水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

漢文の読み方

2009年12月31日 | 国語のお勉強(漢文)
 余裕をもって漢文を読むためには、文章はなぜ書かれるのかという根本を確認しておくといい。
 もちろん句法や重要単語のマスターは前提として。
 受身やら反語やらの説明はどの本にも書いてあるけど、漢文とは何が書かれた文章なのかという根本をきちんと説明してくれているのは、代ゼミの宮下先生ぐらいしか寡聞にして知らない。
 漢文の評論では「政治、文学、知識人としての生き方」がその内容のほとんどを占める。
 考えてみればあたりまえで、漢文を書いているのは古代中国の知識人であり、厳しい科挙の試験に合格した特殊な人々である。
 ものを書くこと自体が特別な行為だから、「なんとかいう女優がいい」とか不毛なことは書かない。
 筆記具だってまじ貴重品だ。
 「昨日、どこそこのラーメン屋に入ったら予想以上においしかった」という文章を書くはずがない。
 しかし「どこそのラーメンはおいしかった。思わず作り方を聞いたら、ごくあたりまえのやり方だった。」とは書くかもしれない。
 そして「ああ、あたりまえのことをあたりまえにするということを今の人々は忘れている」とか「思うに、今の為政者には、この姿勢がかけているのではないか」と述べる。
 パターンは決まっているのだ。
 文章はなぜ書かれるのか。
 何らかのことがらを言いたい、伝えたい、主張したいからだ。
 「どこそこのラーメンはおいしい」とは、「どこそこのラーメンがおししいことに気づいてほしい」「なぜ気づかないのだ」「気づく自分はえらいだろう」の意味だ。
 結果として、なんらかのことがらを「批判」することになる。
 学問とは批判であると、宇佐美寛先生もおっしゃっている。
 現代文の評論と同じだ。
 漢文でありがたいのは、さあここから言いたいことだよと示してくれる言葉がある。
 「嗚呼(ああ)」とか「夫(そ)れ」とか「今」とか「之に由りて此を見れば」とか。
 前半が具体例、体験談、たとえ話であり、最後に「今、○○というものは…」と本題に入っていく。
 なるほど今の政治を批判しているのか、なるほど今の知識人の生き方を批判しているのね、と理解すればいい。
 書かれた文章そのものの「文脈」を意識できると、再度その文章の部分にもどったとき、わかってしまうことがある。
 これも現代文とまったく同じだ。

 あと句法を学ぶ際には、極力言語の文法を意識して読むべきだ。
 たとえば使役の構文は「~をして~せしむ」と形を丸暗記するのは大事だが、文法的に構造をとらえたとき、英語の使役の構文とまったく同じ構造であることに気づくはず。
 この「所」は関係代名詞「What」と同じだな、なんて気づけると、すうっと読めてくる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シアター!

2009年12月30日 | おすすめの本・CD
 自分の好きなことを仕事にできるなら幸せだ。
 やりたいこと、好きなことをやって喰っていくためには、そのために気の進まないこともやらねばならない。
 歌うことが好きだから歌手になりたいと思って歌手になったとする。
 しかし、実際に歌っていられる時間はどれだけもてるだろう。
 デビュー前の段階で、ボイストレーニングやらダンスやらのレッスンがあるし、営業用の笑顔の練習、握手の練習、お辞儀の練習、口の利き方の練習、サインの練習、挨拶回りなど、歌以外の様々なことを学ばされる。
 そして、地方営業、いわゆるどさ回りだ。
 ちなみに「どさ」は「佐渡」の業界用語的ひっくりかえしで、佐渡みたいな地方を回るという意味。
 地方のスーパーやレコード店で歌わせてもらって、土地の有力者と食事の席をともにすれば笑顔でお酒をついだりしないといけないこともあるだろう。
 だれも歌をきいてないデパート屋上での営業なんてのもあるかもしれない。
 「あたし、こんなことをするために歌手になったんじゃない」なんて思う経験は、プロ歌手の人ならみんなしてるはずだ。
 きっとそういう経験をしてはじめて歌詞にも心が入るし、長く業界で生きていける力もついていく。
 なんて、わかったふうなことを書いてみたりして。
 でもたぶんそうではないかな。
 純粋に自分の好きなこと、やりたいことだけをやって食べていける人など、かぎられた数人の超天才だけだろう。
 いろいろいやなことも経験する。
 やめようかとも思う。
 それでも、歌い続けなければいられない人だけが歌手になれる。
 神に召される。
 好きなこと、やりたいことというのは、探してみつけるものではない。
 人にやるなと言われても、どんな障害があっても、やらずにいられないものだ。
 資金がないからとか、時間がないからとか、チャンスに恵まれないからとか、そんな理由でやらずにすませられるのなら、それはそれだけのものであったということだ。

 一方で、「好きなことをやっているんだから、お金なんか関係ない」「お金の問題じゃない」という言い方が、逃げであるのもたしかだ。
 好きなことを本気でやっているかどうか。
 自分のやっていることが、それで喰っていけるレベルにあるのかどうかは、大きな境界線である。
 「他人に認められなくてもいい、好きなことなのだから」というのは、考え方としてはありなのだろうが、逃げてる部分を含んでいるのはたしかだろう。
 「結果が出なくても一生懸命やっていればいい」と最初から言ってしまうと、結果として一生懸命のレベルがさがっていることがあるのと同じで。

 有川浩『シアター!』は、小さな劇団を主宰する春川巧と、会社務めのその兄を軸に、好きなことにうちこむってどういうことか、好きなことで喰っていくとはどういうことなのかを描く。
 兄の目線は、芸の神に召される側にいける人への憧れを映し出していて、よかった。
 有川浩自身は、あっち側に確固たる居場所を築いてゆるぎない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グラメノス

2009年12月28日 | 演奏会・映画など
 ディオニシス・グラメノス氏のクラリネットリサイタル。
 と書いても誰のことかを知っているのは、現時点で日本では数百人ではないかと思うのだが、ギリシャ出身の若手クラリネット奏者である。
 本校に来ていただいている先生からのご紹介で、部員16名とともに横浜はみなとみらいホールまで出かけた。
 クラリネットパートは、音的にはまだまだ課題が多いと思うが、こうやってみんなでさっと横浜まで来られる姿勢があれば、ぜったいに上手くなる。
 一声掛けただけで12人やってくる川越高校さんもさすがだ。
 若手というか、たしか二十歳の文字通り弱冠の若者である。
 ピアノのお姉さんに連れられて、お辞儀のタイミングなども促されての感じで、世慣れてない面も見受けられたが、演奏はとんでもない。
 大家の風格さえただよう。
 ていうか、エロい。
 全身くまなく愛撫され攻められ恍惚とさせられた。
 さすがにこの年齢で海外公演まで行う演奏家というのは、たぶん努力でなんとかなるレベルではないのだろうなと感じざるを得なかった。
 今後知名度がもしあがったら、「ああグラメノスくんね、まえ日本にきたとき面倒みたことあるんだよ」ぐらい言おう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沈まぬ太陽

2009年12月27日 | 演奏会・映画など
 合宿最終日は、アンサンブルの発表会。
 父母会の方に集客をお願いしたら、驚くほどたくさんの保護者の方にご来校いただいた。
 演奏の方も、それに後押しされるように、数日前とは見違えるようだった。
 ご来校いただいたみなさま、役員のお母様方、ありがとうございました。
 また来年もよろしくお願いします。

 帰りがけ「沈まぬ太陽」に間に合ったので鑑賞。
 開始5分、事故直前の空港の場面であっけなく号泣。
 休憩をはさんで3時間以上がまったく長く感じなかった。

 主人公の恩地は、若くして労働組合の委員長を勤め、その報復人事で海外勤務を強いられ、そして帰国後は日航機墜落事故の遺族係を担当する。
 職場の不正を暴き、労働環境の改善を目指し、遺族の心情より会社の論理を優先してはならないと奔走する恩地は、どんな苦境にも信念を貫こうとする男だ。
 若いころ恩地と共に組合の副委員長を務めた行天は、恩地と道を違えたあとは、あらゆる手段を使って出世の道を歩もうとする。組合を骨抜きにし、さまざまな部署から愛人や手下を使って情報を仕入れ、役人を手なずけ、メディアに食い込み、裏から会社を動かしていく。
 恩地と行天とは、正反対の生き方をしているように描かれているのだが、このふたり根本は同じではないか。
 自分の信念を生きるという点において。
 そのためになんらかのものが犠牲になるのはしょうがないと考えている点において。
 恩地の生き方は、まじめな社員のため、事故の遺族のため、というゆるがない姿勢ではあり、たぶんかなり正しいのだろうが、物事には限度というか、ときには清濁併せ呑むのも器量だという面が欠けていると言わざるを得ず、恩地の生き方のために犠牲になった人もいるはずだ。
 もちろんだからといって行天のように、会社のため、自分のためになら何をしてもいいというものではない。
 若い頃なら、腐った会社や政治家や役人にはらわた煮えかえる思いで観たと思うが、どっちもどっちだなあという感想をもつのはあまりに大人過ぎるだろうか。
 でもね、恩地は奥さんが鈴木京香、行天は松雪泰子が愛人。
 どう考えたって、どっちも幸せでしょうが(けっきょく、そこかい!)

 3時間を超える大作ではあるけれど、原作の内容を充分に描き切ったとは正直言えないと思う。
 もともと全てを盛り込もうとするのは無理だ。
 日航機墜落とそれをめぐる様々な対応には、戦後の日本のあらゆる問題が現れてしまっているから。
 2時間の映画をつくれるネタが何十個も入っている原作を、ここまでまとめたということに拍手を送りたい。
 ひとつだけ不満を言っておくと、行天の下ではたらき、自ら命を絶つことになった香川照之は、最後の夜を芦原温泉ですごし、東尋坊で身を投げるのだが、現地ロケではなかった。
 芦原温泉とは似ても似つかぬ路地に、そば、越前がにといったのぼりを立てても、だまされないぜ。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変化のある繰り返し

2009年12月26日 | 日々のあれこれ
 合宿二日目。
 午前は、個人、パート、アンサンブル、基礎合奏。
 午後は曲の合奏。
 「変化のある繰り返し」は授業のコツだが、音楽も同じだという話をした。
 人間というのは、基本的に安定を求めるのだが、まったく同じ状態が続いているとつまらなくなる。
 かといって、大きな変化を積極的に求め続ける人はそうはいない。
 ほぼ同じでほんの少しだけ変化のある日常を過ごしていくのが一番心地よく、ときどきビッグイベント、大きな出来事、人生の節目みたいなものにでくわして、またあらたな気持ちで一歩進んでいく、というような生き方を一般的には望んでいるのだ(じゃないですか?)。
 曲も同じで、同じようなフレーズはまったく同じにくりかえすのではなく、ほんの少しダイナミクスを変える、テンポを変える、唄い方を変えるという工夫をして変化のある繰り返しをつくる。
 そして、もう一回同じようなフレーズなかで、ぽんと音の跳躍がでてきたときに思いを込めることができると、聞いてる人を涙のうずにまきこむことができるのだが、この跳躍した高い音が、難しい。
 合奏後はソロコンテスト。
 メリーウィドウワルツの一フレーズを六十数回聞いたが、まったく飽きない。
 フレーズを唄うということを勉強するのに、よい教材だと思った。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12月25日

2009年12月26日 | 日々のあれこれ
 最後の個別相談会。
 埼玉県にかぎらないと思うけど、ここ数年私立高校は全般に厳しい営業努力を強いられている。
 おかげさまで本校は定員を上回る生徒さんにきてもらっているが、そうでない高校さんも増えてきた。
 本校も、今年は第一希望者数の増加が一時期とまっていたが、今日の相談会の結果をみたかぎりでは、おかげさまでまた多くの優秀な新入生たちを迎えられそうだ。
 ありがたいことである。
 年々業務は高いレベルを求められるようになっている。
 親御さんの望みはその上をいく。
 われわれは年をとっていく。
 物理的に無理がきかない部分は、円熟でのりきっていくしかない。
 そもそも教育という仕事には(大きくでたぞ)不易と流行とがあるが、どうも流行にばかり目がいく風潮がある。
 たしかに世の中は動いている。
 多種多様な情報がおしよせてくる。
 しかし、人を育てる原理に、それほど大きな変化があるとは思えないのだ。
 なので、えーと … 、いっしょうけんめいやっていきます(おわりかい!)。

 午後はバンドレッスン。
 きびしいご指導をいただき、案の定「やればできるだるぉが! 最初からやれ!」状態で、あれよあれよと曲になっていき、やるべきことがわかった。
 あとはどこまで定着させていけるか。

 夕食のあと、復習のパート練習、恒例の球技大会。
 父母会の方からケーキとお菓子などクリスマスらしい差し入れをいただく。
 大きなケーキなので、心をこめてカットし続けた。
 長い人生、男だけでケーキを食べる年が2年や3年あってもいいではないか。
 
 「国語好き」さま、すてきなツリーありがとうございました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本アカデミー賞

2009年12月24日 | 日々のあれこれ
 チケットぴあのサイトで、日本アカデミー賞授賞式の記事を見かける。
 一度くらいこういうミーハーなところへ行ってみたいな、きれいな女優さん達を生で見てみたいな、部活休みの時期ならチケット申しこもうかなと思って読んでいったら、チケットは4万円だという。ひえ~。
 3月5日は試験前だし、4000円だったらぜったい行くのになあ。
 しょうがないので、ここでいろいろ決めてしまうことにする。
 最優秀作品賞「ディアドクター」
 最優秀主演女優賞 ペ・ドゥナ(「空気人形」)
 いろんな役をすべてハイレベルにこなしてるで賞 綾瀬はるか(「おっぱいバレー」など)
 いちどガツンと叱られてみたい賞 竹内結子(「なくもんか」)
 ちょっとふっきれたかな賞 成海璃子(「罪とか罰とか」)
 一緒にごはん行ってあげたいな賞 マイコ(「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」)
 外国語映画賞「わたしの中のあなた」
 職員室内鑑賞延べ合計数圧倒的に今年一番だったで賞「マイケルジャクソン This is it」(C先生は二桁観た) 
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本語が亡びるとき

2009年12月23日 | おすすめの本・CD
 職員室にいればパソコンをひらいてしまうし、家に帰ればマンガか娯楽ものを読んでるうちにおちてしまうので、ちゃんとした本は電車の中ぐらいでしか読めなくなってしまった。
 (ちなみに娯楽系としては『悪漢刑事』シリーズがいまお気に入り。ただし高校生は読んではいけません。R18です)
 電車に乗る機会があって、やっと繙くことができた。
 途中だが、たぶんものすごく多くのことを学ぶことになるだろう。
 言葉に携わるものとして必読書だ(だぁから、早く読めって言ったでしょ)
 内容については、あらためて書きたいが、考えたこと。
 漢文を入試科目からはずした多くの大学の先生方、はっきりいって知識人として情けないです。
 学問をやる資格を疑う。
 日本人が、日本語で研究できるのは、漢文のおかげだ。
 古代中国との接点がなかったら、アジアやアフリカの多くの国と同じように、英語でしか高等教育を行えなかっただろう。
 受験生の確保という理由で、漢文を入試からはずす先生方は、生活のために刀を売って竹光をさしていばっているだけの輩である。
 なんか突然けんか腰になってしまった。
 そういうことが書いてある本ではないけど、そんなことを強く考えざるを得ないほど、強く「母語」とはなんぞやとの思いを抱かされた本だ。
 はやく電車に乗らなきゃ。

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰り

2009年12月22日 | 日々のあれこれ
 Clの先生を送る車の中。
「先生、年末年始はお忙しいですか」
「三日に○○フィルのニューイヤーにのるので、それがおわるまで落ち着かないですね」
「○○フィルは、11日のを私も聴きに行きます」
「そっちはのらないですが今度出るCDにはのってますよ」
「おお、すぐに買います。○○フィルあたりだと、ギャラいいでしょ」
「それが実は、 … 」
「ええっ? そうなんですか … 。でもあそこがんばってますよね」
「やはりオペラをたくさんやってるオケは力ありますね。」
「なるほど。先生また来年もよろしくおねがいします。良いお年を」

 いきものがかり「ハジマリノウタ」と、清水ミチコ「ばったもん」の発売日なので、新星堂によって購入。
 いきものがかりは、シングルをほぼ買ってしまっているので、別にあわてなくていいかなと思ってが、やはり買ってよかった。
 アルバムにしか入ってない曲のレベルがまた異常に高い。
 たとえば「真昼の月」という曲は何のタイアップもないけど、もし火曜サスペンス劇場の主題歌だったなら、「聖母たちのララバイ」レベルに位置されるであろうと思われる名曲だ。
 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日常

2009年12月21日 | 日々のあれこれ
 Clの先生をお迎えにいく車のなか、Nack5できいた話。
 そこそこ混雑している電車で、座っている男子小学生がうるさくて、まわりは辟易していた。
 そのとき、金髪の若者が「おいぼーず、まわりに迷惑だから静かにしろ。言うこと聞かない子のとこにはサンタさん来ないぞ」と注意をした。
 注意されて静かになった小学生は、その後で立っている人に席をゆずった。
 険悪な車内の雰囲気もなごんだのでした、という「ちょっといい話」のおたより。
 大野勢太郎さんも、いい話ですねぇと言ってた。
 
 若者が、小学生を「おい、ぼーず」ってよぶかな?
 という違和感があって、ちょっと話ができすぎてないかなと思ってしまうおれは性格がゆがんでいるのだろうか。
 でも、それは本当にそうだったのだろうから、よしとしよう。
 ただし「金髪の若者が」で、いい話度を1ランクあげるのは、なんか違うんじゃないかなといつも思うのだ。
 見た目は怖そうだったけど、席を譲ってくれて、「いまの若者も捨てたもんではない、人は見た目じゃないな」と思った的な話がたまにあるじゃないですか。

 金髪で服はふつうのスーツだったってことはないと思うから、それなりに威嚇してそうな格好だったとする。
 だとしたら、その時点でまわりの人にマイナス印象を与えてるわけだから、いいことをして、つまりこの場合だったら、子どもを注意したという点でチャラであって、ポイントがプラスになってしまうのはおかしいのではないか。
 そんなにこだわるところでは全くないのだけれど。
 でも、いかにもまじめそうで、席を譲ってくれそうな若者が、席を譲ったら場合、そうだよね、で終わる。
 怖そうな身なりをしてて席をゆずると、1ランク株があがる。
 いつもまじめそうな身なりをしてて、いつも席を譲るおれさまとしては、何か釈然としないものを感じるのであった。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする