コンクールの申し込み書をもって郵便局にいき、帰りがけにセブンで買い物をしてくじを引いたらソイジョイがあたった。らっきー。いや、しかし、ここで運をつかっていいのか。コンクール抽選会にとっておくべきではないのか。いやまだ先だから大丈夫か。抽選など関係なく自分たちのやりたい音楽をやるだけだ、なんてかっこつけてる余裕はないから、今後いい運を引き寄せられように生きていかねば。そう思ったら、駐車場に落ちていたゴミも躊躇なく拾えた。
まだオフィシャルな発表にはなってないのかもしれないが、三出制度が廃止になるという情報を最近耳にした。
いいことじゃないかな。
「多くの学校に全国大会の場を経験してほしい」という根本の発想は、一理はあった(二理はないけど)。
それを具現化するために、三年連続で全国に出た学校は次の年コンクールに出られないという方法は、やはり問題はあった。コンクールでないなら問題ない。吹奏楽選抜大会のように推薦がベースになっている大会なら、その時々の状況に応じて対応できるから。
点数をつけて優劣を競う大会であれば、その年上手な学校の上位がきちんと全国の舞台に集まるのが、形としては正しい。
常連とか強豪とか言われる学校は、それ相応の努力をしている。
素人が集まってつくる音楽なのだから、基本は努力の総体が結果になっている。
だとしたら、先輩ががんばった結果、後輩が試合に出られないというシステムは、もちろん成果もあったけど、見直しは必定だろう。
いっこ上の先輩たちつまづいてくれないかな、なんて思った強豪校の二年生だって、いなかったとは言えないから。
たくさんの学校、たくさんの生徒が本気で全国へのャレンジしてほしいと考えるなら、もう一つてっとりばやい手段がある。顧問が替わればいいのだ。
たとえば三回全国大会に出たバンドの指導者は、次年度以降は他の学校で指導するというように。
西関東3回でもいいや。活性化すると思うけどな。
私立高校はどうしよう。
私立高校の、結果を出した顧問は、その学校か系列校で、他の部を三年指導することにする。
たとえばテニス部を三年もつとか。そちらでも結果はでると思う。
そして吹奏楽にもどったとき、その経験はマイナスになることはない。
吹奏楽全体、高校教育全体のことを考えたら、決してとっぴな考えではないと思うけど、相手にはしてくれる先生は少ないな。
歯磨き粉を買おうとセキチューによったら、文具コーナーでちょっといい感じの小物収納ポーチみたいなのがあったので、買ってきて、ウェットティッシュ、ふつうのティッシュ、ボールペン、はさみ、のり、ボイスレコーダーをつめてみた。これを持って授業にいく。
教科書のコピーを配布して、すぐノートに貼りなさい、のりがない人は友達に借りなさい、友達がいない先生みたいな人にはノリを貸しますよ、といって目があった子にのりをトスする。
その気になれば、すぐ録音もできる。これ一つもっていくだけで、教師としてのグレードが少しあがった気がした。
ボールペンは、採点・添削用のエナージェル、譜読み用にはヴィクーニャの三色か、センプレトゥッティの字を入れてもらったゼブラの四色+シャープペン。のりは青の消え色ピット、はさみはすぐなくすので百均で買ったもの。
週刊誌(文春だっけ?)の後ろの方に、カバンの中身拝見コーナーみたいのがある。もし取材を受ける日がきたなら、こっちにしてもらおう。カバンは、というかリュックの方は、読みさしの本しか入ってないようなものだし。
空き時間に、コンクールの申し込み用紙を記入し、学校長印をいただく。
ああ、今年もはじまってしまった。
朝の打ち合わせで、テニス部顧問から「はじめてインターハイ出場決めました!」との報告があって、みなで喜んだ。
全国か … 。どんな世界なんだろ。ほんとに地区大会、県大会からの延長戦上にあるのだろうか。
申し訳ないが、今は想像さえできない。とにかく県に行かねば。いや、まずは書類を提出せねば。
すべてはそこからはじまる。実際に、毎年書類を出しそこねて出場できない学校さんがある。
学校の正式業務かどうか微妙な範囲の仕事で、つまり管理職のチェックの入らない事務処理で、こんなに大きな責任を負わせられているのかと思うと、書類を出し損ねる顧問を非難するのはお門違いだといつも思う。吹連はつめたいし。
出してあげればいいじゃんね。出演日調整などというへんな習慣にくらべたら、書類の不備なんてなんでもないと思うのだが。
放課後、上級生は個人またはパート練。一年生だけの基礎合奏を30分みた。
サックスレッスン後、サックスパートを駅に送って学校にもどると、机の上にamazonの箱。
今朝注文したもののはずなのに、何を注文したか覚えてない。どきどきして箱をあける。よかった。持ってるものを注文してなくて。読んでない本、聴いてないCDがまたたまる。どこかで棚卸しをしないといけない。すいません、だらだら書きで。
教育実習生が見学に来て授業を録音するというので、自分でも録音して聞いてみた。
久しぶりだったが、聞いてて昔ほど恥ずかしい感じではなくなってるの少し安心した。
それとも向上心が減ったのか? 自分にきびしくなくなったのか?
それにしても普通の授業だ。
「狐借虎威(狐、虎の威を借る)」の最初の時間。最初は音読。まず模範読みを二回。漢字を指でおさえながら聞かせる。あとについて読んでみるのが二回、一人一文交代読みを二周、もう一回追い読み、立って自力で通して読むのが一回。
次に一文ずつ文の構造を読み取る。SVOを確認しながら、大事な単語を抜き出して説明する。
メインは使役の構文。「○○(担任のなまえ)・使・○○(生徒のなまえ)・読・教科書」と書いて、意味を予想させる。英語の使役の構文と同じであることを指摘し、読み方と返り点の付け方を教える。
「秋元康・使・高橋・長・秋葉原四八隊」の例文のあと、「天帝・使・吾・長・百獣」を訳してみる。
「Aを以てBと為す」の訳し方をやったところで残り二分になったので、再度全文を音読して終わる。
普通だ。なんの企画もない。まさに「味噌汁・ご飯授業」だ。でも、ちゃんとマスターしてもらえれば、漢文は読めるようになるし、偏差値も上がる。二年半後の直前講習で教えている自分のイメージが入っていて、そこからの逆算ができているので、盛り上がりもしないが、あせりもない。
「逆算」かな。実習生と自分の授業に違いがあるとしたら。
「見通し」と言ってもいいかな。今はノートをとるのがこんなに遅い○○くんも、二年後にはこんなふうになっているだろうという蓋然性の高い予想。もうしばらくいっしょに過ごすと、予想を裏切るくらいに伸びるにちがいないという予想もできるようになるだろう。今は中学生にしか見えない○○くんも、二年後かなりおっさんになるはずだ。
1学年だより「殻を脱ぐ2」
急速に身体機能が失われていく状況において、それを悲しんでいる暇は春山さんになかった。
父親がつくった莫大な借金を返すため、そしてうまれて来る子ども、妻との生活を支えるためにがむしゃらに働くしかなかった。
不動産業を一からスタートさせ、やがて独立するものの、病気の進行はいかんともしがたくなる。
身体がほぼ動かなくなり、医療機関に通い、介護サービスを受けるようになると、春山さんはとんでもない事実に気付く。
春山さんが接した医療や介護の世界は、どちらもサービス精神が全く感じられない、「上から目線」のものだったのだ。
そこで考えた。お客さんの目線に立った商品を開発すれば絶対に喜ばれる、必ず儲かると。
健康機器の会社を立ち上げた春山さんは、数々の商品を開発する。
そして、いつのまにか業界のトップランナーとなり、大企業がこぞって春山さんのもとに提携を申し出るようになった。
自分が難病にかかったからこそたどりついた道だった。
そんな春山さんだから、「なかなか就職口がみつからない」などと嘆く若者には、「甘えるな!」と一喝したくなるのも当然だ。
~ 今の世の中、不景気だって? これまでにない就職氷河期だって? 嘘ばっかりいうな。どこが不景気。こんなにも平和で、こんなにものに溢れて、こんなにも豊かなのに。どこが就職氷河期?大手企業は確かに大変だよ。でも中小企業は、人をこんなにも求めているじゃないか。きみたちが選り好みしているだけじゃないか。 … 僕にとって、いい時代悪い時代、そんなものはなかった。難病になって、転がるように坂道を落ちて、いろんなものをこの身体から失くしてきた。ただ、失くす端から、いろんなものを見つけてきた。今ある条件の中で戦ってきた。次の目標だけを見て、光だけを信じて、そこを這い上がってきた。いい時代も、悪い時代もない。 ~
与えられた運命をプラスにするのも、マイナスにするのも、それはすべてその人自身の受け取り方なのだ。
春山さんは、生きている限りはエビのように殻を脱ぎ続けたいという。
~ 生涯エビみたいな人生を生きたい。これが僕の目指す、生きる道。いろんなことがあったって、壁を迎えたって、大丈夫や。「今の殻を脱いで、やがて大きくなれる自分がある。そのための、今、脱皮への苦しみや」と思ったら。憧れをもって苦しみの中から、次の人生を切り拓こうぜ! ~
バイトに行く娘を駅まで送り、そのいきおいで久喜に向かったら、指揮のレッスンは10時からなのに8時半に着いてしまった。日曜の朝は16号も空いている。マクドによって午後合奏する曲の譜読みをしてから、久喜高校(女子校)さんの駐車場に車を移動して指揮法の予習をし、ふと気付いたら学校の外をランニングしてきたのであろう運動部さんがもどってきて、すぐそばで腹筋とかやりはじめたので、ちょっとどきどきした。変な人に思われないよう、ひたすら楽譜に目を落とす。レッスンは、予習不足でぜんぜんだめ。次回に雪辱を期す。終わり次第学校にもどり、まず「チャルダッシュの女王」の合奏。1時間パート練習をはさんで「紺き空へ、碧き海へ」の合奏。学年だよりを書き、3年の漢文演習の予習をして、かなり疲労したので一息つこう、大きなイスにゆっくり身を包まれよう、途中で寝てしまってもむしろOKの気持ちで南古谷ウニクスに行き、「ガール」のチケットを購入する。寝れるわけがない。香里奈さん、麻生久美子さん、吉瀬美智子さん、板谷由夏さん、書き写すだけでくらくらする方々がアップで出てくるのだから。とくに麻生さん、板谷さんの円熟したお仕事ぶりは、大女優の風格さえ漂う。仕事、育児、恋愛 … 、四人の抱える問題は、ある意味ステレオタイプだとも言えるが、それでもこうやって小説がベストセラーになり、映画化されるのだから普遍的なテーマなのだろう。女性が観るとどう感じるのかな。現実はもっと悲惨よ、とか思うのかしら。たとえば麻生さんの場合。大手の建設関係の会社に勤め抜擢されて中間管理職になる。年上で仕事のできる部下がいる。上司の麻生さんにも「だから女はだめなんだよ」というスタンスで接してくる。ここまで典型的にイヤな奴いるかなと思ったりしたが、でも遅い電車での少し酔ったおじさんたちの会話とか思い出すと、いそうだ。男の目から見ても、こいつなぐったろかと思ったくらいだ。もちろん、映画では、男社会である会社の理不尽さに辟易とし、時にくじけそうになりながらも、負けない、女だからといってすきにさせない、女をみせてやると筋を通しきる麻生さんの姿を描く。ああ麻生さんに叱られたい。あの目でがんみされたい。「あたしと勝負しない?」といってコイントスをする最後のシーン。床におちたコインをぐっと踏みしめるあのヒールで、できれば自分を踏んでほしいと瞬間願った男性ファンは自分だけではないはず(うそっ、おれだけ?)。板谷さんのシングルマザーも泣ける。一人息子にとって、父親がいないことをマイナスにしたくない。その思いのみで、仕事はもちろん、逆上がりもキャッチボールも、父親がしそうなこと全部を自分がやろうとする。助けてくれる仕事仲間もいるのに、頼りたくない、シングルマザーは弱者じゃないと頑張り続ける。寝る前に「ほんとはお父さんとキャッチボールしたい?」と尋ねる母に、少年がくびをふって「お母さんとしたい」とささやくシーンで、中島みゆきライブ「誕生」クラスの号泣をしてしまった。ぼくもしたい。暗くなるまでキャッチボール。お父さんいらない。いっしょにお風呂入ってこちょこちょしてほしい(おちゃめすぎですか)。奥田英朗作品に、根っからの悪人は登場しない。『最悪』『邪魔』といった初期のクライムサスペンスでも、根っからの悪人ではなく、どんな人も状況によって悪に追い込まれていく場合があるという描かれ方だったような記憶がある。4人の女優さんたち、現実の娑婆はいろいろ辛いこともあるし、年をとっていくのはしょうがないけど、いつまでもガールの気持ちで自分らしく生きていきたい、という前向きな役柄を四者四様に、実にうまく演じていた。香里奈さんはこの作品がベストワーク。でもあの … 、男子もいろいろがんばってるんですよ。女性ゆえの生きづらさというのはあるとは思うし、男だって辛いんだよと言ってしまえば、女の気持ちはわからないと言い返されるとは思うけど、でも、根本は性別関係ないと思う。「ガール」みてボーイも元気出た。
嘉門達夫の「この中にひとり」というネタが好きだった。
こういうの。
「この中に一人、武士がおる。おまえやろ?」
「いや、拙者はさようなものではござらん … 」
「おまえやー!」
というヤツ。ネットで検索してみたら、「新・この中に一人」というCDが発売されていた。
一番の歌詞。
「この中に一人、メイドがおる。おまえやろ?」
「違います、ご主人様」
「おまえやー!」
何がおかしいの? と尋ねられたら、どう説明すればいいだろう。
メイドであることを否定するのに、メイドでしかない言葉遣いをしてしまって、バレバレになっている面白さなんだよ、と説明されても、ふ~ん、それで? となるだろう。
何がおかしい? と尋ねた時点でメイドカフェとかを知らないということだから、説明自体が意味をなさなくなる。
一つめのネタも、「ねえ、拙者って何なの?」と聞く、たとえば若い女の子がいたとしたら、その子に面白さは伝わらない。
お笑いのネタを楽しむにも教養がいる。
武士とはこういう話し方をするものだ、それはアイデンティティにもなっているのだという暗黙の前提を知っててはじめて楽しめる。
先生シリーズもつくれそうだ。
「この中に一人、学校の先生がおる。おまえやろ?」
「おまえとはなんだ! 校庭10周っ!」
「おまえやー!」
て感じかな。ただし、これは先生が先生として生きていられた、古きよき時代の先生像にもとづくネタだ。
今だったら … 。
「この中に一人、学校の先生がおる。おまえやろ?」
「いえ、ちがいます」
「きーみーがーあー … 」
さっと直立不動になり口をぱくぱくしはじめる … 。
「おまえやー!」
これは、ぎりぎりだな。
ともあれネタを楽しむには、一定の共通の土俵を想定しうる人同士が、その土俵のなかでの逸脱を感じあえることが必要になる。
えっと、なんで延々とこういうことを書いてるかというと、「ダークシャドウ」があまり楽しめなかったからだ。
作品の出来が悪いのではないし、つまらなかったわけでもない。
いろいろ意味がわからないところが多かった。
そしてそれらは、英語を話せる人なら、キリスト教文化圏に暮らす人なら、ヴァンパイア系の映画をいくつか観たことのある人なら、簡単にわかること、言うまでもないことであろうと予想される。
ジョニー・デップさんのセリフ回し一つとってもそうだ。
まさに「拙者は」とか「まろは」みたいなしゃべり方してたんじゃないかな。
字幕にそのニュアンスを伝えようとする努力は感じられたが、やはり欧米の人のようには楽しめてないんだろうなと思ったら、さみしかった。
くりかえすが、観る側の問題だ。
でも、面白かった。
登場する女優さんはきれいだし(また、それか!)、お芝居も上手だし、クロエ・モレッツさんが出てたし。
クロエさんはさすがの存在感だ。ただし、この子はこんな役回りだろうなというのがあって、監督さんも多分それを期待してて、観る側も大体こんなキャラなんだろうなと予想する範囲内の仕事ぶりで、期待通りではあるが期待通りでしかなかったのが、少しもったいない。
「キックアス」を越える役にはなかなか出会えなさそうだ。
もう少し年かさをまして、大人の女性としての役を演じ始めた時に階段を上れるかもしれない。
なあんて、才気あふれる人を一般人がとやかく言うことではないのだが。
この映画、ジャンルとしてはサスペンスホラーとでも言うのだろうか。
魔女アンジェリークが、愛する男に相手にしてもらえないばかりに、その男(ジョニーデップ)をヴァンパイアにしてしまう。
そして200年の時を越えて、恨み続け愛し続けるという、究極のラブストリー、ある意味ラブコメだと思った。
「すべての映画はラブコメである」というテーゼを思いついたけど、証明できそうな気がする。
体育祭で体調くずして休みます的な欠席が、以前(けっこう昔だけど)は何人かいたものだが、今日は学年でみても部活もほぼそろっていたのはえらい。
現代文の時間、テスト返しをしながら、採点間違いで実際よりいい点がついていた場合、正直に申し出るべきかどうか、とふと考えた。
もちろん、点が足りない場合には大体言いに来るので、ごめんねといいながら直す。
先生、間違ってるのに○になってますと言いにくる子もいるのだ。
サービスで点数あげちゃうよとも言えないから、ごめんねといいながら×にする。
採点ミスはどうみてもこちら側のミスで、そのせいで点数をもらいすぎちゃってる人がいても、その人はふつう責められない。
強引な結びつけだけど、生活保護のお金をもらった人だけ責められて、あげてる人、つまり審査したり、給付している役所の人の責任を誰もとがめないのはなぜだろう。
生保の不正受給は、ちゃんとチェックしたなら、おそらくとんでもない額に達している。
芸人さんだけああやってさらしものにして、何か仕事をしている風の議員さんの志に疑問を感じる。
いいか、悪いかで、いい側にはふれないだろうけど、そんなに悪事だろうか。
河本さん自身今年収5000万なら、税金だって2000万は少なくとも収めてるのではないか。
そこからめぐりめぐってお母さんのとこにいってると思えば、税金をはらってない人や、合法的にはらってない企業だってたくさんあるし、それを思えば、バッシングの仕方がかわいそうだ。
あと、西武の涌井投手。聞けば独身だそうなのに、おねえちゃんとのデート写真が雑誌に載ったのを理由に謹慎させられるのは、どうなのだろう。昔の野球選手の武勇伝に比べたら、ほんとなきに等しいできごとではないか。ていうか、会社はふつう選手を守ってあげないのかな。なんか被害者側的な立ち位置につこうとしているようにさえ見える。
あと、公務員のみなさんは、外でお酒をのめなくなったと聞いたが、それはそれはさびしいことだ。
いろいろと違和感を感じる昨今の世の中であるが、授業では言えないので、書いてみた。
昨日はグランドで予選、今日は川越市陸上競技場に場所をうつして体育祭本選。
一昨日までとうってかわっての晴天で、滞りなく進行できてよかった。
ただ、この時期の晴天はつらい。日焼け止めをぬって、隙あらば日陰にいようとしてたが、それに実質何の仕事もないのに、ぐったりした。
高校生は元気だ。とりあえず走らせておけば大丈夫だ。
応援合戦やら遊び系の種目がないのがさみしいという意見を保護者の方からいただくこともあるが、でもとりあえずいっぱい走ってもらうのが一番なのかなと今日は思った。
ちらほら見かけた我が部の面々は、たぶん大きな活躍はしていなさそう。
けがだけしないでいてほしい。明日から、西部地区、コンクールに向けて必死こいてやっていく。
まずは、6月22日の西部地区研究発表会。
会場は、久しぶりに所沢ミューズ。B部門に出ていたころ無敵をほこった(ここだけで言わせて)験のいい会場だ。トリにふさわしい演奏ができるようにがんばろう。
1学年だより「殻を脱ぐ」
日本人は、世界で一番エビを食べる国民である。
とくにおせち料理やパーティー料理などのおめでたい料理にエビは欠かせない。
エビの鮮やかな赤い色が料理を華をそえる点、そしてエビのまがった姿が人間の長寿のイメージにつながる点がその理由とされているが、エビが縁起のいい食材として扱われるにはもう一つ深い理由がある。
~ これはね、昔の中国で生まれた教えなんや。答えはね、エビの煮姿じゃないの、エビの一生に、この秘密は隠されている。エビはね、命ある限り殻を脱ぎ続けるらしい。立派になっても、どれだけ周りから賞賛されても、その厚くなった堅くなった殻を、死ぬ思いで脱ぎ続けるらしい。一生、次の自分に憧れを持たなくなったとき、苦しみの中からも、次の変化を楽しみに今を脱出しようとしなくなったとき、もうこれでいいやと思ったとき、エビはその一生を終えるらしい。死ぬらしい。(春山満・春山哲朗・宮内修『若者よ、だまされるな!』週刊住宅新聞社) ~
エビは単に長生きのイメージにつながるからではなく、その生き方がめでたいのだという。
繰り返し脱皮し、新しい自分になろうとし続けること。
変化自体が生きることであり、生まれ変わりをやめた時は、死である。
こんなもんでいいやと思うことは、生への歩みを止めたということになる。
この文章を書いている春山満氏は、介護、医療関係のオリジナル商品を次々と開発し商品化するとともに、大手の医療法人、企業、自治体へのコンサルタントも行う会社の社長さんだ。
春山氏が様々な介護・医療製品を開発できるのはなぜか。
それは、ご自身が四肢の機能を失っているからだ。
20代後半で進行性の筋ジストロフィーを宣告され、現在は首から下の機能をすべて失っている。
しかし病気がわかった頃、父親の不動産関係の会社がつぶれ、残された莫大な借金をなんとかしないといけない状況においこまれていた春山さんに、自分の運命を十分に悲しむ時間はなかった。
自分はどれくらい生きられるのか、どれほどのことができるのか。
自分のおかれた状況のなかで、「失ったもの」への感傷にひたっている時間はなく、ただやれることをやっていくしかなかった。かえってそれがよかったと春山氏は言う。
~ どんどんこれから身体が悪くなる。でもね、そのときお父さんの頭をよぎったのは、病気のことじゃなかった。どうやって生きていこう、それだけだった。だから、泣いて恨んで、宿命のせいにする余裕もなかった。これがよかったかもしれない。
人生っておもしろいよ。物事って、心のもちようでどうにでもなる。 ~
日曜の昼間、「劇団だっしゅ」の境太郎さんという方が企画した「MaJIWARism~交わリズム~」というお芝居を観た。
昨年たまたま「だっしゅ」さんを観に行ってからご縁ができて、そこの女優さんからメールをいただいて知った。
出かけたのは要町の駅から徒歩5分「アトリエ第七秘密基地」という小屋。キャパ50席。
客席は、いかにも芝居してます風の若者が中心だが、自分と同じ年格好のご夫婦とかもいらっしゃったから、出演者の身内の方々だろう。
少しでも多くの人に舞台経験を与えるというコンセプトでつくられた企画だそうで、一つの共通テーマのもとに書かれた四本の台本が一つにつながるように構成されている。
お芝居の筋や演技にはあらい部分があったのもたしかだが、それを補ってあまりあるパワーを感じた。
ただ若いとはいいながら、そこそこの年齢に見える役者さんもいる。
えらいよね。いつまで役者やってるんだろ、やれるんだろ、ていうか役者としての収入ほとんどないから的な現実的苦悩をかかえてる方もいると思う。
それが逆にパワーにつながっているのだろうか。
芝居がはねたあと、メル友(うそつけ!)の山口奈実さんにあいさつにいく。
「ありがとうございます」と言って、小さなチョコレートと芝居の小道具だった名刺を手渡してくれる。
大事にしまって、うきうきと駅にむかう。
AKB劇場に通う人の気持ちってこんななのかな。しまった! 握手してもらえばよかった。