今日は2001年の古文。
問いの5番は、傍線部の解釈として「正しくない」ものを二つ選べ、という問題で選択肢が六つ。
この時点でふつうは「えっ?」と思う。
正しい解釈がつまり4つ存在するということだ。
河合塾の黒本を見たら、案の定嘆き節が書いてあった。
「適切な解釈が四つも成立するなんて、出題者が解釈を確定していないわけで、普通の問題作成の感覚からすると、納得できない」
予備校の方から見たら(われわれから見てもだけど)、信じられないような問題だろう。
何か深い意図があったのかもしれないが、その後同じタイプの問題が作られてないところを見ると、から回ったということか。
とにかくこの年の古文は、本文がやたら難しい。
そして本文が難しいわりには、選択肢は練られてないという印象はぬぐえない。
この文章を、この年たぶん30万人くらいの高校生に読ませた先生には、どんな思いがあったのだろう。
ふつう大学の先生の書かれた文章が、30万人に読まれることはまずない。
その幸せを思えば、そして入試問題であっても、その先生の作物であることを思えば、ご自身の論文に対するのと同じくらいの情熱を問題作成にかけていただいてもいいような気はする。
もし自分がセンターの問題を作らせてもらえるなら、それを読んだ高校生が、いままで古典をおろそかにして本番にのぞんでしまったけど、大学に入ったらちょっとまじめにやろうかなとつい思ってしまうような問題を作りたい。
自分が高校生のときを思い出すと、模試を受けるのは億劫ではあったが、じゃ嫌いだったかというと、そうでもなかった。
さぼろうかなとの思いながら、いざ試験がはじまるとつい読みふけってしまうような経験はした。
その時の結果がどうだったかは覚えてないけど。
高3だったかなあ、模試で幸田露伴「五重塔」が出てておもしろくてたまらなく、帰りがけに古本屋さんで岩波文庫を50円くらいで買って読んだと思う。
たぶん結果はよくなかっただろうけど。
文章には、その文章が書かれねばならなかったわけがある。
筆者がどうしてもその文章を書かねばならなかった、ある事情がある。エネルギーがある。怨念がある。
その思いが伝わるかどうかは、思いの強さと、伝える技術との二つが規定する。
出題された問題にもそういうものはあるはずだ。
大学の先生はなぜその文章を出題したのか。
川東の国語教員は、なぜその文章を選んだのか。
この文章を読んでもらいたいという思いと、問題をつくる技術の二つが、問題の出来不出来を決めることになるだろう。
出題された問題をぱっと見た瞬間に「こう来たか。さすがだ」と思えるものもあれば、繰り返し読んでもその出題意図を想定できない場合とがある。
どんなタイプの問題が出ても、動ずることなく力を発揮できるようにしてあげないといけないとこがまた難しい。
文句を言って解かずに済ますわけにはいかないから。