水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

存在

2012年06月30日 | 日々のあれこれ

 ~ 存在を消せる添乗員になりたい ~

 ベルテンポトラベルの高萩徳宗さんは、こう言う。
 ベルテンポの高萩さんといえば、高齢の方、障害をもつ方、小さな子どもがいる方など、ふつうに旅をするには二の足をふむ方々にも、安心して旅行してもらいたいというコンセプトの旅行会社を創り上げた方だ。 高萩さんのサービス論に共感する方は多く、業界ではカリスマ的存在なのかなと思っていた。
 しかし、高萩さんの目指すのは、主役はあくまでもお客様であり、いつしか添乗員の存在を忘れて、みんな楽しく過ごしている時空をつくることだと言う。
 学校の先生の理想的な姿もこれかな。
 高萩さんは、オーケストラの指揮者にたとえても述べている。
 コンダクターは音楽をまとめる役割だけど、決して自分では音は出せない。
 ツアーコンダクターは、楽器を演奏するお客様同士がハーモニーを奏でて、いい音楽をつくるのをそっと演出するだけだと。
 なるほど。部活でも、教員の仕事全体でも、その存在を忘れられてしまうのが理想体。
 もちろん記憶から抹消される教師がいいというのではない。
 あの先生のおかげで成長できた、などという意識をもたせることなく、その生徒さんが気付いたら自然に伸びていたという環境をつくっていくことが大事だと思ったのだ。
 誰に習っているかなどという意識はなくて、でも自然に学力がついていく教室。
 何が原因かはわからないけど、なんとなくみんな頑張っている空間。
 仕事ができる部下とは、その存在を上司が忘れる部下である、と内田樹先生がおっしゃっていたのも同じことかもしれない。

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「之」の用法

2012年06月29日 | 国語のお勉強(漢文)

 「之」の用法

 一字一字の漢字は、つまり「語」は、文のどの位置におかれるかで、働きが決まる。
 この漢字はいつも、名詞とか、この漢字はいつも動詞ということはない。
 同じ漢字でも、SやOの位置に置かれているときは名詞で、Vの位置におかれた時は動詞だ。
 訓読する際も、それに従って読んでいくことになるから、読み方(訓読み)が複数存在することになる。

 「之」の用法は次の三つ。

① S V OのOの位置に置かれた場合。
 V レ 之 … これ(を)

② S VのVの位置に置かれた場合。
 S 之 … ゆ(く)
 S 之二(場所)一 … (場所)にゆ(く)

③ つないでいる時
 N 之 N … の   S 之 V … の

 名詞をつなぐと、「○○の○○」という名詞句ができる。
 「S之V」も、「SがVすること」という意味の名詞句ができる。
 「之」も、「所」「者」と同様に、一続きの言葉を体言化する重要な文字だ。

 「S之V」は「也」をともなって、
  S 之 V 也 … SがVするに際しては(副詞句)
  S 之 V 也 … SがVすることについては(主題提示)
 と用いられる。

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6月29日

2012年06月28日 | 日々のあれこれ

  今日は空き時間が多いので一気に試験を完成させていこうと思い、それなりに進行して、そろそろ帰宅の準備をしようかなと思ったら、学年だよりを書いてないことに気付いた。
 今年は1年生の子のお誕生日も載せているので、「今週はや~めた」というわけにはいかない。
 そうだ、試験前だし、あのネタだ。どの代にも一回は読んでもらっているのを載せることにした。
 もう何回目だろ。クラスをもっていたころも使わせてもらったはずだ。


 1学年だより「ど力(努力)のつぼ」

 入学してまもなく3ヶ月。あっという間に期末試験となった。生活のペースはつかめているだろうか。やることがたくさんあって大変だと嘆くひまがあったら、目先のことから次々と片づけていこう。それでも、つらかったら、下の作文を読んで元気だそう。小学校1年生が書いた作文だ。


 ~  ど力のつぼ      1年 角野 愛

「お母さん、ど力のつぼのはなし、またして。」
「ウンいいよ。こんどはなあに。」
「さかあがり」
「あらあらまだいっぱいになってなかったのね。ずいぶん大きいねえ。」と、いいながら、お母さんはいすをひいて、わたしのまえにすわりました。そして、もうなん回もしてくれた、ど力のつぼのはなしをまたゆっくりとはじめました。それはこんなはなしです。
 人がなにかはじめようとか、いままでできなかったことをやろうと思ったとき、かみさまからど力のつぼをもらいます。そのつぼは、いろんな大きさがあって、人によって、ときには大きいのやら小さいのやらいろいろあります。そしてそのつぼは、この人の目には見えないのです。でも、その人がつぼの中にいっしょうけんめい「ど力」を入れていくと、それが少しずつたまっていつか「ど力」があふれるとき、つぼの大きさがわかる、というのです。だからやすまずにつぼの中にど力をいれていけば、いつか、かならずできるときがくるのです。
 わたしは、このはなしが大すきです。ようちえんのときはじめてお母さんからききました。そのときは、よこばしごのれんしゅうをしているときでした。それからも、一りん車や、てつぼうのまえまわり、とびばこ、竹うま。なんでもがんばってやっているとき、お母さんにたのんで、このおはなしをしてもらいます。くじけそうになったときでも、このはなしをきいていると、心の中に大きなつぼが見えてくるような気がします。そして、わたしの「ど力」がもうすこしであふれそうに見えるのです。だから、またがんばる気もちになれます。
 お母さんのいうとおり、こんどのさかあがりのつぼは、ずい分大きいみたいです。さかあがりをはじめてから、もう2回もこのはなしを、してもらいました。でも、こんどこそ、あとすこしで、あふれそうな気がします。だから、あしたからまたがんばろうと思います。お母さんは、「つぼが大きいとたいへんだけど、中みがいっぱいあるから、あなたのためになるのよ」といってくれるけど、こんどかみさまにもらうときは、もうすこし小さいつぼがいいなぁとおもいます。(『子どもを変えた“親の一言”作文25選』明治図書より) ~


 朝起きて学校に来て授業を受けて部活をして帰って勉強して寝る。
 地味といえばこれほど地味な毎日はないが、地味なことの繰り返しこそが人間をつくる。
 髪を染めてバイトして合コンしてという暮らしをしている友達もいるかもしれない。しかし、そういう暮らしのはかなさを知っているからこそみんなは本校へ入学したはずだ。がんばろう。

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有限

2012年06月27日 | 日々のあれこれ

 「マリリン七日間の恋」がせつないのは、恋に落ちた男女同士に別れが訪れることが決まっていて、当人たちもそれがわかっていて、それでも、いやそれだからこそ刹那の恋情に身を焦がし、求め合い愛し合うからだ。
 随分前に新宿で観た「篤姫№1」も、そんな構造だったからせつなかった。まったく話題にもならず、ネット上では酷評が多かったけれども、うるっときた。
 こういう設定に弱い人はかなりいるはずで、それを「ローマの休日」症候群とよぶのはどうだろう。
 音楽座さんの名作ミュージカル「シャボン玉とんだ、宇宙(そら)までとんだ」も、定演二部の「さよならスイングレンジャー」も、この構造がベースになっているから、多くの人の涙をさそったのだ。
 別れが見えている、つまり与えられた時間が限られているからこそ、その時間を愛おしむように生きることができる。
 だから、その哀しみを受け入れて新たな道に旅立つとき、アン王女にも、篤姫にも、佳代にも、ピンクにも成長がもたらされる。
 学校も同じだ。3年なら3年というスパンが見えていて、そのなかでもがき苦しむことができた人ほど、きっと大きくなって卒業していける。
 その時間の有限性をどれだけ意識できるか。
 部活なら、コンクールまでの時間をどれだけ意識できるか。
 はたから見てると、はがゆくなることも多いけどね。
 ハッピーエンドが予想される映画は、もう少し落ち着いて楽しめる。
 「ホタルノヒカリ」は、筋にはまったくどきどきせず、でもそのゆるさが、のんびりできてよかった。
「人生に意味なんているんですか?」と首をかしげるはるかちゃんがよかった。
 「幸せへのキセキ」は、たまたまたどりついた動物園にスカーレットヨハンソンが働いていることが、一番のキセキだ。
 試験前の練習があと一日になってしまった。

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著者

2012年06月26日 | 日々のあれこれ

 ~ 活版印刷というメディアとともに、「著者性」というものが発生したのだとすると、インターネットを中心とした電子メディアが、大きな位置を占め始めている今日、「著者」のあり方が、大きな変容を被ってきていることは十分に考えられる。ここにおいては、従来の、権威者の一方的な情報発信と、受動的に享受する多数の読者という上下構造が消失し、著者の権威性の崩壊ともいうべき事態が発生している。だれでもが簡単に「著者」となり得る構造である。(黒崎政男「ネットが崩す公私の境」) ~


 という教材文を読んでいる。
 インターネットの登場で、情報の発信・受信の構造が変わったことを述べた文章だ。
 近代とは何か。誰もが「読者」になることのできる時代である。
 現代はどういう時代か。誰もが「著者」になれる時代である。
  … というように、いつも通り教えていて、そして今年もそう話しながらふと思った。
 誰もが著者になれるのか、と。
 ほんとうに?
 思ったことを書くぜぇ。アップするぜぇ。誰も来ないぜぇ。 … ワイルドじゃないぜぇ。
 この状況って、書いたと言えるのかな。
 かえって、ビラにして駅前で配る方が、読まれる可能性は高いのではないか。
 たしかにインターネットのおかげで、誰もが、不特定多数に向けて文章を発表できるようになった。
 このブログにしても、理論上は全世界に開かれている。
 しかし、書いているこの私は「著者」と言えるのか。
 いつも読んでくださる方々がいらっしゃることは意識してはいる。
 ただし、どのような方々なのかは大体想定できる範囲ではないかと思う。
 「著者」と言えるほど多くの読者が存在するとは言えない。
 もし、文章をネット上にアップして誰も読みにきてくれなかったら、それは書いたうちにはいるのか。
 ネット上のほとんどの文章はそういうものだろう。
 プロの書き手とか、芸能人とか、一般人だけどアルファブロガーとよばれる方々とか、そういう一部の方々以外の文章は、閲覧されていたとしてもその数はたかがしれてる。
 だとしたら、インターネットによって誰もが「著者」になれるというのは、実体とは異なるのではないか。
 そんなことを思い、つい授業中にも口にした。
 いや、読者が一人いれば、書いてる人は著者だと言うことも可能だ。
 しかしせめて、複数の読者がいて、なんらかの影響を与えうる場合において、その書き手を「著者」とよぶと定義するぐらいが妥当なのかと思う。
 やはり、誰もが著者にはなれてないのだ。
 技術的に可能になったということと、実際になれるということとは異なる。
 インターネットによって、従来のメディアが変容をとげたということはたしかに言える。
 たとえば、今の政治状況を伝える新聞やテレビは、大政翼賛会時代に近い。
 一般人の感覚とは別次元のところで、「日本には増税が必要」という論調一色になっているから。
 何代か前の総理大臣や小沢氏については、毎月のように世論調査やってたのに、消費税についてはとんと見たことがない。
 ネットの情報がなければ、だまされてしまいそうだ。
 それでも、たとえばテレビのニュースしか情報源をもたない方にとっては、ひょっとしたらすでに消費税大賛成になってるのだろうか。
 「造反」という単語を毎日みていると、反対している人が絶対悪に見えてくるだろうか。
 辞書的には、民主党の多数派の方々を「変節」とよぶのが適当なんじゃないかなと思える。
 教員よりも優秀な方々の言葉の使い方はなかなか独創的だと感じてしまう昨今である。

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早稲田吹奏楽団

2012年06月25日 | 演奏会・映画など

 昨日の貴重なオフ日は、早稲田吹奏楽団さんの演奏を聴きに大井町のきゅりあんまで出かけた。
 大井町の改札を出るのはたぶんはじめだ。新しいビルが林立していながら、戦後の焼け跡の名残のような(といっても知らないんだけど)路地が残っている不思議な雰囲気だった。
 きゅりあんも区の建物のようだが、正面に見える入り口は電気量販店さんで、そこからエレベーターで8Fにあがってホールに向かう。官か民間かどっちがメインかわからないのが不思議な感じ。
 一部と二部を聴かせてもらった。曲は、

 一部 酒井格  てぃーだ 
    樽屋雅徳 トビアスの家を去る大天使ラファエル
    福島弘和 交響的詩曲「地獄変」
 二部 清水大輔 夢のような庭
    足立正  じゅげむ
    保科洋  復興

 というように、邦人作曲家の最近の代表作がならぶ。「日本の吹奏楽の到達点」的なタイトルがついていてもおかしくないプログラムだ。
 奇をてらわずに楽譜をきちんと演奏しようという姿勢の演奏だったように感じたが、それもあってか、どの曲も聴きやすかったし、いい曲いっぱいあるよねと思えた。
 一昔前って、邦人作品で、わかりやすくて、しかもいい曲を、こんな簡単に並べられなかったのではないだろうか。
 演奏について欲を言えば、もう少しはめをはずしてあそんでみたり、ダイナミクスレンジを思い入り広げてみたりしてもいいかなとも感じたところもある(なんか、わかってる人みたくね?)。でもホールのせいもあるかな。あと、ステージにいるはず二人のOBを、保護者のような気分で探してたからかもしれない。
 この誠実なバンドの仲間にいれてもらってよかった。前団長のように、きっと中心となって活躍するだろう。

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6月25日

2012年06月25日 | 日々のあれこれ

 1学年だより「再チャレンジ」

 何かをやろうとしてうまくいかなかった時、私たちはその原因探しをする。
 そしてそういう場合、大体は自分以外のものに原因を求めてしまうものだ。
 何かが足りなかった、何かに阻害された、環境が整ってなかった、などというように。
 でも、本質的にはその人自身のなかに原因があることが多い。
 その人自身の問題が皆無だったという場合は現実にはほとんどない。
 たとえ天変地異によるものであったとしても、その場所でやらねばなかったのか、その日程しか選択肢はなかったのか、などを考えてみたなら、自分側に責任がみつかることもある。
 かりに自分の問題がゼロだったとき、では天を恨むべきか。
 そうしても何の解決にもならないことは言うまでもない。
 だとしたら、物事がうまくいかないときに、自分以外に原因を求めても時間のムダだ。
 自分についてだけは少し反省し、すぐに再チャレンジするのが、次にやるべきことだ。
 すると、たんに自分のやり方が足りなかっただけだと気付くのがほとんどだろう。
 もう一度やってみることによって、それに向かう気持ちが生まれる。
 「何くそ!」という思いで再チャレンジすれば、一回目とは明らかに結果が変わる。
 簡単にできてしまうことは、そこで終わり。自分の能力を確認できればそれでいい。
 大事なのは、とりあえず失敗する事柄を、繰り返しやってできるようにしていくことだ。
 そうなってはじめて、一歩成長したと言える。


 ~ 負荷の高いことを突破できた経験があると、他のことはハードルが低く感じられて、ラクにできるようになります。
「あれができたんだから、それに比べればこのくらい軽い、軽い」と捉えることができる。
 経験値によって、ポテンシャルが高くなるのです。
 特訓とか修業というのは、グッと締め付けて、自分で行ききることのできる範囲を超えるもの。それをやると、普通の状態に戻ったときに「ああ、なんてラクなんだ」と感じる。いわば、「心の加圧トレーニング」のような効果があります。
 修業経験のある人は、トレーニング効果で心に耐性ができている。「平気、平気、こういうことってあるんだよね、どこでも」と受けとめられる。心の防弾チョッキが弾よけに効いている。だからハードな戦場にも勇ましく出て行ける。
  … 早いうちに特訓や修業に浸って「修業感覚」という防弾チョッキを手に入れておくことは、他の誰のためでもなく自分のためになるのです。(斉藤孝『結果を出す人の「やる気」の技術』角川ONEテーマ21) ~

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マリリン七日間の恋

2012年06月24日 | 演奏会・映画など

 「恋に落ちる」という表現は実にうまく本質を表していると思うことがある。誰かを好きになる時は、もちろんいろんな伏線はあるのだろうが、ある瞬間にふっと、もしくは気がついたらいつのまにかそうなっている。人は数秒で恋に落ちる、という科学的な研究結果があるという話を読んだこともある。
 落ちたいね、たまに。いっそ、そのままおぼれたい。
 「酒色(酒と女)におぼれるのは非常の怪物(人ではない)」と福沢諭吉先生は言っておられるが、「酒色におぼれる」生き物をこそ人というのだ(なぜにこんな主張をしてるのだろう?)。
 ちょっと観たいなと思ってて見逃した「マリリン七日間の恋」を、南古谷ウニクスが上映してくれたのはありがたかった。
 恋に落ち、女におぼれる青年を観た。
 映画の撮影に滞在している絶頂期のマリリンモンローと、映画の第三助監督、つまり究極の雑用係である青年がラブラブになるというお話。
 きわめて特殊な経験を描いていて、おそらく観る誰もが(観る男性はと言った方がいいかな)自分のこととして身にしみてしまう。
 衣装係の女の子ルーシーとデートの約束をしていながら、それを忘れてモンローといてしまうこととか、頭の片隅でこんなことはあり得ないと思いながらモンローにのめりこんでいくこととか、夜中に呼び出されてダッシュで行ってしまうこととか、周囲からどう見られているのかわからなくなることとか。
 どれも自分のことのようにイタい。そしてそれこそが恋愛であることも間違いない。
 モンローにおぼれる青年、女優としてのモンローにおぼれるベテラン俳優のローレンスオリヴィエ。
 モンローと結婚して小説が書けなくなった主人のヘンリーミラー。
 モンローの付き人の女性も、類い希な才能と美貌を持ちながら精神的もろさをもつ彼女を支えられるのは自分しかないという気持ちでいる。彼女もモンローにおぼれた一人だ。
 どれだけたくさんの人を翻弄させられるかは、スターの条件なのかもしれない。
 松田聖子におぼれた人生を過ごしている方々が今でも男女問わず何万人もいるように。
 ローレンス・オリヴィエが監督もつとめ制作していく映画のシーンと、周囲の人々を翻弄し続ける現実のモンローとが、時に重なり時にネガとポジになりながら、必ずおとずれる終幕に向けて積み重ねられていく構成が実に練られている。
 昨今の草食系といわれる男子は、おぼれないのかな。
 おぼれていたい目にあうのが人生なんだけどな。けっこうキツいことも多いけど、そういうのを蓄積した方がかっこよくなれるのではなかろうか。よけいなお世話か。
 もちろん、おぼれる対象は女性とはかぎらない。仕事でも趣味でもいい。
 身近にも、音楽におぼれ、部活におぼれている先生方はたくさんいる。
 ルーシー役のエマワトソンも期待通りのお姉さんになってます。

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西部地区研究発表会

2012年06月23日 | 日々のあれこれ

 西部地区研究発表会に行ってまいりました。
 1年生は初ステージでした。七五三の衣装のように見えましたか(笑)?
 応援ありがとうございました!
 次はコンクールに向けてがんばっていきます。

 なかじま先生に撮っていただいた昨日の映像を観た。
 打楽器の入場から問題点が見える。そして舞台でのたたずまい、演奏のときの姿勢と目線。
 とにかく今はすべてのことを指摘して直していかないといけない。
 まず自分がどうであるのかを意識してもらうこと。
 そのうえで、直すべきところは直し、無意識のうちにできるようになること。
 スポーツで一つの技を身につけるのと同じ過程を、楽器を演奏する、合奏する行為になかでやっていかねば。指揮も同じだ。


 昨日、大雨のなかミューズに向かう車のなかで、こんな光景がふと頭をよぎった。
 きっと高菜明太が軌道に乗ったあと、こんなかんじだったのではないか。


「今回は、ごくろうさまでした。おかげで大ヒットになったよ」
 とりあえずの生ビールを口にして、二人そろってホオっとため息をついて、目を見合わせて笑ったあと、折原が口を開いた。
「そんな。あたしはただ思いつきをいろいろ試しただけですから … 」
「それが大事なんだよ。意表をつく二つのものがぴたっとあてはまった時って、ちょうどピッコロとホルンの音がきれいにブレンドした快感みたいなものかな」
 突然楽器の名称が出た。試食のときに、この明太子は「あごおとし」かと言い当てた部長にも驚いたが、今も意表をつかれた。
「部長、音楽くわしいんですか? ていうか、そこでピッコロっていうのが素人じゃないみたいな(笑)」
「だって、明太子って、おにぎりの具の中じゃとんがってるじゃないか。定番の鮭はクラリネットで、梅干しはトランペットだ。サックスはツナか?」
 すらすらと楽器のなまえが出てくる。
「じゃあ、トロンボーンはなんですか」
「おかか」
「あたし、おかかだったんです。高校まで吹奏楽部で」
「へえ、じゃ本仮屋ユイカだな。」
「え、部長スイングガールズ観たんですか。」
「スイングガールズの特別生ライブまで観に行っちゃったよ」
「すご~い!」
 会社では声をかけるのさえためらわれるほど厳しい面持ちのイメージしかなかった。
 それとは裏腹の部長と焼鳥屋のカウンターに並びながら、美沙は妙に落ち着いた気分だった。
 おまちどう! 店に入るなり注文した串カツが目の前のアルミの板に置かれる。
 最初に届いた若鶏の串をみたとき、美沙は「小さい」と思った。
 どちらかといえば豪快な料理の多い故郷で育ったせいもあったかもしれない。
 しかし、その一本を口にふくんだときにわかった。
 外側がこうばしく焼け、それでいてお肉全体には、中心に火が通った瞬間に網からおろされたと思われるジューシーさがある。あえて小さな鶏肉を強火で短時間焼くことでこそ、この味わいが生まれるであろうことを、生来の食いしんぼを自認する美沙は瞬時に理解していた。
「この小ぶりの串カツも、おいしいよ」
「はい、このケチャップみたいなタレもおいしそうですね。あつっ!」
「あわてると、やけどするぞ」
「あふっ。でも、おいしいです。あと … 楽しいです、部長とごはん食べれて」
「そうか、それはよかった。」 …

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6月21日

2012年06月21日 | 日々のあれこれ

 火曜はSPAを、木曜は週刊文春を買うために朝コンビニによる。今朝はそんなに時間に余裕がなかったけど、原監督の記事が気になってたので、城北埼玉さんのそばのセブンイレブンで買い、ひとしきり読んでしまった。涌井選手でさえ謹慎したのだから、監督の場合、博多に移籍するくらいではすまないのかな。地位のある方はなんて大変なのだろう。
 巻末の「ニッポン珍部活動名鑑」というグラビアがおもしろかった。全国の高校にはいろんな部活があるものだ。佐賀県は北陵高校のバル-ン部、溶接部、厚木東高校の人形浄瑠璃部、開成高校の折り紙部、鳥取環境大学のヤギ部 … 。甲子園や花園や普門館とはまた別の、でも本質は同じ、いやむしろ純な部活があるのかもしれない。


 1学年だより「未知数」

 勉強も部活も、みなさんはまだ取りかかったばかりだ。
 将来の目標を設定し、そこから逆算してやるべきことをこなしていいけるなら、それは時間の使い方としては理想的だ。
 しかし、自分にどの程度のことができるのか、どの程度のことをこなせるのか、自分の実力はどのくらいなのか、自分がどこまで成長できるのか、すべてはまだ未知数なのだ。
 なぜなら、まだ何もやってないに等しいから。
 だから、とりあえず目の前のことに一生懸命取り組んでいこう。理屈は後回し。
 そこからスタートし、ひたすら毎日やりすぎるくらいやっていたら、スタート時点には想像もできなかったようなゴールが見えるようになった先輩はたくさんいる。
 何か与えられたときに、瞬間的に「ムリムリ」と言う人は、いつまでもその時点の小さな自分でとどまっている。
 「うそ!」と言いながらも「どうすればいいんだろう」とやることを前提にできる人は、いつしか新しいステージに達することができる。
 アメリカで、イチローの次に有名な日本人と呼ばれる吉田社長はこう言う。


 ~ 夢は小さければ小さいほどいいと思っている。
 現実離れしたとてつもなく大きな夢なんて、それをかなえるためにどこからはじめればいいのかわからない。
 成功という地図の描き方も一緒だ。きれいごとを並べた、企業の5カ年計画などを目にすると「神様じゃあるまいし、そんな先のことわかるわけないやろ」と、うんざりしてしまう。
 1年先のことだって考えたくないくらいなのに。
 計画性がないと言われてしまえばそれまでだが、僕はずっと「今日やるべきこと」だけを考えて生きてきた。とにかく1本でも多くソースを売ることが毎日の目標で、ビジネスをはじめてからの人生はその積み重ねだった。
 そうやって生きていると「ほどほどの日」というのは自然となくなっていく。毎日全力で取り組んで、満足感を得なければ気がすまなかった。
 だから昔は、土日に仕事を休む人が不思議でならなかった。世の中にはいつも通り動いているのだから、仕事だって休まずにやらなければもったいないと思っていたのだ。それくらい1日ごとにたしかな手ごたえがほしかったし、ワクワクしていたかった。
(吉田潤喜『無一文から億万長者となりアメリカンドリームをかなえたヨシダソース創業者ビジ ネス7つの法則』ディスカヴァートゥエンティワン) ~


 目の前のことにひたすら熱中し、「今日も一日がんばれた」と満足できる日を重ねていくのだ。

 ~ 満足の連続こそが、新しいステージへと導いてくれる。それを僕は成功と呼びたい。~

 

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