水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

取り出し授業

2021年09月07日 | 教育に関すること
~ 「取り出し」授業に強い違和感  小学校教員 大和俊広(神奈川県45)
 「取り出し学習・授業」という言葉をご存じだろうか?外国にルーツがある子どもの日本語指導や、一斉授業での学習に課題がある子どもを別室で個別に指導することを言う。私は人間に対して「取り出す」という言葉を使うことに違和感を感じ、職場でも問題提起してきた。
 本来は、教室での支援が困難で、子ども自身が希望した場合に例外的に行われる「個別学習・授業」であ
るはずだ。この言葉が定着したことは、「取り出す」側である大人や教員の思惑によって学習・授業が行われている証左ではないだろうか。実際、担任が親の許可を得て、特定の子どもを説得し行う場合が多い。
 「取り出し授業」という言葉には、上からの「あなたのために、足りない力をつけてあげる」という、能力偏重のにおいを感じる。学校は子どもたちの「生活の場」であり、「できる、できない」にとらわれ過ぎない、子どもと教員が楽しいと思える授業・学校づくりこそ肝要なのだ。子どもは物ではない。「取り出し」という言葉を安易に受け入れてしまう学校現場は、子どもの人権や能力主義について、真摯に考え議論する必要があると思う。(朝日新聞「声」欄 2021年8月31日) ~


 という投稿があった。
 いやぁ、ちがうんじゃない? と思ったので反論を送ったが、載らないのでここへ。


 「『取り出し』授業に強い違和感」という意見を読み、「取り出し」という言葉よりも、大和俊広氏の主張に違和感を覚えた。
 「取り出し」が定着したのは、学校現場に「能力偏重」の考え方があるからだと大和氏は言う。学校が能力を偏重して何が悪いのだろうか。「読み書きそろばん」を身に付けさせることで、人としての成長の一端を担うのが学校ではないのか。優しさや逞しさを育てたいとの願いは、私達教員は誰しも持っている。しかし、まず基本となる「読み書きそろばん」、いわば知の基礎を教えることが第一の学校の役割だ。託児所とは役割が異なる。
 外国からきた児童に、「取り出し学習」で日本語を教えて、何が悪いのか。言葉がわからないまま教室にいさせられて、学校が楽しく感じられるとは思えない。何らかの事情で学習が遅れている子も同じだ。字も書けない、簡単な計算もできないまま教室にいて楽しいはずがない。ましてそのまま卒業させては、娑婆を生きていけない。
 大事なのは名称ではなく、その中身だ。取り出されたことで、「できない子」「面倒な子」扱いになる雰囲気が現場にあるから、マイナスのニュアンスが生じているのだ。児童が、自分から「取り出し」を希望するような学習の「中身」をつくればいい。大和氏が言う「楽しいと思える授業・学校」にするには、表面的な「楽しさ」ではなく、まず生きる力の土台となる能力をつけさせてあげることが第一だと考える。(埼玉県・高校教員)
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宿題代行

2020年08月22日 | 教育に関すること
 どの学校も、今年はきっと夏休みも短いはずだが、わざわざ宿題出しているのだろうか。
 今年も話題になっている。
 客観的にみて、それをやることで学力が向上したり、人間的に成長できる宿題は、日本中のそれのうち約0.2%だと言われている(おれに)。
 本当に価値ある宿題を作ることのできる先生は、そもそも宿題は出さないものだ。
 宿題をだされて、はいそうですかと従い時間を費やす子どもは、文科省が目標とする人間像とはちがうんじゃないか。
 やっても意味のないような作業(やること自体に意味がある論者もいるかもしれないが)に、こどもは貴重な時間を費やさなければならないし、親はやきもきしないといけないし、先生は集めて評価して展示して … という仕事が増える。誰トクなんだろ。
 yahooニュースで、弁護士の先生が「宿題代行は法的に問題があるかどうか」について述べられていた。
 逆に問いたいのは、宿題を出して強制すること、つまり学校外の時間まで強制して何かをやらせるって、法的に認められているのかどうかだ。大人なら、勤務時間以外に、持ち帰りの仕事を強制させられたらブラックと騒ぐはずなのに。
 yahooニュースのコメント欄には、「代行に頼むなんてばかげている、こどものためにならない、それは不正だ」というような批判が並んでいる。
 なんらかの事象に対して、疑いの目をもつ、批判的にとらえてみる、そもそもの前提を疑うといった思考は、やはり国語の時間に身につけないといけない。こりかたまった世間の常識や既成概念にとらわれ、自分の頭で考えられない方々を目にすると、国語力をつけてあげられなくてごめんねというしかない。
 もし自分が小学校の先生になっていて、どうしても宿題を出さないといけないなら、どうしようか。
 一番は読書。感想文を求めない読書。課題図書ではなく好きな本を極力たくさん読むこと。もちろんマンガでもいい。
 ちなみに宿題代行の読書感想文は「原稿用紙(400字)1枚3000円~」となっていた。
 なかなか、いいな。いいお小遣いかせぎになる。高校時代に、こういうのがあったらよかったな。
 提出すればいいレベル、少しほめられたいレベル、学校の代表になりたいレベルなど、希望に応じて書いてあげられただろう。
 毎日一食、一品は自分で料理をつくり、インスタにあげるとか動画をあげるとかは、いい宿題じゃないだろうか。
 あと、ZOOMなどで田舎のおじいちゃんおばあちゃんと会話することとか。
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本当の学力

2020年06月09日 | 教育に関すること
 朝日新聞の投稿欄で、「元中学教員」という方のご意見を読んだ。
 学校の現状の大変さを憂え、われわれ現場の教員にエールを送ってくださるようにも読めた。
 こんな時期だからこそ「総合的な学習の時間」を活用すべきだというお考えには首をかしげた。


~ コロナ禍の今こそ、自分で考え、表現する本物の学力を育成できる機会と考えます。
 現場はコロナ対策や休校による学習の遅れを取り戻すことが先で、それどころではないと言われそうですが、次世代を担う子どもたちのために、生きた学習ができるように期待します。~


 こう書かれるということは、今の学校には「本物の学力」「生きた学習」が足りてないとお考えなのだろう。
 掲載した朝日新聞も同じように考え、おそらく多くの読者も頷かれていたのではないか。
 「本物の学力」「生きた学習」ってなんだろう。
 思えば、「新共通テスト」が生まれる背景に、同じ思想があった。
 現在のセンター試験は、本当の学力を測るものさしにはなっていない。
 だから、高校の現場でも「本当の学力」を育んでいないのだと。
 「本当の学力を育む」「真の人間を育てる」「生きた学びのなんとかする教室」みたいな美しくも大仰なスローガンは、何も生み出さない。実際、何も生み出してこなかったものね。いろんな教育研究会があったけど。

 話を国語にしぼってみよう。
 「本当の国語力」とは何か。
 国語教員のはしくれとして、最低限の勉強は積んできた。
 本を読み、学ぶべき先生がいらっしゃる会に出かけ、そうそうたる研究者の方々や予備校の先生とお話する機会もいただいた。
 「本当の国語力」などというあいまいな日本語を使う方は、そんなにいらっしゃらなかった。
 「本当」なのかどうかはわからないが、センター試験の問題は、国語力を図るものさしとしては有効だ。
 たいして指導もしないままに書かせた「感性豊かな」作文よりは、はるかに正確に、国語力を表す。
 漢字の知識、言葉の意味、指示語が何を指すのかを指摘できる、空欄を補う言葉を文脈から想定できる、傍線部と同じ内容が別の表現でどう書かれているかを見つける……。
 試験という形式で試されるこのような技術を、国語力とよばずして何というのだろう。
 そっか、センターじゃなくていいや。高校の入試問題や北辰テストでいい。
 もっといいのがあった、開成中や麻布中の入試ほど国語力を測れるテストはなかなかない。
 ほんとのこと言うと、もっとてっとりばやいのがある。
 自分が行う漢字テストの三年間分の足して並び替えてみると、一番だった子が東大に入り、そのあと見事に難しい大学順に並ぶ。
 見せられないけど、見事なものだ。漢字テストの質もいいのだが。
 センターまた共通テストで75%とれたら基礎ができてるという目安は、ものすごくわかりやすい。
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疎外感

2018年06月18日 | 教育に関すること

福島で長く行われていた向山洋一先生の「QA講座」に何度か参加したことがある。
 資料やノートをどこにしまったかさえわからなくなった今でも、記憶に残っている向山先生のお言葉がある。
「先生が準備してやればいいんじゃないですか」
 一刀両断だった。
「自分のクラスの子の母親が外国人だ。おたよりを出しても読んでくれない。忘れ物が多くて困る」
 という小学校の先生からの質問に対してだった。
「自分の妻と子供がたとえば中国で暮らすことになった。言葉もわからない。おたよりを見ても、何を持って行くかわからない。子供は学校に行くと、先生や友達から何か言われる。そんな状況を想像できますか?」
「そこまで考えるんですよ。見知らぬ国にやってきて、生活することさえ大変で、学校からのおたよりに対応できるわけないじゃないですか。先生が用意してあげればいいんです、あたりまえじゃないですか」
 質問した先生は、おそらく予想外の答えだった。いや、自分もそうだった。
 仕事に対する考え方をゆさぶられるお答えだったから、今も覚えているのだろう。
 昨日、バスケットボールの試合で審判を殴ってしまった高校生の映像をみて、急にこの話を思い出した。
 スマホの小さな画面でみただけだから、表情まではわからないが、殴ってコートから逃げるように去って行く彼が、ものすごい疎外感を感じているように思えたからだ。
 もちろん、暴力がいけないことは言うまでもないし、彼に相応の処分が必要なことも論をまたない。
 でも、と思う。
 留学生といっても、ストレスなく勉強できる環境におかれていたのだろうか。
 クラスメイトやチームの仲間とのコミュニケーションはとれていたのだろうか。
 顧問や先生、学校は充分に配慮していただろうか。
 言葉が通じる者同士であってさえ、気持ちを伝え合えないことがあるのは普通だし、そういうことへの耐性ができあがっていない年ごろだ。
 伝え合えない同士が、閉鎖的な空間や集団におかれたときの息苦しさは、大人が想像するよりきびしい。大人も昔はそうだったはずだ。まして、異国の地にやってきて、覚悟して来たとはいえ、思うようにならない日常へのストレスは大きかったにちがいない。
 人を殴っていいという感覚があるとは思えない。わからんけどね。
 だとしたら、部活動を活性化するために、ありていに言えば「勝つために」留学生を連れてくる風潮を、見直さないといけないし、彼個人の問題にして問題を語るのだけは間違っている。

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漢文不要論

2017年04月07日 | 教育に関すること

 

 百田尚樹先生が、「学校では漢文教えなくていい」と雑誌「SAPIO」で主張してらした。
 漢文などを勉強しても使う機会はないし、なにより中国文化を有り難がることになる、それはおかしいという、氏ならではの論拠にもとづいている。
 ただし、その主張を書き表している日本語の文章は、漢文が和文と混じり合うことによってできあがったものだ。
 漢文を土台にする言葉を用いないとなると、百田先生は『影法師』も『永遠のゼロ』も書けなかった。
 ていうか、今の学校で教えているレベルの漢文が、若者の中国文化信仰を生むことはないし。
 教えても教えなくても三国志オタクは生まれるし、教えても教えなくても中国に対する見方がそれによって変わることはない。
 日常生活で使わないことを理由にするなら、数学など中学レベルでさえ必要なくなってしまう。
 あ、だからやらない子が増えているのか。
 我が国の歴史や文化に対する敬意を養おうと国が考えるなら、むしろ漢文をもっとちゃんと教えるべきなのだ。 大学の先生だって、そう思っている人はけっこういるにちがいない。
 なのに、漢文を入試に出すと受験生減るから、やめようかという発想でどんどん少なくなり、別に百田先生が心配するまでもなく、漢文を勉強する人は減る一方だ。
 ふだん使うかどうかで判断するなら、この日本で普通に生活していて、英語を必要とする人はいったいどれくらいいるだろう。中国語や韓国語の方がその気になればよほど使えるではないか。東南アジアの言葉を話せる日本人が多くなれば、どれだけ国際的に貢献できるか。たとえば小学校の先生がベトナム語を話せたりしたら。
 グローバル化を目指すと称する大学が、「本学は多くの講義を英語で行っている」とうたっていることが多い。
 時間もったいなくね? お互い不自由になるだけだ。大学までいって、つまんない中身を英語でいいかえてみて、何の意味があるのだろう。
 せっかく母国語で高等な概念をやりとりできる国に生まれたのだから、その恩恵はうけながら、別のチャンネルで語学を学べばいい。

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はるかぜちゃん

2017年04月05日 | 教育に関すること

 

  道徳の教科書が、文科省の検定の結果、パン屋さんが和菓子屋さんに書き換えられるというニュースがあった。

 … って書き始めてみたが、これじゃ、知らない人には伝わらないヘタクソ過ぎる文章だな。
 ていうか主語述語がおかしい。こんなおれが、今年本格的な小論文始動に入れるのだろうか。
 もう少しくわしく言うと、新設される道徳科の教科書検定の話だ。

 今までと違って、一教科として独立した「道徳」の時間ができる。
 その教科書は、国語や数学のように文科省による検定を受けなければならない。
 東京書籍の教科書が「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度を学ぶ」内容が不足しているとの指摘を受けた。 東京書籍側は、「にちようびのさんぽみち」という作品で、主人公が散歩して見かける町の「パン屋」さんを、「和菓子屋」さんに書き換えたという。
 別の作品では「アスレチックの公園」を「和楽器店」に書き換えた箇所もあるという。
 もちろん文科省は、直接こう書き換えよと指示したわけではない。
 文科省に抗議の電話をする人もいたらしいが、そんな指示はしてないと担当者は当然答える。
 まさに出版社の忖度によるのだが、この稚拙な書き換えによって、検定に通ることになるのだろう。
 
 朝日新聞で、池上彰さんがこの件を取り上げ、おかしいと書いてらした。
 自分も、なんていうか、腹が立つというか、あぜんとした。
 こんなヤツらが作った教科書で道徳を学ばせられるというシュールさに、教員のはしくれとして驚かずにいられようか。
 文科省は、天下りはもうしょうがないから、道徳には口を出すなと内田樹先生もつぶやいてらしたが、本当にそのとおりだ。
 このやりとり自体がまさの道徳の教材にはなりうるが。
 
 こんなときは「はるかぜちゃん」だ。
 メディアで目にするどんな言説より、はるかぜちゃんのツイッターは、勉強になる。
 物事の本質をついてくる。それでいて、おれの文章のように品悪くならない。
 年下の人で、ここまで心から尊敬する存在はいない。


 ~ パンが日本の教育にふさわしくないとかおかしなことを言う人は、もう日本でパンをたべないでもらいたい ~

 ~ 愛国心ってそういうことじゃない
 この国で働いている人達すべてに敬意を払う気持ちを持つことが国を愛するということ
 毎日この日本で日本人がたべるおいしいパンを焼いているパン屋さんと和菓子屋さんになんの違いがあるのか教えてもらいたい
 おまえのパンねーから ~

 ~ あと個人的にはこうやって ど素人が部分的に文章をいじくるのも
 元の文章を書いた方に対して とてもとても失礼な行為だと思います
 書く側は文字の持つ雰囲気やバランスまで考えて作品を仕上げているのに ~

 ~ パン屋と和菓子屋じゃぁ 文字の持つ「匂い」がぜんぜんちがう
 どうしても差し替えたいなら、せめて雰囲気合わせなよって感じです  プンスコ ~

 ~ わかんない人にはわかんないんだろうけど
 別にいーじゃんって思うんだろうけど
 パン屋がいやなら新しく「和菓子屋さんが出てくる物語」を書いてもらえばいい
 そしたら気づくはず。
 ぜんぜんストーリーも登場人物の名前も文章のリズムも句読点の位置も、何もかもきっと違ってくるはずだから。 ~

 ~ パン屋でも和菓子屋でも作品は変わらないなんておもうなら
 いっぺんハイジの白いパンを肉まんに置きかえてみたらいいんだわ ~


 あまたの評論家のような、文科省や教科書会社の政治的かけひきへの批判にとどまらない。
 言葉で表現する仕事に真摯に向かい合っているからこそ発せられる言葉愛だ。
 彼女の域に達することはできない。できないが、努力しなくていいことにはならない。

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4月1日

2017年04月01日 | 教育に関すること

 

 定期演奏会が終わりほっとしたのもつかの間、もう新年度が始まってしまった。
 あわただしく机の移動、学年会議、教科会議、新年度の準備の日。
 年に一回、小講堂で理事長先生のお話などを聞く職員会議もある。そのため用にきれいにしておいてと部長に頼んだら、ちょーきれいに机もセットしてくれてあった。ありがたい。
 会議では「教職員全員で学業と部活の両立をめざして取り組んでいくこと、そして部活動については用心に用心を重ねて生徒の安全について配慮するように」とのお達しがある。
 先日の雪崩の事故は、高校の部活動で起こった事故としては、自分の知っているかぎりでは最大のものだ。
 素人目に見ても雪崩の危険性を想定できるような現場で、なぜあのような惨事が起きなければならなかったのか。
 講習会を担当していた先生方の、判断の誤りが原因であったことだけは否定できない。
 人間のすることだから、判断の誤りはどんな場面でもありうる。
 どこかの時点で誰かが判断を誤ったとしても、最悪の事態だけは避けられるように、普通の行事は設計されている。
 だから、指導にあたっていた先生だけを責めるのは一面的で、その過ちをひきおこした遠因にあたるものをあぶり出しておかないと、同じミスは間違いなく今後も起こる。
 「高校における部活動のあり方」という根本的なところまで考えないと、過ちを生み出す土壌は残ったままだ。 教員のメンタリティという点では、先の大震災でたくさんの児童が亡くなった大川小学校の事例を連想した。
 大川小学校のことも、教員集団が学校でおこした事件という総括を、日本中の教員がするべきだと思うのだが、公立学校さんには、そういう指示とかきているのだろうか。
 そういうのをきちんとしないで、天下りしながら道徳の本作ってる場合ではないはずだ。
 あ、評論家的なことを言ってる場合ではなかった。われわれは当事者だ。
 生徒さんの命を預かる仕事をしてるのだという意識を忘れないようにしないと。

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マネージャー

2016年08月03日 | 教育に関すること

 

 甲子園練習で、シートノックの手伝いをしていた女子マネージャーが、係員に制止されてグランドから出されたというニュースを見た。女子はグランドに入れないという規則のためだという。
 ふだんから、このマネージャーさんはノックの手伝いをしていたのだろう。その学校の監督さんは、ユニフォーム着用ならいいのかと勘違いしていたとおっしゃっていた。
 このニュースについて、「差別だ」「遅れている」「そもそも規則が変」「高野連はなんだ」などと批判が起こっている。
 「危険防止に基づく規則なのだから、整合性がないわけではない。男女差別は別の話」と擁護するスポーツ新聞の記者さんが書いている文章も読んだ。
 「じゃ、男子なら危険でもいいのか」という反論も当然あるのだが。

 でもね、みなさん、根本的にずれてる。
「女子マネージャー」という存在そのものについて、どなたも疑問に思っていない。
 野球にかぎらないが、専従で選手をサポートする役目の生徒さんがいて、それを女子が担うのが普通という感覚に疑問を抱かないことが、本当はおかしいのだ。
 去年(かな?)。ある高校(ていうか、埼玉のライバル校。あ、野球のね)のマネージャーが、成績優秀な選抜クラスに入ることを拒んでマネージャー業に専念しおにぎりを作り続けた、自分の進路まで犠牲にしてがんばったという「美談」があった。
 選抜クラスに残るかどうかも、どれくらい部につくしたいかも、本人が自分の気持ちにしたがってきめればいい。 でも、マネージャーは「おにぎりをつくる」という、仕事というか、役職というか、係というか、そういう存在があること自体はどうなのか。
 おにぎりは自分の家からもってくればいいし、その子はその分勉強すればよかったのでないか。
 いや、わかってるよ。その子がにぎってくれるから、練習に身が入るのだ。男ってほんとに単純よね。
 じゃ、女子のいない学校はどうすればいいんだ!

 「マネージャー」という存在がいてくれれば助かると思う。選手たちも、監督も。
 でも絶対的に必要な存在とはいえない。
 男子校で考えてみると、最初からマネージャー希望で入部する生徒はまずいないだろう。
 部によっては、途中から「マネージャー」として働きはじめる子もいる。
 最後まで選手として頑張りたかったけど、自分の実力を考え、別の形ででもチームに貢献したいと思ってマネージャー役をひきうけるというパターンが多いのではないか。
 マネージャーになれと言われて、それなら辞めますと部を去る例も、ないことはないはずだ。
 男子校で考えた場合、専従としてのマネージャーはやはりまやかしだと思う。
 どんな部でも「裏方仕事」はある。
 それはみんなでやればいい。
 その比率が、ベンチ入りメンバーと、はずれてしまった子の間に差があってもしかたがない。
 じゃ、女子ならいいのか。
 そこに疑問をもってない方は、「女子マネージャー」がグランドに立つのに賛成でも反対でも、高野連さんと次元は同じだと思う。
 エースで四番でも、交代でスコアつけて、くさむしりして、洗濯して、おにぎりつくって、球出しして、勉強もちゃんとやるのが、部活動としてのあり方だろう。

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文武両道

2016年04月05日 | 教育に関すること

 

 4月5日。
 一年生の平常授業が始まったので、部活は午後集合となる。希望者だけだが、上級生の短期講習もあり、午前中は勉強、午後は部活という自分的には健全な時間配分で暮らせるようになった。文武両道的な。年中これぐらいがほんとうはいいな。そのかわり長期休業はいらないから。

 先日朝日新聞のオピニオン欄だったか、野球選手の賭博問題は、スポーツだけに比重をかけてきた人生のありようが原因だ、たとえば一定量の勉強といった他の経験も必要だという論説が載っていた。
 寸暇を惜しんで自分の選んだスポーツだけに取り組む姿勢は崇高には見えるが、価値観がそれだけになってしまう危険性もある。
 もちろん本当にすぐれた選手は、そんなことはないけど。本を読んでいることが言葉の端々から感じられる選手もいるし、ものすごく科学的にいろんなことに取り組んで総合力としての自分を高めていることが感じられる選手もいる。
 そういう方々は、結果として「世間知らず」にはなりにくいのだろう。

 自分的には、「受験勉強的勉強」でも経験としては十分だと思う。
 徹底的に運動に打ち込むのも大事だが、同時に模試ぐらい受ける程度には勉強した方がいい。
 受験勉強なんて、知識の詰め込みにすぎない、本当の学力はつかないと批判する人も多いけれど、たぶんちゃんと勉強してない人なんだろうと思う。
 忘れただけなのかもしれないし、勉強のやり方を習わなかったのかもしらない。
 文科大臣も前に同じようなことを話されていた記憶があるが、詰め込みだけで大学に入り、学問にふれることなく卒業されてしまった方なのかと思うと、少しかわいそうな気もする。
 最難関の大学を出られてさえ、そういう方もいる。
 勉強だけの人生を送ってきた人、偏っているという点では、一部のスポーツ選手と変わらない。

 長年都会に暮らしてきて驚くのは(ウソついた。都会にわりと近いところに暮らしてきて、だった)、小さい頃からものすごい勉強量をこなしている方々の存在だ。
 小学生のうちから毎日塾に通い、私立の中高一貫校に進み、さらに優秀な子だけが入れる塾に通う。
 その結果として余裕に東大に入れるという成果を手に入れることになるそうだが、あまりにコスパ悪くないだろうか。大学に入る前の段階で、すでに何百万円ですまないぐらいの投資になってしまっている。
 公立の小・中学校から、わが川越東高校にすすみ、塾にも行かずに東大に入れれば(もちろん限られた生徒さんではあったけど)、コスパの面で圧倒的にお得だ。特待生ならなおさら。
 東大の理三や慶應の医学部に進むというのであれば、それだけの投資も生きるかもしれない。でもそこまで頭の良い子たちは、別に塾で教わることはないのだ。

 中高一貫プラス塾づけの生活は、部活も学校行事もそんなにはやってないのだろうと思うと、コスパ以前に、人としての成長で足りない部分が生まれてもおかしくないということになる。ていうか、国家の中枢にいる方の様子をみると、実際にそう感じざるを得ない時があるから。
  そういう意味で、勉強しかやらずにいい大学をでてお役人になるのと、運動しかやらずにプロの世界にはいった人とは、文武のどちらかに偏りすぎているという共通点を有する。
 偏りすぎていると、成績以外、もしくは試合の結果以外に、計量的に形にならないものの価値に気づきにくくなる。若くしてお金儲けをばりばり成功させている人にも、同じことを感じるときがある。
 ただ、何せ数字に表せないことなので、言っても負け惜しみでしょと、とられることが残念だ。

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大学入試は「凡人」を選別するシステムである

2016年03月02日 | 教育に関すること

 

 金融工学・恋愛工学研究家の藤沢数希氏が、東大の現代文一番(内田樹氏の文章)の「模範解答」をつくってTwitterで発表されていた。
 本文は載せないが、ちなみに設問は以下の通り。

一「そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人」(傍線部ア)とはどういう人のことか、説明せよ。

二「この人はあらゆることについて正解をすでに知っている」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。

三「『あなたには生きている理由がない』と言われているに等しい」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。

四「その力動的プロセス全体を活気づけ、駆動させる力」(傍線部エ)とはどういう力のことか、説明せよ。

五「この基準を適用して人物鑑定を過ったことはない」(傍線部オ)とはどういうことか、本文全体の趣旨を踏まえた上で100字以上120字以内で説明せよ(句読点も一字と数える)。


 藤沢氏の模範解答が次のもの。

一 著者自身のこと。俺スゲーの湾曲(ママ)表現。

二 著者が作った架空の藁人形。

三 自分よりスゲー人には論点ずらして、嫌味で反撃。

四 再び、俺カッケー。

五 俺は常に正しい。反論する奴バカ。


 なんと本質をつかんだ解答だろう。
 実際に受験生が上記の答案を書いて提出したら、一点ももらえないけど。字数も足りないし。
 なので、模範解答としての役目は果たさない。
 しかし、評論文の(文章のと置き換えてもいいかもしれない)の本質を見事に読み取っている点において、自分のテストだったら少し点をあげちゃいたい。
 基本、評論は「俺スゲー」との思いで書かれている。
 藤沢氏のそれも例外ではない。このブログだって、根底にそれがなかったら、わざわざ世界中に発信したりはしない。
 ただし、現代文のテストは、それを前提にした上で、筆者が「何」を言うことによって「俺スゲー」と言っているのかを問う。「何」を聞いているのだ。
 試験の役割を理解せずに、文章の本質を瞬時に理解して上記の答案を書く受験生がいたら、合格しない。
 それは大学で学ぶための能力が不足しているのではなく、大学に入っても学ぶことがない、つまり教える側にその用意がないということだ。
 晴れて不合格となり、自分のやりたいことをどんどんやればいい。
 大学で学ばなくても、十分やっていけるだろう。
 事実、現段階の藤沢氏は、何冊もの本を上梓し、最近は小説も書かれている。
 東大の先生で、藤沢氏の本より売れる著書をお持ちの方はいるだろうか。またはメルマガを書かれている方は。

 「天分」とよんでいい才能に持ち主にとって、大学は必要ない。
 ただし、ほんとうに限られた方々だが。
 天分側にいる人が、「大学なんて意味がない」とか「大学など行かなくても自分の才能は発揮できる」というのは、当然だ。
 もともと大学は天才を育てるシステムではないのだから。
 大学入試の時点で天才の自覚がないなら、普通の答案を書いて合格して学べばいい。
 その後に、才能に気づく方だってたくさんいる。
 入試を経ることで、才能がつぶされたりはしない。
 高校入試や大学入試のためのガリ勉で才能がつぶされてしまうという意見もあるが、本当にそうなら、元々たいした才能ではなかったというだけのことだ。
 東大に入るための勉強でも、範囲は決まっているし、傾向もあきらかだ。小さな頃から塾通いを続けなければ到達しないレベルの人は、ほんとうは無理しない(させない)方がいいと思う。
 小さいうちは、のびのびと体を動かしたり、友だちとバカなあそびをしたり、海や山にいったり、踊ったり歌ったりして、そこそこおっきくなってから必死扱いて勉強してみればいいんじゃないだろうか。それでも十分入れる。 そういう経験をもったお子さんなら、あとは1点刻みのペーパーテスト一発で大学を決めてあげればいい。
 そんな経験をせず、人としてどうかと思えるお子さんがいるように見えるがために、大学入試でも人物を測った方がいいのではないかなどという、歪んだ意見が生まれてしまうように思う。

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