何を食べるかはやはり大事なのだ。
「美味しいものを食べて五感を刺激することは音楽表現においてもとても大事」と、佐渡裕氏も言っていたではないか。
その佐渡氏がベルギー(だったっけ?)で、ここがヨーロッパで一番おいしいと食べていたのが味噌ラーメンだったし、自分の最後の晩餐はカツカレーだと話していた。
食の好みがかぶっている。同級だという要素も大きいと思うけど。
それで、今年お世話になった食べ物を振り返るなら、吉野家、山田うどんといった日常レベルのお店を別にすれば、つまり「でいいかな」ではなく、意図的に「食べよう」と思って出かけたお店としては、南古谷駅前「みかみ」さんの辛味噌ラーメンが今年一番だった。微妙に味が変わっていると思えるときがあり、たえず工夫を重ねていることが感じられる。
池袋ジュンク堂に行った際につい寄ってしまうようになったのが「キッチンABC」さんで、オムライスかオムカレーを頼む。おっさんが一人でオムライスを注文できる店ってそんなにないんだよね。
映画『闇金ウシジマくん』で、ウシジマが留置場に入れられてオムライスを食べながら、「ケチャップ足りねえっ!」と叫ぶシーンがあったが、ABCのオムライス差し入れしてあげたくなった。ウシジマでさえケチャップがあまるかもしれない。
川越西口から徒歩数分のところにあるイタリアン「クチーナ・タ・ト」は、ご夫婦二人で営む10席ちょっとの店だが、本格的なイタリアンを、この値段で儲けは出るのですか? と訊きたくなる値段で供してくれる … 、なんて書き出すと通っているみたいだが、二回行っただけだし、ましてフレンチやらイタリアンやらの比較対象を知らないのだが、数千円のディナーなるものを食べたことがないわけでもないので、そこから考えると、これほどコスパの高い店はそうそうないのではないだろうか。
おいしそうだったものと言えば、映画「麦子さんと」にでてきた、余貴美子が娘の堀北真希につくるカボチャの炊き込みごはん。ほうとうのような具だくさんの味噌汁もそえてあり、コンビニのお総菜や弁当を夕飯にしている主人公との生活感の差を一瞬にして浮かび上がらせるシーンだった。
宅間さんの舞台「晩餐」で、未来からやってきた息子(中村梅雀)が、母(田畑智子)のつくる味噌汁をすすって、この味だと言うシーンは泣けた。
ミュージカル「ラブレター」に出てきた食堂「亜茶古茶」は、「焼き魚定食に冷や奴をつけて!」って頼みたくなるお店で、まして宮崎祥子さんがお店に立っているなら、ここでご飯食べるためだけに新宿まで通ってしまうだろう。
「あまちゃん」で、いろんな食べ物が重要な働きをはしていたことは言わずもがなだが、自分がいいなあと思える作品は、食べ物をちゃんと扱っている作品なのかなと思う。
佐渡裕氏の音楽に近づくために、新年はもっと自覚的にものを食べていこう。
みなさま、よいお年をお迎えください。
二日目。井上学先生の「ポップス講座」、馬場正英先生の「運営法講座」は、ともに現役高校教員という視点で話していただいて、勉強になった。
数年前、はじめて「ポップス講座」を受講したさいに、ポップスの譜面の読み方をならって目から鱗がおち、そういうことを指導できる先生が身近に存在することにも気づき、自分でもだいぶわかってきたつもりだ。知ってはじめてそういう耳ができる。
中学生、高校生のポップス系の演奏を聴くと、完成度はどうあれ、ポップスらしい演奏になっているかどうか、そういう指導が入っているかどうかは、はっきりとわかる。
知らないことは見えない。
研究授業を参観していて、ある若い先生と、経験(漫然とではなくね)を積んだ先生とでは、その見え方が全く異なるのと同じだろう。
全国大会3出お休みだった都立片倉高校の馬場先生のお話は、へえと思うことも多々あった。
「3出」を経験できる学校といえば、埼玉では栄さん、伊奈学園さんといった、ある意味次元の異なる学校だ。
都立片倉高校のおかれた状況は、むしろ普通の高校で、おかれた環境を考えたなら、よく全国常連バンドをつくれるものだと感心せざるを得なかった。
いっかい話をきいたぐらいで本質をつかめるわけではないが、うちは楽器が足りないとか、経験者が少ないとか、練習時間が足りないとか、そんな目先のぐちをつい言いたくなる自分が情けなくなる。
部活の運営に前に自分の運営が大事という話もなるほどと思う。
自分が100%で突っ走っていたら、何かあったときに対応できなくなる。
自分が部活に行けなくても、体調を崩しても、自然に進んでいくシステムを作ることがまず優先だと。
う~ん、理屈ではわかっているのだが。
JBA講習会の初日は、全受講生対象のリハーサルテクニック、中級者対象の指揮法レッスン。
ふだんの指揮レッスンとはことなり、実際の吹奏楽曲をどう振るかという内容で、まずはピアノ伴奏でに練習だった。曲は「イギリス民謡組曲」。教程で学んだことを楽曲でどういかせるかが自分の課題ではあったが、いかんせん曲そのものへの予習が不足していた。
直前に車のなかでCDをくりかえし聴いたぐらいで臨んだことを後悔した。
遠方から、しかも毎年のようにこの講習会に出られてる先生も多いようで、そういう方は予習をちゃんとされてるように見受けられる。
次回また参加できるなら、受講料がもったいなくならないように、しっかり予習してきたい。
それでも、参加したことには意味があったはずだ。
「さらってないので合奏に出ないで個人練習します」という子が、けっきょく上手になっていかないのと同じで、合奏で案の定できなくて悔しい思いをして、その後必至でさらうのが大事だ。
ただ、ひとつ言えるのは、自分はできないにしても、他の先生方の振り方を見て、どこがどう悪いのはわかるようになった。これは成長ではないか。やべ、この年でまだ成長し続けてんじゃね?
もっと言うと、プロの方の棒をみると、そのあまりに上手さをため息がでるくらい感じられるようになった。
「勉強するとものの見方が変わるんだよ」と、ふだん生徒さんに繰り返し話していることを自分でも体感できているのだが、これって幸せと思っていいんだよね。
みんなで立教新座さんの定期演奏会に出かけた。
きゅうきょチラシを印刷し持っていったら、OBの方がこころよく挟んでくれた。
場所は所沢ミューズ。本校も過去一度だけ定演を行ったことがある。
ミューズができたばかりの頃、コンクールや西部地区の大会で使用するたびに、いくらなんでもこのホールは響きすぎではないかと感じたものだが、最近は落ち着いたほどよい響きになったような気がする。
超名門校ほどの大人数ではないぐらいいの吹奏楽バンドが手堅く演奏すると、実に聞きやすい。
秋の合同演奏会依頼、何ヶ月かぶりに聞いた立教さんの演奏は、バランスがよく実にまとまって聞こえた。
いろんな企画やMCもほどよく抑制がきいていて、全体に知的な雰囲気がただよっている。
冷静に見れば、少しサムいかな、ツメが甘いかなというネタもあったかもしれないが、自信をもってやりきろうとしていたのが立派だ。
自分達がやっていることへの自信を感じる。やらされている感がまったくない。
志村先生のご指導もあるのだろう。親しくさせていただいて日が浅いが、先生が立教さんに赴任して六年だと言う。つまりそのときの中1が、今日の演奏会で高校3年となって卒部していく。
感慨深いのだろうか「30歳になってミッキーの着ぐるみを着る自分によくついてきてくれた」という主旨のお話をされていた。
一部の県立高校さんとちがって、異同を考えずに指導し続けられるはずだから、これからますます伸びるバンドだろう。
なぁんて、評論家みたく言ってる場合じゃなかった。こっちも当事者だ。
50歳過ぎて女装してる自分もえらいけど、そんなことより演奏で名をはせられるように、一歩踏み出していかねば。
演奏会後、ミューズのリフレッシュコーナーで幹部とミーティングを行い、定演の中身をつめ、年始までの宿題を確認して解散した。
明日は、指導者講習会にでかける。
冬期講習の最終日。休みが何人かいた。
やっぱりね。出欠をとらない授業で、しかも希望制だからね。
この状況下で申し込んだ子全員が休まず参加する学年はちょっと作れないと思う。
ま、ほんとに百%出席だったら気持ち悪い気もするし。
むしろ自分の高校時代などを思うと、ほんとにみんなよく通ってくると感じるくらいだ。
とにかく休まずに来れるかどうかは、何かをやれるかどうかの大きな分岐点であることは間違いない。
類い希な能力をもっていても、やるかやらないかにムラのある子は大成できずに終わることが多くて、職員室で「あいつは力あるんだけどなあ、もったいないなあ」と噂になるタイプだ。
ひょっとして自分て、昔そうだったのかな。「素直にちゃんとやればいいもの持ってるんだけどなあ」とか言われたのではないだろうか。うん、きっとそうに違いない。よし、遅いかも知れないけど、これから頑張ろう。
「あと一ヶ月本気で勉強したら、とんでもなく伸びるよ」って、昨日の個別相談でも語ったりしたので、その言葉そっくり自分にかえしてみよう。
そして部活にも。今日、学校での練習は今年最後だった。全員来てたのが一番よかった。
新人戦、ニューイヤーまで日がないようだけど、本気でやれば時間はある。
練習後、定演の曲決めを幹部とミーティングした。残された時間を考えると、これから大曲を追加していくのは大変だけど、でもやったらできそうな気がする。定演でチャレンジしなかったらいつするのだ、という勢いでつめていきたい。
明日、立教新座さんの定演にみんなででかけるので、参考になるところはいい意味でどんどんぱくってしまいたい。
今年も終わりか … 。
今年観た映画の主演女優賞を、先日麻生久美子さんに贈呈したが、「麦子さんと」の堀北真希さんのお仕事ぶりも絶品だった。どんな役でも、必ず一定以上の結果を出すという意味で、この女優さんは今トップなのではないだろうか(作品についてはあらためて書きます。まちがいなく今年のベストです)。
ということで、夏帆さん(「箱入り息子の恋」)、前田敦子さん(「もらとりあむタマ子」)、麻生久美子さん(「馬車馬さんとビッグマウス」)、堀北真希さん(「麦子さんと」)が、女優賞に決まりました。
これって、みんな「ダメダメ」な役じゃないか。ダメ女(じょ) … みたいな言葉ってあるかな。
イタ女とか言う? みんなタイプは異なるが、どこにでもいそうなイタさ、ダメさがリアルに描かれていた。
でもどこか憎めずに(これは彼女たちのビジュアルにもよるところが大きいのはイナメナイ)、愛おしい存在であり、二時間のなかで描かれる成長ぶりを観て心が和ませられる。
たとえば自分も、一週間とか一夏とか半年とかの暮らしのいくつかの場面をきりとって、二時間に編集したなら、作品ぽくなるのではないだろうか … 、なんてことを観る人に感じさせられるような作品群だった。
最後の個別相談会。午前中しゃべくりまくって、今年の営業活動もいったん終了した。
年末のこの会にはじめて来校するという方もけっこういらっしゃって、そのいきおいで本校を第一志望にする方もいた。ありがたいことだ。人生って決めるときは一瞬で、意識の上では全く考えてなかった決断をしてしまうこともある。その選択は客観的にみると、正しいかどうかその時点では微妙でも、意外にうまくいってしまうことも多い。
いきおいで何かしてしまうのは悪いことではない。おそらく、無意識のなかでそれを求めていたという場合もある。
この学校に気持ちは傾いているけど、経済的なことを考えると … 、通学時間を考えると … と悩んでいるのですという相談もあった。
学校選びには大事な要素ではあるけど、でもそれはやはり二次的なものだ。
行きたい学校を選んだという気持ちは、その後三年間の暮らしに影響する。
二次的なものを優先して選択した場合、そうやって決めた自分の心のありように後で残念な思いを抱くこともある。
難しいとこだけど。
でも、多少高くても好きで買った服は大事にするけど、お買い得優先で買った服って意外に着なくないでしょうか。
セブンで肉まんを買おうとしたら「餃子まん」というのが目に入り、そんなのがあるのか、とりあえず食べてみよう、好奇心の趣くままに行動するのがボケ防止にもいいと言うし、頼んでみた。いつも見かけない若い子がレジで、たどたどしい。餃子まんのうちかたで戸惑ってるのだろうか。研修生な感じだ。オンザジョブトレーニングだね。
お金を払い、念のため正しく打ってあることをレシートを見て確認し、車に戻って袋を開けると、オーマイガー、ピザまんが入っているではないか。
どうしても餃子まんが食べたいわけではなかった。ピザまんはむしろ好きだ。でも、このままにするのは彼女のためにもよくないのではないかと思い、店にもどり「あの、ごめんね、餃子まん食べたかったので」と言ってピザまんを見せると、すぐに「すいませんっ」と言うので、種類がわからなかったわけではないようだ。
いっぱいいっぱいだったのかな。でも、レジにかかった時間を考えると、いくらOJTでもちょっと一人では無理じゃないか、レジに立ってもいいけど、すぐにバックアップにつく人がいないと、おれみたく優しい客ばかりではないよと、心配になる。
ちょっとかわいいその子に腹は立たないけど、フォロー薄そうな店のシステムにはどうかなと思い、その時にふと、今の学校も同じかなと思えてきた。
なんか、天声人語みたいな展開の文になってしまうけれど。
教員の世界はまさにOJTで、大学を出たての新任の先生が、実質の経験ゼロの状態で、担任をもったりする。
周りがきちっとフォローする体制のある学校はいいけれど、そうでないところも多いし、我流で身につけた技術のみで生きている先輩先生も多い。新任の研修を担当する前に自分の研修が必要なんじゃないかなと思われる方もいないとは言えない。
でも、これはしょうがない。当の本人に、自分は未熟だという意識があって、ちゃんと勉強しようという気さえあれば何とかなる。
問題はやはり、「お客さん」の質だろう。
コンビニでものを買うように、教育の対価を求めている「お客さん」に変化しつつあること。
昔は、お客さんは皆、おれのように優しかった。
たどたどしいレジを文句言わず待っていた(むしろ、おれの後ろにならんだオヤジが、はやくしろ的雰囲気を出してて、それはそれでいいけど、距離感近すぎるっつーの。なんで見知らぬオヤジとこんなに接近しないといけないの)。
昔は「先生の言うことはちゃんと聞くものだ」と、共同体が学校を支えていた … なんて話も、遠い過去のものになってしまったなあ。
でも学校って、500円払えばすぐに500円分の商品がもらえるという場ではないと自分は思う。
レジがおそいと不満げになる「お客さん」が増え、しかも教員側には驚くことに、コンビニのようなマニュアルさえ与えられていない。新任の先生で、学級崩壊しない方が不思議な状況になっているはずだ。
そういうことを思うと、部活もきちんとやらせてくださる本校の親御さんには感謝しないといけないとあらためて思う(いえ、とってつけたような言葉ではありません。進学のみの学校さんにけっこう営業的に押されている状況なので)。
午後のアンサンブル発表会に向けて、午前中に通しのリハーサル。ほとんどのアンサンブルをはじめて聞いた。どうしても手直ししたいチームだけ昼休みに集めてチェックしてみると、音形への意識がメンバー内でばらばらだったり、楽譜に書いてあることをやろうとしてなかったりしていることに気づく。
バンドとしての問題点は、アンサンブルになったとき如実に現れるの原則どおりだ。
ぎゃくにアンコンに出て鍛えられたメンバーは、違う曲でもそれなりにやれている。
個人、パートでのチェックをこの先ちゃんとやっていかないといけない。
お昼を過ぎると、保護者会役員さんが発表会後のプチパーティーのだんどりをしに来てくださった。
リハよりもはるかにうまくいった本番を終えて、クリスマスケーキをきってもらい、乾杯して談笑して、講習用に机をセットし直して終了。慌ただしいが、充実した一日だった。
保護者のみなさま、ありがとうございました。
チャリ組がかぎをしめて撤収したのが17時半過ぎ、17時50分からの「永遠の0」に余裕で間に合うので、急遽でかけた。終わったあと後ろを見渡すと、けっこうなお客さんが入っているではないか。
よかった。原作者の百田さんと同世代の者として、人生も後半に入っている者として、なんか製作者サイドの気持ちになってしまい、たくさんの日本人にこの作品を観てほしいと心から思った。
それにしても、岡田くんて … ほんと、かっこいい。
冬期講習の2セット目の初日は、基本的な記述問題の答え方を確認する授業。
午後は早めに合奏を設け新人戦課題曲の「じゅげむ」と、明日演奏する「恋人たちのクリスマス」をあわせた。
一足先に学校を出させてもらい、新宿からロマンスカーで町田へ。駅前の「箱根そば」で川越駅「文殊」に匹敵する、極めてハイレベルな立ち食いそばを座って食し、町田市民ホールへ歩く。音楽座ミュージカル「ラブレター」を生徒引率なしでじっくり観ることができた。新宿文化センターより小ぶりのホールで、出演者のお顔がよくわかる。やはりこれくらいの大きさの会場があっていると思った。個人的には池袋芸劇の中ホールがベストだ。
池袋にもどり、吹部OB呑み会の二次会へ顔を出させてもらった。19期、20期のメンバーが17人だったかな。とくに19期のメンバーと顔を合わせるのはほんとに久しぶりだった。A部で初めて県大会に行けたメンバーたちではないか。ほぼ全員がおっさん化していたし、既婚者も三人いた。気持ち的には、彼らがどんどん自分に近づいてくるような感覚がある。かやま君、よんでくれてありがとう。
学年だより「準備力」
物事がうまくいかないとき、「おれには才能が不足している」という言い訳を人はしがちだ。
天賦のものがかけているのだから、努力しても限界はある、だからこの程度の結果で満足するしかない、と。
しかし実際には、物事がうまくいかなかった原因は、才能の不足ではなく、単に準備不足だったという場合が多い。しかも、ほとんどの人は、そのことを心のどこかで自覚している。
自分のもてる能力をいかし、誰にも負けないほどの努力をした結果がそれだったと、心から納得している例はそれほどないのが現実ではないだろうか。
「ありとあらゆる手段を講じる」という表現がある。しかし、現実に「ありとあらゆる手段を講じ」きった人はいないという。なぜなら、すべてをやりつくす前に、人は成功してしまうから。
~ 大学入試でも準備不足でだいたいの人が落ちています。頭の善し悪しではなく、準備の多寡です。大学に偏差値があるとすれば、それは準備力です。準備力で偏差値が決まっています。
いい加減な大学の学生は、いい加減な準備しかしません。東大生は頭がいいから準備せずにその場でなんとかする人間が多いかという逆です。東大生は驚くほど準備がしっかりしています。
東大生の独創性にはまったくの保証がありませんが、準備することに関しては万全なのです。
くすぶりを突破できない原因は、才能や資質ではなく、準備不足ではないかというところに疑いをもっていってみるのです。 (齋藤孝『くすぶる力』幻冬舎) ~
自分の能力ではこんなものだろうと、簡単に結果を受け入れてはいけない。
本当にそれが自分のすべてだったのか、本当にそれで満足しているのかと自問してみたとき、少しでも後悔する部分があるなら、そこがスタートだ。
~ 人生はスタンプラリーだと思っている。人は誰しも「記憶」という台紙を持ち、そこに「思い出」というスタンプを押しながら、それぞれの「寿命」という有効期限内を生きているのだ。どうせ押すというならば、できるだけ色鮮やかなスタンプを押したいと思うのが人間である。だからこそ、我々には「向上心」という名の「欲望」が装備されているのではないだろうか? 無論、その出来映えには個人差がある。懸命に努力してもスタンプがズレたり、予想外のアクシデントで上下が逆になったり、一瞬の判断ミスで色が滲んだりすることも、人生においては多々あるだろう。しかし、決して忘れてはいけないのは、それでも「押している」ということだ。そこに「優劣」は断じてない。そこにあるのは、その出来栄えに本人が満足しているかどうか、ただその一点だけなのだ。 (博多大吉『年齢学序説』幻冬舎) ~
この冬休みをいかに充実させられるか、今後の人生のために大きいと思う。よいお年を!!