会に慣れ親しんだシティボーイになるとは思いもしなかった……(遠い目)。
 田舎の進学校で猛勉強して、都会の大学に入り、しかも慶應だったりすると、内部生とのヒエラレルキーの違いが厳然と存在することにも気づいたりして、地方人が想像するような優雅な大学生活にはならないのかもしれない。
 希子ちゃんと、親友の山下リオちゃん二人組が、田舎から上京してきた子のとまどいとカルチャーギャップの感じ方が見事に描かれている。
 でも、たまに田舎に帰って同窓会に出ると、地元に残った友人達とは、また別の意味の隔たりを感じてしまう。
 さらに、学費、生活費の問題がある。すでに大学を卒業した娘二人は家から通っていたが、もし都内にアパートを借りるということになっていれば、こんなにamazonで本を買いまくることを許してはもらえなくなってただろう。
 地方に住む、地方から抜け出すということは、都会やその近郊に住む人に知らない苦労がある。
 美紀は、父親の仕事がうまくいかず、アルバイトで生計を立てざるを得なくなる。
 ただ生きていく分を稼ぐのが難しいのに、学費も工面するのは容易ではない。
 結局は大学を中退することになり、しかし挫けることなく都会でそれなりに暮らしを整えていく美紀。
 希子ちゃんへのキャスティングはどうかなと思っていたが、完璧だった。
 今までみた作品のなかで一番いかされていた。主演女優賞確定。
 もう一人の主人公、門脇麦ちゃんもよかった。
 上流階級に生まれ育った華子役。親は開業医で、松濤に邸宅を構えている。
 いつも自転車移動の美紀に対して、華子はほとんどタクシーで移動する。
 ほかにもいろんな対比を描きながらら、決して二人を対決させない。
 上流に生まれても、地方から出てきても、別種の生きづらさを同じくらい感じている。
 それは対決させて、どちらかをいい悪いに仕立て上げて片付く問題ではないという、監督さんのメッセージなのかもしれない。
 「女は女性というだけで差別される!」と気炎を上げている方々は本質を見ていないという、アンチテーゼだったりもするだろうか。
 いや、そういう思想的なものではないかな。 
 おわりの方で、美紀が華子にこう言う。
 「あんまり事情はわかんないけど、どこに生まれてもさ、最高っていう日もあれば、たえられない日もあるよ」
 こういうのを地に足のついたやさしさと言うのだろう。
 いい作品だった。
 水原希子、山下リオ、門脇麦、石橋静河、篠原ゆき子、石橋けい、高橋ひとみ……。
 よくぞここまで仕事のできる女優さんをそろえられたものだ。ほんとにいい作品だった。
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ホリミヤ

2021年02月17日 | 演奏会・映画など
 主人公の宮村くんは、教室で孤立するタイプの男子高校生。顔を隠そうとするような長髪、一年中学ランを着て夏も脱ごうとしない。基本的に一人で過ごし、自分から誰かに声をかけようとはしない。
 同じクラスの掘京子さんは、眉目秀麗で勉強もできて気立てもいい、キラッキラな女子高生だ。
 全く接点のなかった二人だが、宮村くんが堀さんの弟を助けたことをきっかけに仲良くなる。
 弟くんにせがまれて、堀さんの家に遊びにいく。
 彼女の家は、基本的に両親が不在で、弟の面倒をはじめ家事の一切を担当してるのが堀さんだった。
 二人が学校でも時折会話するようになったある日、宮村の唯一の友人から、「おまえ、堀さんとつきあってるのか?」と尋ねられる。
 宮村は「そんなわけないだろ、第一おれとじゃつりあわないじゃないか」と答える。
 それを耳にした堀さんは、宮村に詰め寄る。
「ねぇ、ほんとにそんなふうに言ったの?」「おかしいよ」
「自分のことつりあわないとか、二度とそんなふうに言うんじゃないわよ!」

 堀さん役の久保田紗友さんは、はじめて見たけど(実際にはテレビドラマとか目にはしてるのだろうけど)、愛くるしさと大人っぽさとほどよく同居した、いい女優さんだ。これからどんどん目にする機会が増えそうな気がする。「言うんじゃないわよ!」みたいな昔の少女漫画風の台詞回しに違和感がない。

 「おれとは釣り合わない」――。彼女は自分よりもヒエラルキーのはるか上だから、というようなニュアンスだろう。自分を謙虚にいってみた感じもあるが、たしかにこれは相手に不誠実だと気づく。
 普通に友人として付き合っているつもりの相手が、そんな感覚でいたと知ったら、さびしくなるだろう。
 気持ちはわかるけどね。我が身に置き換えても、今までたくさんのすごい人と出会い、仲良くしてもらいながら、やっぱ俺って「下」の存在かなと思ったこともある。
 人は誰しもコンプレックスをもっている(たぶん)。性格が暗いとか、いつまでもくよくと思い悩んでしまうとか、体型がきらいとか、チームプレーが苦手とか、音程がとれないとか、初めての人と上手く話せないとか……。
 そもそも持って生まれたものはどうしようもないのだから、それ自体は受け入れ、努力でなんとかなる部分は努力してみる、その結果も受け入れる。努力して思うような結果にならなくてもやってみた自分のことは認めてあげる……、そんなスタンスで生きていくしかないのだろう。
 もちろん、そういう理屈は、みんなわかってはいるはずなのだけれど。
 わかってはいるけど、思うように生きられないことはつらいし、せつない。
 そんなとき、たった一人でいいので、受け入れてくれる存在がいると、息苦しさはずいぶん減る。
 「傷をなめ合う」存在でいいと思う。理屈ではなく、なんとなく話し始めて、いいとき悪いとき関係なく、なんでもない話ができる人が一人でもいると、この世は生きやすい。

 「あいつ暗いし面倒くさそうだから、話しかけれねぇよ」と扱われている宮村くんを、堀さんは学級委員だから意図的に仲良くしなくちゃと思って接してきたわけではない。
 弟と遊ぶ様子や、なぜか学校外ではピアスをじゃらじゃらつけて歩く、学校では見せない姿に不思議と惹かれていく。
 宮村くん、「蜜蜂と遠雷」のあの天才こどもピアニストが、いつのまにこんなお兄さんになったのだろう。
 キラキラJKではなく、すっぴんでエプロンをして夕飯の支度をする堀さんに、宮村君も心惹かれていく。
 人と人との関係は、つりあいとか上下とか関係なく、まして学歴や仕事や地位や能力やらにとらわれる必要はない。
 堀さんはけっして、宮村くんを相手して「くれてる」わけではないのだ。
 宮村の理解者がもう一人いた。何くんだったっけ?
 たぶん、原作のコミックではそれなりの存在感で描かれているのだろう。
 彼も、話しているうちに、宮村を叱る。
「おまえ、釣り合わないからとか言い方してるけど、それって逃げてるだけじゃねえか!」。
 いいなあ、こんなふうに言ってくれる友達がいて。
 こう言われ、宮村君も自分の気持ちに素直に向かい合おうとする。
 後半はほぼほぼ正統派少女マンガの展開だ。だからかな、二人を応援したい気持ち、あたたかく見守りたい気持ちがわき、もうこんなにせつないほど相手が気になる状況に自分がおかれることはないかな、いやそんなこともないかもと感じるような、心をのぞかれたならキモいと思われかねないほど、ときめかされた作品だった。ぜひ劇場へ!
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すばらしき世界

2021年02月11日 | 演奏会・映画など
 西川美和監督のエッセイ集『スクリーンが待っている』を読むと、映画一本撮るのにどれだけ多くのだんどりや下調べや俳優さんとのやりとりやスタッフさんの苦労や様々なしがらみが積み重ねられているかを垣間見ることができる。
 「構想何年、制作何年のすえついに公開……」というかんじの惹句を目にすることがある。役所広司主演で映画を撮りたいと思いが芽生えた日から数えるなら、この作品は西川監督にとって構想二十数年ということになるのだろうか。そういう方面に漠然と進みたいと思っていた高校2年生が、テレビドラマで連続殺人犯を演じた役所広司を観た日から数えるなら。
 その後映画監督となり「ゆれる」「ディアドクター」「永い言い訳」と、邦画史に残る名作を生み出した西川監督をして、役者としてエベレストと評さしめる役所広司という名優は、なるほどそうとしか言いようがなかった。
 やんちゃをして少年院に入った後、ヤクザの世界に身を置き、殺人で13年の懲役を終えた男。
 ひとたび道を踏み外した人間が、刑期を終えていざ堅気となってやり直そうとしても、世間の風は冷たい。
 役所演じる主人公の三上は、人としては魅力のある人物だろうと思う。いい言い方をすると正義感がが強い。
 気に入らないことをだまっていられない。好きな女は命がけで守ろうとする。それで人を殺めてしまったのだ。
 シャバに出たあと、問題を起こさずに生きないといけないのは分かっていながら、町でからまれている中年を見れば、助けに入ってチンピラをボコってしまう。こういう感じのワルはモテるんだよなぁ、くやしいけど。
 女性目線だと、恋人としては魅力的だけど、結婚相手としてはちょっと……といった感覚なのだろうか。知らんけど。職場の同僚としてみると、ときどき面倒になりそうかな。でも、その人間的純粋さゆえか(けっこう、すぐ泣くし)支えてくれる人たちもいる。
 「我慢しないといけない、見て見ぬふりをすることも世の中では大事」と橋爪功や六角精児に諭されて、「みなさんの顔に泥を塗りません」と誓い、介護施設で働きはじめる。
 施設では、もとの三上なら完全にぶちきキレているような出来事がある。あばれてしまうイメージも挿入される。 しかし思いとどまって周囲にあわせる三上の様子を見ているうちに、こみ上げてくるものがあった。
 我慢が本当に正しいのか、そうやって周りにあわせることが善なのかという思いがわいてきたからかな。
 すると、道を踏み外した人間の社会復帰がいかに難しいかを描いた作品ではないことに気づく。
 罪を犯した三上は普通ではない人物だが、彼が感じる生きづらさは特殊ではない。
 生きづらさに蓋をして、わかったような顔を生きている我々一般人の方が、ほんとはどうかしてるのか?
 とくに、この頃、この頃にかぎらないか、「この人は叩いていいですよ」と認定された人を、よってたかって袋だたきにする風潮が強まってるからなおさらそう思ったのだろうか。
 前作「永い言い訳」から5年? 西川監督が次の作品にとりかかっていると雑誌で読んでから3年、待ちに待った新作は期待以上で、「非の打ち所のない」とは、こういう作品のためにある言葉だと感じた。劇場へぜひ!
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花束みたいな恋をした

2021年02月02日 | 演奏会・映画など
 カップルがざっと20組ぐらいか。ファーストデーだからか、よく入っていた。それにJKどうし、OLどうし、母と娘みたいな女性カップルが3組ぐらい。そして福山雅治風が一名と、なぜか男子高校生の四人組。
 カップル向けの作品だろうなぁ、有村架純ちゃんの映画って久しぶりだなぁ、というぐらいの、ゆるめの気分で出かけた。男子4人組は何目当てだったのだろう。
 ちょっと意外な冒頭場面があって、すぐに時が遡り二人の出会いの場面になる。
 格別へんなタイプでもないし、コミュ障でもないんだけど、もう一つ周囲に溶け込めない感じの若者二人が、ふとしたきっかけで出会って付き合い始める。いい感じだ。
 「つきあってくれませんか」と菅田くんがいい、顔をあげて「はい」と答える有村架純ちゃんの笑顔に泣きそうになる。しかもこの二人、穂村弘とか堀江敏幸とか今村夏子とか読んでるし。架純ちゃんに出会うべきだったのは、おれだったんじゃないのか。

 ~ 相手の欠点には気づいても気づかずにいられるし
   食べ物着るもの見るもの聴くもの
   すべて好みが合うと思うし
   毎日が二人の記念日になる ~

 されど、われらが日々……。あまったるい雰囲気だけでは生きていけない。
 この「はい」から、初めて手をつなぐ瞬間ぐらいが、「恋」の頂点かな。
 二人で暮らし始めれば、そして大人になるにしたがって、現実がせまってくる。
 現実問題としておまんまを食べるには稼がなくてはいけない。夢ばかり追っていられない。

 ~ ところが一年二年とたつうち見えてくるんですよ
   恋とは誤解と錯覚との闘い
   そのうちなんだかお互い知らない人に思えてきて
   次第に疲れて会っても無口になる ~

 イラストレーターの道をあきらめ菅田君が就職したあたりから、すれ違いが始まる。
 最初は、趣味も嗜好も感性もあまりに同じに思えて付き合い始めた二人だが、そこにひびが入りはじめると。修復が難しい。もともと違うタイプ同士が一緒になったカップルより、かえって辛くなるだろう。
 すれ違いやずれが少しずつ積み重なって心が離れていく様子が、二人の自然な演技とあいまって、実にうまく描かれていた。
 ちょっとして行き違いで喧嘩になる。でも大げんかにはならない。ドラマティックな大げんかにして、「じゃあ出て行く!」的な展開も、映画だから可能なはずなのに。
 でも現実にはなかなかそこまでの大げんかは難しい。だから、どっちかがほどよいところで我慢したりもする。
 もちろん、内面では納得したりはしてないのだ。
 いったん矛を収めて「コーヒー呑む?」とか言いながら、「いまの言葉ににヤな感じのせちゃったかな」と思ったり、そんなこと考えてしまうしまう自分がヤだと思ったり。そういう微妙な心の動きをちょっとした動作で表せる架純ちゃんて、こんなに技巧派の女優さんだったっけ? と思うくらい感心した。
 とにかくリアルだから、結果として、ものすごく身につまされ、見に来てるカップルさんたちは大丈夫なのだろうかと、途中から思い始めた。
 でも長くつきあっていきたいなら、現実から目をそらすわけにはいかないのだから、やはりカップル向けなのかもしれない。たしかに、ほれたはれたは何年も続かないよ。愛に昇華していかないと。
 この映画を観て、Awesome City Clubを聞いた後、さだまさし「恋愛症候群」を聴けば、二人の関係は長続きする。

 ~ 恋は必ず消えてゆくと 誰もが言うけれど
   ふた通りの消え方があると思う
   ひとつは心が枯れてゆくこと そしてもうひとつは
   愛というものに形を変えること ~
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眠れない夜なんてない

2021年01月24日 | 演奏会・映画など
 吉祥寺シアターで、青年団の公演「眠れない夜なんてない」を観劇する。
 昭和から平成に変わろうとしている時、マレーシアの日本人用リゾート地を舞台に描かれた作品。
 定年を迎え完全に移住してきた老夫婦と、それを尋ねてくる娘たち。定年後の住処を探しに下見に来た夫婦。短期滞在でリゾートを満喫しようとしている若めの夫婦、娘と二人で暮らしている初老の男……。
 平田オリザ演出なので、声もはらないし、セリフのリズム感も演劇チックではない。間違っても踊り出したりはしない。なんでもないやりとり、ごく自然な会話のやりとりが積み重ねられていくうちに、登場人物それぞれが抱える事情や屈託があきらかになっていき、人の居場所のふたしかさや、人間関係のもろさなどをじわじわと感じさせられる。
 
 演劇は表現を見るという受け身の行為ではなく、自己を相対化する行為だ……、的な文章を評論の演習で読んだ記憶がある。

 青年団のお芝居は、開演前から必ず舞台に誰かがいて、ふつうに本を読んだり片付けしたりしてる。もう一人の人が入ってきて軽く会話もする。
 これも本編の芝居のうちかなと思って物販で台本を買ってみると、開場時間の段階から、舞台でこうこうするようにとの指示がある。もはや開場時間が開演に近い。そうか、「男祭り」で開演の前に、教員バンドで15分演奏してしまったのもOKではないか。
 ディズニーランドは、舞浜から入場ゲートの間にもすでにちょっとした趣向が凝らされているのとも本質は似ているかもしれない。ディズニーランドと青年団とでは、そのベクトルの量は似ていて向きは反対だ。
 そして芝居が終わったあと、実は向きも同じなのかもしれないとも思う。
 日常を極力そのまま描こうとするかのように見えたかの芝居は、見ている人をいつのまにか非日常へ連れて行く。日常の自分とまったく異なる方向にいる自分を感じさせてくれるという意味で。
 超高級料亭の出汁みたいな味わいといえるかもしれない。
 一口すすって、味薄くない? と一瞬感じ、いや、ちがう、すごい深い! 何これ? と感じるような。
 料理本に出ている一番出汁のひき方なんて、絶対もったいなくてできるわけないじゃん、という日常を過ごしているのに、じわじわと非日常にカラダを侵食されていくような感覚。
 芝居がはじまった瞬間に、いきなりステーキを口の中にほおりこんでくるようなお芝居もあるけど、青年団はまさに料亭の味わいだ。とすると、埼玉芸術劇場でやってるシェークスピアはフレンチ、キャラメルボックスは洋食屋、梅棒は得たいのしれないアジアン、歌舞伎は高級天ぷら……、みたいなものか。
 食事処にもピンからキリまであるように、お芝居にもあるが、食事のピンに比べたらお芝居は安い。
 静かな演劇の最高峰である青年団は4000円。藤原竜也の出るフレンチの最高峰も1万円ぐらいなのだから。もういっかい食べてみようかしら。
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私をくいとめて

2020年12月25日 | 演奏会・映画など
~ 芥川賞作家・綿矢りさの小説を原作に、アラサー独身女性と年下男性が織り成す不器用な恋模様を描くラブストーリー。脳内にいるもう一人の自分を相談役にシングルライフを満喫するヒロインが、思いも寄らず恋心を抱く…… ~

 のん(能年玲奈)さんが演じる主人公みつ子は、おひとりさまアラサー女子だ。
 何年も恋人なし。たった一人の親友はイタリアに行ってしまい、ふだん話相手になるのは、職場の先輩で同じく独身のノゾミさん(臼田あさ美)ぐらいだ。会社を離れれば、基本的に脳内の自分と会話するしかない。
 みつ子は、脳内自分のことを「A」と自覚し、「ねぇ、Aはどう思う?」と尋ねたりする。
 「こうではないでしょうか」とかえってくると、「そんなことはわかってるよ!」と言い返したりするが、その声が外にもれてしまうことがある。
 のんとA(声は中村倫也)との会話を推進力にして話がすすんでいくのだが、書いてて気づいた。これは、ふつうだ。
 もちろん、脳内の声がこの作品の能年玲奈さんほどはっきり外に出ることはめったにないけど(人によってはけっこう出てるけどね)、みんな同じではないか。
 出入りの業者さんで少し年下の林遣都くんと知り合って、お互いに心惹かれているのに、もどかしいほど進展しないのも、実にふつうだ。
 Aとのやりとりや、その結果として表現されるのんさんのけっこうはげしい感情表現も、その感情を風船とばしたりアニメにしたりして具象化する表現も、実に映画的だ。
 美男美女が登場し、めくるめく恋愛模様を繰り広げてくれる作品は、たしかに楽しい。ユメは見れるけど、現実とのあまりにちがいにがっかりする時はある。
 のんさんがなかなかアラサーに見えないという点を除けば、この作品の「ふつうさ」は現代を生きる私たちの自意識をこれでもかと描き出し、身につまされ、救いも与えてくれる。
 「年末年始に遊びにおいで」と親友の皐月から手紙をもらい、苦手な飛行機に乗りイタリアに行く。「久しぶり!」と自宅に迎え入れ、「いろいろあったね」と語り合う、のんと橋本愛。なぜか、映画の筋に関係なく泣けてしまったシーンだった。いい映画だった。
 ということで、今年の主演女優賞はのんさんに決定しました。

 2020年 主演女優賞  のん 「星屑の町」「私をくいとめて」
     助演女優賞  恒松祐里 「酔うと化け物になる父がつらい」「スパイの妻」
     新人賞    蒔田彩珠 「朝が来る」「星の子」
     すごい気になったで賞 阿部純子 「Daughters」「罪の声」「461個のお弁当」
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ミセス・ノイズィ

2020年12月07日 | 演奏会・映画など
 ~ 母親として日々家事をこなし、小説家としても活動する吉岡真紀は、スランプに陥っていた。あるとき彼女は、隣人の若田美和子から嫌がらせを受けるようになる。真紀は美和子がわざと立てる騒音などでストレスがたまり、執筆が進まず家族ともぶつかってしまう。真紀は状況を変えようと、美和子と彼女からの嫌がらせを題材にした小説を書き始める。~

 これが「yahoo映画」で紹介されているあらすじ文。
 それぐらいの知識で観に行った。隣に座っている同僚から「おもしろそうだ」と聞いて、調べてみて上映館が少ないことと、上記のあらすじを知った。これがどうやったら面白くなっているのだろう、気になる女優さんが出ているわけでもないしなと思いながらも、ふらふらと日比谷ミッドタウンまで行ってしまったのは、どこか嗅覚が働いたのかもしれない。
 すばらしい作品だった。
 年末なので決定します。
 今年の邦画ベスト1はまちがいなくこの「ミセス・ノイズィ」だ。洋画は「ストーリー・オブ・マイ・ライフ」。
 人間のものの見方とは、いかに表面的なものか、見たいものしか見てないかということを感じさせられた。
 人は、自分が見たかったことだけ見て、それが正しいとか、普通だと言う。
 言うばかりか、違う考えの他人を批判したり、バカにしたりさえする。
 何年か前、現実にあった「騒音おばさん」事件を題材にした作品だ。
 おそらくワイドショーでは「迷惑な変人」として報じられ、見ているわれわれも「あんな人が隣にいたらやだなあ、困ったもんだなあ」ぐらいの感覚で眉をひそめていただけなのではないか。
 彼女には、もしかしたら映画で描かれたような事情があったのかもしれない。
 あ、観る方がいるかもしれなので、これ以上は書かないことにしよう。
どたばた悲喜劇風に進んでいくのかと思いきや、視点が変わると、深い人間ドラマに様変わりする(書いてんじゃん)。
 ご近所付き合いだけでなく、いろんな人間関係が希薄になっている現代社会では、なんらかの事情を抱えた人の悲しさと、それに気づかずに一方的に断罪する人々が生まれる。
 その溝は、SNSが発達した今だからなおさら深いという洞察も感じさせながら、主張をおしつけるのではなく、高度な泣き笑いのエンタメ作品として訴えかけてくる。こんなに泣かされることになるとは予想もしてなかった。ぜひ、劇場へ!
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シエナウインドオーケストラ

2020年08月31日 | 演奏会・映画など
 シエナウインドオーケストラの50回記念演奏会「ジョン・マッキー作品特集」は、7月4日開催予定だった。
 コロナで8月末に延期になり、「男祭り」の練習が入る日だからキャンセルかなと考えたが、それもなくなり結局聴きに来られた。
 マッキー作品は吹奏楽コンクールでチャレンジする学校さんもある。
 吹奏楽にしかできないことを具現化している曲ばかりで、しかもかっこいいから、一度やりたいと思う関係者は多い。
 ただし難しい。まず物理的に難しそう。どれくらい難しいのか正直わからないが、難しそうであることだけはわかる。
 一昨年の徳栄さんとか、すごいなあと思う。そこに費やしたであろう練習時間を想像すると頭が下がる。
 オープニングは「セイクリッド・スペース」というオープナー的な曲。それでもグレード高そう。
 続いて、住谷美帆さんをソリストに向かえての協奏曲。
 若きSax奏者として名前は知っていた。たぶん「ぱんだウインド」で音も聞いているが、はじめて聴くソロにはぞくぞくした。
 休憩をはさんで、メインの「ワインダーク・シー」。
 冒頭のテーマから、こんなに吹いて最後までもつのかと危惧したが、杞憂に決まってる。最後はとんでもない音圧が、一個飛ばしに座っている客席を襲う。全体像が計算されつくしている感じがする。まさにこれがプロの演奏なのだろう。団員のみなさまも久しぶりの本番で、気合いが入ってらっしゃったのではないか。
 なんにせよ、大人の本気はすごいと感じる演奏会だった。
 ほんとなら、みんなを誘ってきたかった。
 ここまで来たら、アンコールで「アスファルトカクテル」とかやってくれればいいのにと思ったら、まさかの「レッドラインタンゴ」で、住谷さんも加わっての演奏。帰りにご祝儀きって帰ろうかと思ったくらいだ。
 ライブにまさるものはない。
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ストーリー・オブ・マイライフ

2020年06月15日 | 演奏会・映画など
 文学史に残る名作、オルコット『若草物語』。
 国語の先生として当然読んで……ということはなく、『若草物語』を新たな視点で映画化したと言われても、もとを知らない。
 でも、その「新しさ」の一部は、たぶんだけど分かったような気がした。
 そして、原作がなぜ名作と言われるのかについては、思い知らされた。
 戦場の父親から届いた手紙を読む母親の周りに、四姉妹が猫の子のように重なり合って聞いている、わりと前半のシーンではやくも決壊していた。
 19世紀後半、アメリカの田舎を舞台に、四人姉妹の生き方が描かれる。
 結婚こそが女の幸せと考える保守的な、しかし当時としては常識的な長女のメグ。
 人なつっこく、お金持ちの伯母にかわいがられる末っ子のエイミー。
 繊細でピアノがうまく、しかし病気で早逝する三女のベス。
 作家になることを夢見、幼なじみからの求婚にも応じず自分の信念を貫こうとする、次女ジョー。
 主にジョーの視点で物語が描かれ、ジョーが創り出していくプロセス自体もメタの物語になっている。
 すぐれた文学作品は(また大きめ!)、人が描かれている(あたりまえじゃない?)。
 人が描かれているとは、そこに物語があるということだ。
 登場する四姉妹にはもちろんのこと、やさしく見守る母にも、南北戦争に従軍する父親にも、メリルストリープ演ずる伯母にも、幼なじみのローリーにも、みな物語がある。
 そのどれにも優劣はもちろんないし、どの物語もあまったるいものではない。
 むしろ、つらい経験、悲しみや怒り、思い通りにならないことが多い。
 それでも、性格も考え方もまったくちがう四姉妹が、時にけんかしながら支え合って生きていく様子と、それを見守っている人たちの姿を見ながら、それぞれの物語の中では誰もがみな主人公(さだまさしか!)であることが伝わってくる。
 いつしか観ている自分も、自分を主人公とするこの毎日が何か愛おしいもののように感じていた。
 映画史に残る名作「ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語」の誕生だ。
 ぜひ劇場へ、どうぞ!
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