水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

憂鬱でなければ、仕事じゃない

2011年06月30日 | おすすめの本・CD

 人間いつも前向きってわけにはいかない。
 頑張らなきゃと思ってても体が動かなかったり、気分が沈んだりすることもある。
 努力すれば結果は出る、願えば叶うってみんな言うけど、一面真理であると思いながらも、実際の人生はそんなにうまくいくもんじゃないことは誰もがわかっている … 。
 そんな気分のときに必要なのが文学なんですね、という話を、小説を教えるときにはよくする。
 前向きの気分に満ち溢れているときは、小説など読む必要がない。
 読んでもおもしろくないはずだ。
 そんな時は、ビジネス書のコーナーに行って、『念ずれば夢がかなう』とか『ハッピーでモテモテなお金持ちになる4500の方法』とか買ってきて読めばいい。
 後ろ向きの気分で読むビジネス書というのは、本来ないはずなのだが、奇跡的にそれを可能にしたのがこの本だ。
 文学の仕事をビジネスにしてる見城徹氏だからこそ書けた本なのだろう。

 ~ 「小さいことにくよくよするな」これは人生訓としては、その通りだろう。
   しかし、こと仕事においては、小さなことでくよくよしなければ、相手の心は掴めない。
   ましてや大きな仕事など、できるはずがない。
   「小さなことにくよくよしろよ」 (見城徹『憂鬱でなければ、仕事じゃない』講談社) ~

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贈り物

2011年06月29日 | おすすめの本・CD

 授業にいったクラスで「先生、弟が川東の一年にいるんですけど、誕生日に何か本をあげたいんですが、何かいいのありますか」と問われた。
 なんて、尋ねる相手が正しいのだろう。
 「そっか、高1か。文庫とかじゃなくていいのな。」
 「はい。まあまあ本を読みます」
 「じゃ『フリーター家を買う』なんて、どうだ」
 とその場で思いついたのを言って、あとから数冊紙に書いて渡した。
 
  有川浩『フリーター、家を買う。』幻冬舎
 ハインライン『(新訳)夏への扉』早川書房
 中谷彰宏『高校時代にしておく50にこと』PHP研究所
 誉田哲也『武士道シックスティーン』文春文庫
 百田尚樹『影法師』講談社
 奥田英朗『純平、考え直せ』光文社
 本多孝好『at HOME』角川書店
 窪美澄『ふがいない僕は空を見た』新潮社

 高1で、これから初めて『夏への扉』を読めるなんて、なんてうらやましいのだろう。
 これって若いうちに読んだ方が絶対いいから。
 弟さんの誕生日に本を贈りたいというこころがけに感動したので、長友選手の『日本男児』を進呈した。

 『日本男児』もよかったけど、『憂鬱でなければ、仕事じゃない』もすごかった。
 ここをごらんの大人のかたは、ぜひ読んでみてください。
 ビジネス書もけっこう読んできたと思うけど、最高峰です。

 

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あぜ道のダンディ

2011年06月28日 | 演奏会・映画など

  昨年観た「川の中からこんにちは」という映画は、満島ひかりの存在感に圧倒され、映画の文法やバランスをきちっとふまえているのに新しさも感じるような監督さんの才能にほれぼれとした作品だった。
 その後、この監督さんと満島ひかりさんの結婚の方を耳にし、ものすごい羨望と、才能どうしって結びつくよね的な感慨を抱いたのは数ヶ月前。どんな奴だよ、石井裕也って、かっこいいよなあと思っていたので、先日やまぐち先生から聞いた情報には耳を疑った。
 「石井裕也ってさあ、うちの卒業生なんだって」
 「ふ~ん。えっ? 何それ、うそでしょ」
 「いやいや、まじまじ」
 「うっそ、満島ひかりと結婚した、あの人?」
 「そうそう、○○先生のクラスだったってよ」
 「まじか。奥さんに会いてぇ」(そっちかよ!)

 その石井監督の新作「あぜ道のダンディ」を観ながら考えた。
 奥さんには会いたいけど、機会があるならば、やはりこの才能に接してみたい。
 そして、彼の感受性の形成に本校が1%なりとも貢献してると思って、誇らしい思いをいだきたい。
 あと「石井 … くん」とか呼んじゃおうかな。
 
 それにしても、せいぜい30でこぼこのはずの監督に、なぜこんなにオヤジの琴線に触れる作品をつくれるのだろう。
 主人公は50歳。妻を失い、一浪中の兄、大学受験をひかえた高3の妹との三人暮らし。
 もうこの設定だけで泣けてくるうえに、家族のこと、子どものことをいつも思いながら、それをうまく表現できない父親の姿が心にしみ、妻の遺影を観ながらビール呑んでるシーンなどヤバい。
 やがて家を離れて東京にアパートを借りる子ども達との別れ、うざがっていながら父を大切に思う子どもたちの気持ちや、いつもそばにいて支えてくれる親友とのやりとりなど、大作とよばれる作品群とは対極の映画で、人生に対するしみじみとした優しさにあふれている。
 それぞれのシーンや台詞がわかりやすすぎるかもという指摘もあるかもしれないが、それは監督の誠意の表れとみたい。
 高校生が観ておもしろいかと問われれば、人によるとしか言いようがないが、われわれ大人には心にしみるものとなるだろう。俺たちの生きる道はしょせんあぜ道にすぎないけど、だからこそ、ダンディに生きたいよね、って思えた。

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西部地区研究発表会

2011年06月25日 | 日々のあれこれ

 西部地区発表会。
 大会最終日のトリで演奏。
 一年生の初ステージだった。
 毎年のことだが、楽器をもって2ヶ月での発表は無理矢理ではある。
 もっとがっちり基礎をやってから曲をやった方がいいのではないかとの考え方もあるかもしれないが、上手くなるのを待っていたらすぐ3年生になってしまう。
 それに、みんなおっとりしてるから、こちらがせっせとペースを作ってあげないと。
 おっとり度合いが年々高くなっているのは、きっと本校だけではないはずだ。
 まあでも、しかたないかな。
 生まれて十数年、何不自由なくというか、すべてを与えられて育ってきて、すべてを与えられているから、それが恵まれているということすら意識しなくてすむ世代なのだ。
 ちがうな。
 すべてを手に入れることが可能になった我々世代(ぎりぎり仲間いれてください)が育てた子ども達だからだと言えるかもしれない。
 何か足りなさそうなものがあれば、子どもたちが気づく前に、先回りしてそっと置いておいてあげるような、そんな子育てをしてきた面もあると思う。
 いい悪いではなくて、それができたということなのだ。
 先回りして与えてあげようにも与えられなかった時代を乗り越えたすえに手に入れたものだ。
 もうこうなったら、これでもかと与えられるだけ与えて、もう先生お願いですから自分たちでやらせてくださいって言ってくるまで、やってしまおうかという気分だ。
 あさってから試験休み。
 試験後は、コンクールに向けて、努力ってここまでするのを言うんですかって泣きが入るまでやってみたい、と自分に言い聞かせてます。

 今日、会館にお越し頂いた保護者のみなさま、ありがとうございました。
 いつも支えてくれる保護者にみなさま、ありがとうございます。
 暑い夏になりそうですが、どうぞおからだお気をつけ下さい。
 いろいろご無理なさらないように。
 来週はもう少し書きます。

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日本男児

2011年06月22日 | おすすめの本・CD

 長友はアツい。
 『日本男児』を読みながら、そう思った。
 近くで接している人にとっては、時にアツうざいぐらいではないかとも思った。
 それはこの本のタイトルからもわかる。
 今時このタイトルで本を出そうとは、ふつう思わない。
 本人の意志かどうかはわからないけど。
 中学校時代、本気でサッカーをやろうと心に決めた長友少年は、「そんなスタミナのない身体では上にいけるわけがないだろ」と顧問の先生に言われ、とつぜん負けず嫌いのスイッチが入り、長距離走の練習をはじめる。
 で、いろいろあって、校内のマラソンでは50位くらいだったのが、駅伝の大会で区間賞をとり、チームを県3位に導くという中3時代になる。
 セリエAの選手も驚く長友選手のスタミナは、このあたりから形成されはじめた。
 長友と同じ努力をしたからといって、同じくらい走れるようになるかというと、そんなことはない。
 でも、長友選手のこんな述懐は、誰にもあてはまるのではないか。

 ~ 数ヶ月走り込んだだけで、自分はこんなに変われたのだから。
   夢や目標を叶えることが必ずしも成功ではないと僕は考えている。
   大切なのは日々努力すること。
   現在の自分に満足せず、なにが足りないのかを探し、それを伸ばすトレーニングをする。
   そのプロセスが一番大事だと思い、僕は生きている。
   目に見える成果が出なくても、やったぶんだけ、人は成長する。
   夢が実現しなくても、努力したあとには、成長した自分が待っている。 ~

 やらないとだめだよね、基本的に。
 やってみないと、だめだったという経験もできない。
 結果は出なくても、あのときはあそこまでやったなあという経験は残る。
 もっと言うと成長さえしなくていいと思う。
 やったことが自分のなかに残ってさえいれば生きたことになる。
 海なんか見にいくひまがあったら、これでもかというくらいやればいいだけのことだ。
 もちろん今年は結果も出す予定です。

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コミュニケーション

2011年06月21日 | 日々のあれこれ

 昨日のバンドレッスンでは、今週末に発表する「虹」をみていただいた。
 3学年そろってのバンドを指導していただくのは初めてである。
 バンドの状態に応じて、譜面上の細工をしていただいたり、全体像をつかませていただいたりの、あっという間の2時間半だった。
 もとの譜面とは変わった部分もあるが、作曲者が伝えたいことを今のうちのバンドが表現するためには、こうした方が伝わるという形になったと思う。
 あとはそれを我々がどれだけ理解して表現するかだ。
 作曲者が自分の伝えたいことを楽譜にして、それを演奏する人とが読み取り、さらにそれを聴いてくださる人に伝える。
 つくづく音楽というのはコミュニケーションなのだと思う。
 だから読み取るための技術、伝えるための技術がいる。
 日曜の指揮レッスンは本校会場だったため、それならバンドを振っているところを見ましょうという特別レッスンをしていただいた。
 ちょっと変わってみてと言われて、先生が振ると、やはり音が変わる。
 これもコミュニケーションの技術で、いくら自分で音楽があるつもりでいても、それを伝えられなかったら意味がない。
 すべて勉強というのは、コミュニケーションツールを身につけることが目標なのだろう。
 その身につけ方によって、古代の聖人とも、近代の碩学とも、自然界の生き物とも、子どもたちとも、宇宙人ともコミュニケーションできるようになる。
 どんなものとコミュニケーションをとりたいと思うかを考えると、何学部に行こうかななんて悩みも氷解していくのではないだろうか。

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星守る犬

2011年06月17日 | 演奏会・映画など

 映画『星守る犬』は、原作のマンガ通りにつくられていたので、原作で泣けなかったからやはりこっちでも泣けなかった。
 いや決してつまらないわけではないし、ハッピーという犬に感情移入できる人にとっては心打たれる作品となるだろう。
 ていうか、犬がかわいそすぎ。その原因は西田敏行扮するお父さんだ。
 娘さんが幼いころは明るく楽しかった家族が、それぞれの人生の変化とともにだんだん心が通わなくなり、不況によるリストラでお父さんが職を失うと、娘や妻との関係も冷えきってしまいついに熟年離婚を迎え、病気をかかえたままホームレスになって、無縁死を迎えるという、現代社会の問題を公式のようにあてはめた人生だ。
 身一つでバンに乗って旅に出て、山中でそのまま死を迎えようとするのは、自殺に近い亡くなり方だが、たった一人(一犬)の味方がハッピーという犬で、お父さんが息をひきとったあとも、けなげに食べ物をさがしてきてお父さんにとなりにおく。
 たしかにせつない。
 ちょっと不器用なだけでこんな悲しい運命になってしまう日本社会の現状、なんていうメッセージもこめらているのかもしれないが、どうしてもこのお父さんがかわいそうとは思えなかった。
 年が近いせいか、人ごとと思えないのが一番の理由だろう。
 西田敏行といえば、柴俊夫との「坊っちゃん」が「池中玄太」よりも面白かったなあという世代だから。
 誰もが無縁死を迎える可能性はあるとは思いながら、おれならもう少し、こうなる前になんとかしたいと思ってしまう。
 仕事にしても、家族に対しても。
 そんなたいそうな人生を送っているわけではないのだから。
 お父さんの年齢設定は、たしか定年少し前くらいのはずだ。
 ぜんぜん若いじゃないか。
 60歳過ぎてもエネルギッシュな方はいくらでもいる。
 縁あって昨年から何回かバンドをご指導いただいた先生も、お若い。
 それは決して見た目とかの問題じゃなくて、何かをやるということについて面倒くさがらない若さという感じだ。
 むしろ若い人よりも、躊躇なくいろいろやってしまう感覚で暮らしてらっしゃる。
 先日も「映画館で『もしドラ』シニア1枚って言うのちょっと恥ずかしかったよ」とおっしゃっていた。
 もし奥さんが出て行ってしまったなら、新しい彼女をつくろうかぐらいのいきおいで生きたいじゃないですか。 たぶん現実社会の西田敏行氏って、そんな感じだと思うけど。
 なんか、もう年だからとか言って諦めてる姿を見ると逆に「かっこつけてんじゃねえよ」と思ってしまう。
 もう一つ、お父さんの生き方に、今の自分たち日本人の象徴を見てしまうのもつらい。
 先日の大震災以来、この国のいろんな問題があきらかになって、これを機にみんなちゃんとしようよと言う人はたくさんいる。
 そう思っている人ももちろんたくさんいる。
 でも、結局かわんなそうな雰囲気がただよいはじめてるよね。
 みんな粛々と、放射能あびながら暮らしてるじゃないですか。
 家族を失い、ふるさとを奪われ、いまだに水道も電気もないところで暮らしている人がたくさんいて、政治家はあんなだし。
 わかってるよ、陽一郎君。選んだおれらが悪いんだよ。でもここまでって思わなかったもの。
 ひょっとしたら、誰が政治家になっても、そんなに結果は変わらないのかもしれない。
 東電がとか、役所がとか、マスコミがとか文句は言うけど、そんな問題でもないような気がする。
 それぞれの局面において、それぞれの場所で、ほとんどの人がまじめに生きている。
 がんばらなくていい分までがんばっている人がいっぱいいる。。
 でも国全体としたら … 、みんなで緩やかに車の中で死を迎えようとしているようにしか見えないのが、今の日本なのかなと思えてしまうのだ。
 久しぶりに書いててくらくてすいません。仕事は元気です。

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正しいものが四つ

2011年06月10日 | 日々のあれこれ

  今日は2001年の古文。
 問いの5番は、傍線部の解釈として「正しくない」ものを二つ選べ、という問題で選択肢が六つ。
 この時点でふつうは「えっ?」と思う。
 正しい解釈がつまり4つ存在するということだ。
 河合塾の黒本を見たら、案の定嘆き節が書いてあった。

「適切な解釈が四つも成立するなんて、出題者が解釈を確定していないわけで、普通の問題作成の感覚からすると、納得できない」

 予備校の方から見たら(われわれから見てもだけど)、信じられないような問題だろう。
 何か深い意図があったのかもしれないが、その後同じタイプの問題が作られてないところを見ると、から回ったということか。
 とにかくこの年の古文は、本文がやたら難しい。
 そして本文が難しいわりには、選択肢は練られてないという印象はぬぐえない。
 この文章を、この年たぶん30万人くらいの高校生に読ませた先生には、どんな思いがあったのだろう。
 ふつう大学の先生の書かれた文章が、30万人に読まれることはまずない。
 その幸せを思えば、そして入試問題であっても、その先生の作物であることを思えば、ご自身の論文に対するのと同じくらいの情熱を問題作成にかけていただいてもいいような気はする。
 もし自分がセンターの問題を作らせてもらえるなら、それを読んだ高校生が、いままで古典をおろそかにして本番にのぞんでしまったけど、大学に入ったらちょっとまじめにやろうかなとつい思ってしまうような問題を作りたい。
 自分が高校生のときを思い出すと、模試を受けるのは億劫ではあったが、じゃ嫌いだったかというと、そうでもなかった。
 さぼろうかなとの思いながら、いざ試験がはじまるとつい読みふけってしまうような経験はした。
 その時の結果がどうだったかは覚えてないけど。
 高3だったかなあ、模試で幸田露伴「五重塔」が出てておもしろくてたまらなく、帰りがけに古本屋さんで岩波文庫を50円くらいで買って読んだと思う。
 たぶん結果はよくなかっただろうけど。

 文章には、その文章が書かれねばならなかったわけがある。
 筆者がどうしてもその文章を書かねばならなかった、ある事情がある。エネルギーがある。怨念がある。
 その思いが伝わるかどうかは、思いの強さと、伝える技術との二つが規定する。

 出題された問題にもそういうものはあるはずだ。
 大学の先生はなぜその文章を出題したのか。
 川東の国語教員は、なぜその文章を選んだのか。
 この文章を読んでもらいたいという思いと、問題をつくる技術の二つが、問題の出来不出来を決めることになるだろう。
 出題された問題をぱっと見た瞬間に「こう来たか。さすがだ」と思えるものもあれば、繰り返し読んでもその出題意図を想定できない場合とがある。
 どんなタイプの問題が出ても、動ずることなく力を発揮できるようにしてあげないといけないとこがまた難しい。
 文句を言って解かずに済ますわけにはいかないから。

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不道徳

2011年06月09日 | 国語のお勉強(古文)

 センターの過去問。2000年の古文の問題は、たしか当時も、これってどうなの? と思った気がするけど、久しぶりに解いてみて、やはりおかしいと思った。
 ある若い公達が、賀茂神社に参詣する途中で見かけた女性を会おうと夜訪ねていく。
 首尾良くラブラブとなって一夜をともにするのだが、女はなかなか自分の素性を明らかにしない。
 その理由はなぜかと問われていて「若者と自分とでは境遇の差が大きく、素性を明かしてつきあっても悲しさが増すばかりだから」という主旨の選択肢を正解にするのだが、本文からここまで読み取れるかと言うと、ちょっと難しいのだ。
 ま、それはそんなこともあるから、絶対おかしい選択肢を落として、あとはヤマカンであたったらラッキーぐらいの気持ちでいいんじゃないの、という現実的な対応を教えた。
 笑ってしまったのは、河合塾の黒本(センター過去問集)の解説だ。
 この設問の選択肢①に「軽い気持ちで一夜をともにした」とあるのだが、それについて「そうは読み取れない」と述べ、「入学試験なのだから、このような不道徳なありかたが正解となることもほぼありえない」と書いてあった。
 なるほどね。でも、本文そのものが不道徳っていえば不道徳なんだよね。
 そんなこと言い出したら、源氏物語をはじめ、出題できそうにない作品がたくさん出てきてしまう。
 解説を書く人も苦労してるんだなあとは思った。
 この2000年の問題は、小説でも「エクスタシー」の意味を問うていたから、そういうのが好きな先生が実は集まってたのかもしれない。

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センター試験

2011年06月08日 | 日々のあれこれ

 センター試験の実施要項が発表になり、理科と社会では、2科目分の時間で1科目を解く裏技が可能になると、一部で話題になっている。
 1科目しか必要なくても2科目受験で出願しておいて、本命科目に2科目分の時間を使うというのだ。
 問題冊子には全科目載っているから。
 冷静に考えたなら、理科や社会について60分で解けない問題を120分かけたからといって解けるわけはないのだが、システムとしてこういう不公平が可能になるのは、やはりおかしい。
 そういう疑問に対してセンターではこう答えたと新聞にはある。

  ~ 同センターの担当者は「合否判定に1科目の成績しか利用しない大学にも2科目の成績と受験した順番を提供するので、歯止めになると考えている」と話している。 ~

 1科目しか利用しない大学に、2科目目の点数も通知するから、合否判定に使いなさいと言うということだけど、ほんとに? 本気でいってるのかな。
 これがおかしいことに気づかない程度の方々が作ったシステムだとすれば、しかたないのかもしれない。

 ちなみに国語はもともと、現代文だけで受ければいいという大学がけっこうあった。
 普通なら80分で評論、小説、古文、漢文と4問解くところを、80分かけて評論、小説の2問解けばいい子たちがいたのだ。
 国語は、読むのが遅い受験生には、かなり有利にはたらくはずだが、あまり問題になってこなかった。
 これは客観的には不公平なシステムだ。
 ま、実感としては、時間を倍かけても、読解の精度があがった子は少なかったとは思うけど。
 
 どうせなら、国語も理科社会みたいにしてくれないかなあ。
 つまり、現代文しか見ないと言っている大学に、古文、漢文の点数も通知し、合否判定の材料にするように言うのだ。
 そしたら、みんなが実質4分野とも勉強することになる。
 古典はもういいやと思う子が二学期からおれの授業で内職はじめるという弊害も減るだろう。
 しかし、いやしくも最高学府での学問研究に携わるお歴々が、漢文を入試に課さないと発想すること自体、腑に落ちないのだ。
 われわれの学問のよって立つ基盤を考えたなら、英語のリスニングよりよほど重要度は高いと思う。
 日本人が、最高学府での学問を全部日本語で行えるのは漢文あればこそなのに。
 漢字仮名交じり文化を日本人がもってなかったら、欧米以外のほとんどの国みたく、自国の言語で大学教育はできなかった。
 というようなことを大学で教えてもらえないのなら、せいぜい頑張って教えておこうと思う。

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