1学年だより「180秒の熱量(2)」
中学時代に始めたアマチュアレスリングでは、一とき日本のトップレベルの選手だった。
肩の故障や、信頼していた先輩が亡くなるということも影響して結果を残せず、競技を離れた。
しかし米沢重隆は、その後も総合格闘技、ボクシングへと格闘技から離れることはできず、33歳でプロボクサーとしてデビューする。
ボクシングは、年齢制限をもつ唯一のプロスポーツだ。みんなも知っている通り、40歳を越えてマウンドに立つピッチャーもいれば、50歳を越えたJリーガーも存在する。アントニオ猪木は還暦を超えてもリングで戦っていた。
しかし殴り合いのスポーツであるボクシングは、長く選手生活を続けることで、脳障害の危険が圧倒的に高まる。原則として37歳で強制的に引退を余儀なくされる。例外はその時点でチャンピオンであることだ。
2013年、36歳の米澤は、現役を続けるためにチャンピオンになろうと決意する。
この時点で5勝6敗2引き分けという戦績のB級ボクサーにとって、無謀な挑戦だった。
ミドル級(72.5㎏以下)という重い階級は、そもそも日本人選手が少ない。スパーリングの相手もなかなか見つからない。そもそも残された時間のなかでチャンピオンを狙えるだけの試合数が組める可能性さえ低かった。しかし、ジムの会長の尽力により、まずはタイに渡って1勝をあげA級に進むと、次に日本3位の選手との対戦が叶った。
~ トレーナーの小林は信じられない思いだった。もう足が痺れ、立っているだけでもキツいはず。あの二発はなんだったのか、思わず問いかける。
「あれ、狙ったのか?」
「はい」
そう答えた米澤の表情は、まだ生きている。まだこのボクサーは闘える。
「よし。最後。この試合のラストラウンド。ボクシング最後だと思ってやってこい」
再び、今度はレフリー自身が傷口を確認しにきた。米澤は一言「やります」と鋭い表情で告げる。その気迫にレフリーは何も言えずに戻っていった。それを見た有吉会長は誇らしげだった。
思えば4年前、普通のボクサーなら引退を考える33歳でデビューした米澤は、5歳年下の若者に2回KO負けを喫し、ひとり控え室で泣いていた。他のジムの知り合いには、はっきり、「年齢も年齢だし、彼にプロは向いていない。アマチュアの《オヤジボクシング》でやった方がいい」と真面目な顔で忠告された。その米澤が日本3位と正々堂々7ラウンドを闘い抜き、これだけ打たれても、なお心が折れていない。気持ちの弱さなどどこかへ消えていた。
「最後、悔いのない試合してこい」
「はい」 ~
対戦相手は地方在住の選手で、試合勘を失わないように相手をしてみるぐらいの感覚だった。
米澤陣営も、最後の試合になることを内心想定していた。本人以外は。
中学時代に始めたアマチュアレスリングでは、一とき日本のトップレベルの選手だった。
肩の故障や、信頼していた先輩が亡くなるということも影響して結果を残せず、競技を離れた。
しかし米沢重隆は、その後も総合格闘技、ボクシングへと格闘技から離れることはできず、33歳でプロボクサーとしてデビューする。
ボクシングは、年齢制限をもつ唯一のプロスポーツだ。みんなも知っている通り、40歳を越えてマウンドに立つピッチャーもいれば、50歳を越えたJリーガーも存在する。アントニオ猪木は還暦を超えてもリングで戦っていた。
しかし殴り合いのスポーツであるボクシングは、長く選手生活を続けることで、脳障害の危険が圧倒的に高まる。原則として37歳で強制的に引退を余儀なくされる。例外はその時点でチャンピオンであることだ。
2013年、36歳の米澤は、現役を続けるためにチャンピオンになろうと決意する。
この時点で5勝6敗2引き分けという戦績のB級ボクサーにとって、無謀な挑戦だった。
ミドル級(72.5㎏以下)という重い階級は、そもそも日本人選手が少ない。スパーリングの相手もなかなか見つからない。そもそも残された時間のなかでチャンピオンを狙えるだけの試合数が組める可能性さえ低かった。しかし、ジムの会長の尽力により、まずはタイに渡って1勝をあげA級に進むと、次に日本3位の選手との対戦が叶った。
~ トレーナーの小林は信じられない思いだった。もう足が痺れ、立っているだけでもキツいはず。あの二発はなんだったのか、思わず問いかける。
「あれ、狙ったのか?」
「はい」
そう答えた米澤の表情は、まだ生きている。まだこのボクサーは闘える。
「よし。最後。この試合のラストラウンド。ボクシング最後だと思ってやってこい」
再び、今度はレフリー自身が傷口を確認しにきた。米澤は一言「やります」と鋭い表情で告げる。その気迫にレフリーは何も言えずに戻っていった。それを見た有吉会長は誇らしげだった。
思えば4年前、普通のボクサーなら引退を考える33歳でデビューした米澤は、5歳年下の若者に2回KO負けを喫し、ひとり控え室で泣いていた。他のジムの知り合いには、はっきり、「年齢も年齢だし、彼にプロは向いていない。アマチュアの《オヤジボクシング》でやった方がいい」と真面目な顔で忠告された。その米澤が日本3位と正々堂々7ラウンドを闘い抜き、これだけ打たれても、なお心が折れていない。気持ちの弱さなどどこかへ消えていた。
「最後、悔いのない試合してこい」
「はい」 ~
対戦相手は地方在住の選手で、試合勘を失わないように相手をしてみるぐらいの感覚だった。
米澤陣営も、最後の試合になることを内心想定していた。本人以外は。