有川浩のベスト3は「空の中」「フリーター家を買う」「阪急電車」である。
この三つに限らないが、有川さんの作品を読むと、「人生って、つらいこともいっぱいあるし、うまくいかないことも多いけど、でも捨てたもんじゃないよ」というあたたかい気持ちになれるのだ(なんてベタな紹介なのだろう)。
「阪急電車」は、特にそのあたたか系で、映画も大成功だった。配役もイメージとぴったりだったし。
友情出演で一瞬の出番だけど、相武紗季ちゃんをはじめていい女優さんだと思った。
「八日目の蝉」と並んで、今年のベスト。
いろいろあって、日本中ギスギスしてるときもあるけど、みんなで一度この映画観たらどうだろう。
「うまい」とか「すごい」とかよりも、「なんか心があったかくなった」と思ってもらえるような演奏ができるようになりたい。
ほんとうにラフマニノフ好きの方には微妙かもしれないが、鈴木英史氏「セルゲイモンタージュ」はいい。
クラシックのアレンジ作品数々あれど、たんに楽器をおきかえただけの作品もあれば、編曲者という媒体が原曲を消化し昇華した結果としての譜面とがある。
前者の譜面の場合、そんな風にしたいなら別に吹奏楽でやらずに、オケでやればと言いたくなる演奏にであうときも正直ある。
鈴木英史氏のセレクションシリーズは後者の最たるもので、もはや編曲とは呼びがたい次元に達している。
この新作「セルゲイモンタージュ」は、さらにそれを超えて、誰が聴いても吹奏楽にはちがいないんだけど、誰が聴いてもラフマニノフの世界を表現している、という作品になりえているのではないだろうか。
小説やマンガを原作とする映画も数々あれど、原作を極力忠実に映像化しようとする努力は、たんに楽器をおきかえただけのアレンジ作品に近いものがある。
去年の「悪人」がその例で、原作者が脚本に参加しているため、結局は吉田修一氏の狭い世界観しか表現しえない平凡な作品だった。
「八日目の蝉」は、去年観た「告白」もそうだが、原作者と映画の監督が一定の距離をおいている。
原作者と監督さんが、お互いがお互いのジャンルに敬意を払っている。
原作のままを目指すだけの映画化ではない。
だいたい原作通りを第一目標にしたら、役者さんの存在そのものが、かえって世界のイメージを狭くすることになる。
映画という別の土俵のうえで、原作が新たな血肉を得て別次元の作品になるからこそ、映画にする意味があるはずだ。
そのままがいいなら、読んで終わりでいい。映画館で再現フィルムを観たいわけではない。
そういう意味で「八日目の蝉」は幸せな作品であった。
「SPA」のインタビューで、角田光代氏が原作にはない台詞やシーンが実によかったと述べてるが、本気で言っていると思う。
役者さんがまたいい仕事してるし。
井上真央さんとか小池栄子さんとか、なんていうか役者フィジカルのつよい人たちが、存分にその能力をいかされている。泣きました。
登場する男性陣がまた、あまりにも情けないので、身につまされてせつなかった。
監督さんグッジョブ。現時点での今年のベスト。
「孤高のメス」を撮られた監督さんだと後で知り、深く納得した。
天皇・皇后両陛下が被災地をご訪問されている。
~ 両陛下は避難所となっている歌津中を訪れられ、ひざをついて避難者と話されると、涙を流す人もいた。
同中の佐々木しげ美教諭(42)は、天皇陛下から「生徒さんたちはどうでしたか」と震災当時の様子を尋ねられた。「生徒は全員無事でした」と答えると、皇后陛下が「お導きいただいてありがとう」と声をかけられたという。佐々木教諭は「気遣う言葉が胸にしみて、これからに向けて勇気づけられた」と笑顔をみせた。 ~
職員室のパソコンでこの記事を読んだとき、こみあげてくるものがあった。けっこうやばかった。
お声をかけていただいた佐々木先生ばかりか、被災地で働く先生方をこれほど励ますお言葉はないのではないか。
お預かりした生徒を導くこと。われわれの仕事の本質はここにしかない。
~ 君が笑えば 私も笑ってふたり手をつないだね
いつか手と手が離れてしまうと知っていたら
あの時言えばよかった
ねえ好きだよ ありがとう miwa「friend 君が笑えば」 ~
先日「二日前のプロポーズ」という記事を読んだ。
宮城県にすむ34歳の女性が、年上の男性と知り合い、おつきあいをしていた。
ともに離婚歴がある二人だが、新たな人生を歩み始めようと気持ちがよりそい始めた。
「老後はいっしょにすごそう」と男性が話したのは3月9日。
その答えを女性が口にする前に、震災で二人は離ればなれとなった。
いまだ行方のわからないままの男性。
「あの時、はい」と答えていたら人生は変わったろうかと自問しながら、いつか会いにきてくれると女性は待っている。せつないね。
震災を経験して何が変わったかと自問したとき、根本的には何も変わってないのはたしかだが、成功哲学的な本に対する興味が薄れた面はあるかもしれない。
「夢を実現するには、夢に日付をつけなければならない」という考え方。
「いつか」ではなく、「いつまでに」と人生の予定を決めて、あとはそこから逆算してやるべきことをやっていこうという考え方。
成功哲学というか成功ハウツー本のほぼすべてが、この考え方に立っている。
そんな本を今まで段ボール何箱分読んできたことか。
もちろん、それはそれで正しいと思う。
大学入試までの日程をいつも念頭におき、毎日やるべきことをやりなさいと、生徒さんに口をすっぱくして言い続けてもいる。
でも … と一方で思うのだ。
未来とか、予定とかって、ほんとにはかないものだなと。
はかないけど、生きていられるうちは、生きた方がいいものね。
先のことを考えてもしょうがないから、今やりたいことだけをやればいいと短絡するのもバカっぽいし。
先がどうなるかわからないのはたしかなのだから、好きな人には好きと言っておいた方がいいと思う。
こっちは嫌いと言われてしまうかもしれないが、気持ちを伝えないままになってしまうよりはいい。
この夏のコンクールが絶対に行われると断言できる人はいない。
原発は落ち着きつつあるとはいえ、この先何があるかわからない。
でも、いやだから、今年は好きだと、今年は西関東に行きたいと告げてしまおうと思うのだ。
部活オフだったので、お江戸にでた。
となれば、久しぶりにカレーいっとくかと思って、新宿東口は三越裏の路地に入り、いつものGOGOカレーを目指す。
なんか、雰囲気がおかしい。
店構えも同じ、内装も同じ、店の前に掲げられたメニューの写真もほぼ同じ。
なのに店の名前がちがう。
「あきばカレー工場」。どうしたの?
GOGOカレーさんの経営状態が悪化したとは、いつものお客さんの入り具合から想像できない。
何があったのだろう。
とりあえず入店し、カツカレーの食券を買った。
内装が同じどころか、使っているコップも福神漬け入れも前と同じだ。
思わず「ここはGOGOカレーとは全然ちがうお店なんですか?」と聞くと、そうですと言われる。
「でも、同じ金沢カレーなんで、試してみてください」と愛想よく答えてくれた。
GOGOカレーさんとはちがい、店員さんは皆日本人のようだ。
コンセプトが同じであることは、メニューとその写真を見てわかっていた。
銀の深皿に濃いめのカレールー、カツの上にソースがかかり、千切りキャベツがそえられているものをスプーンではなくフォークで食べる様式。
コンセプトが同じっていうのかな。
そんなんじゃなくて、こういうのは換骨奪胎とか同工異曲とかいうんだっけ?
ちがうな、それではいい意味になってしまう。
供されたカツカレーを見て、食べる前にわかった。
まがいもんであることが。
あまりにも粗いキャベツの切り方を見ただけでがっかりした。
まずカレーを一口。味自体は悪くない。というか普通。
普通じゃだめなんだよ。
おれが食べたいのは、もっとこってり濃くて、一口食べた瞬間にガツーンとくるのなんだよ。
こんなうまいカレーないよねと思いながら食べてると、後半はけっこうキツくなってくるぐらいなのが食べたいの。
食べ終わると、これでしばらく来なくていいやと思うものの、すぐに無性に食べたくなるくらいの中毒性を有するもの。
それがGOGOカレーだ。金沢カレーの完成形だ。
食べ始めると、粗切りキャベツから出た水がカレーの上にだらだらと流れてくる。
せめてカツが水浸しにならないようにと思って高台に避難させたけど、流れ来る水流はもはや堤防をものともしない。
だいたい、このカツ何?
あきらかに成型肉じゃん。このカツを食べるならわざわざカレー屋さん来る必要がない。
駅蕎麦のカツカレーでもいいのだ。
ごはん少なめのミリ盛りカツカレーが700円。
GOGOカレーは昼間なら600円。
100円高くなって、このパフォーマンス。
まがいものと断じてしまうことを一体誰が非難できようや。
けっしてまずいとは言わない。
基本的にカレーをまずく作るのは難しいものだし。
しかし、お客さんは正直だ
混む時間帯でなかったとはいえ、入店時に自分一人。
そのままずっと一人で、おれが帰り際に一人来ただけだった。
GOGOカレーでは、5のつく日にはトッピング券がもらえる。
すると、次に来るときはふつうのカレーを頼んで、カツカレーが食べれる。
このお店もそんなシステムまでまねているのだが、配布は1のつく日だそうだ。
今日、なんのために来たと思ってるの。
5の日に配れよ。でも、もらっても、もう来ないかな。
無理に吹奏楽話にしなくていい気はするのだが、クラシックアレンジものを、こんな風にしちゃいけないなって思った。
本校演奏時の照明プランを前々日にFaxするはずだったのを忘れてしまったので、9時には現地につきたかった。
日曜の朝に渋滞はなさそうだとはいえ、念のため7時半ころ出発。
途中でナック5から「微笑がえし」が流れてきて号泣。
16号を順調に東進する。案内板に「柏」とか「千葉」とかでてくると、なるほど春日部は東部地区だなと思う。
野球の応援で来て以来かな、春日部は。
その時16号でよく見かける山岡屋というラーメン屋さんが気になったが、先日池袋店に入ってみて、無理に入らなくてもいいお店であることはわかった。
予想どおり1時間くらいで到着する。
搬入口のトラックの横につけていると、春日部女子の生徒さんが数名歩いてくる。
マイクロを降りて、「おはよう」と言うと「おはよう」と言う。
「だれ? 運転手さん?」的な視線だった。
顧問の先生のお姿などは見えないので、会館まわりを歩いてみたり、車にもどって新聞を読んだりしているうちに開館時間となり、本校部員の姿もちらほら見えたので、楽器をおろしはじめる。
いただいた楽屋にいると、向こうの部長さんが訪ねてくれて、お弁当の用意もありますと声をかけてくれた。わーい。一応おにぎり買ってきたけど。
ステージでは山台組が始まっている。
男子にも手伝ってもらおうかと思ったが、人手はあるようだし、部員さんが自分たちでやっている様子がわかったので、そのままにした。
うちの演奏会だったら、どうだろう。「おい、そっち早くもってこいよ」とか「やることないなら邪魔すんな」とかつい叫んでしまってる気がして、おそらくそれがない分、手際がいいとは思えないが、ほのぼのと準備がすすんでいたのであった。
ただ叫ばなくてもいいけど、顧問の先生はやはり見てるべきではなかったか。
万が一生徒さんが怪我でもしたらどうするのだろうと心配したが、公立の先生には、そのへんに全く無頓着な方がいらっしゃることは重々承知しているので、そういう方なんだと思うばかりである。ある意味うらやましい。
少し経ってから春日部女子高校さんの基礎合奏を聴く。
今年A部門に出場すると聞いたから、直接のライバルとなるのだ。
どのパートも充実した人数がいて、うらやましい。基本的に2・3年生の演奏なので安定した音がする。
ここに1年生50名弱が加わるのだ。多くの3年生が引退するとはいえ、A部門に出場するのは必然だろう。
そのまま3部のリハーサルを見学させてもらったあと、本校のリハとなる。
春日部女子さんを聴いたのと同じ客席位置で、基礎合奏の音を来く。
「やべ音ちいさい」となることを心配してたが、杞憂だった。
今日は調子いいかもとも思った。けっこうチューニングもあっている。おれがああだこうだ言わないほうが、いいのかもしれない。
ただ音はそれなりに出ているが、あらっぽい。
ルパンなどはなんとなく吹けるから余裕をみせてしまって、ばらばらだ。
そのへんを注意したせいか、本番ではけっこう修正してくれていた。
結果としては、春日部女子「外部コーチ」S先生にもほめてもらえるぐらいの演奏になった。
本来なら、3月末の演奏会で3学年で演奏する予定だった曲だ。
それを2・3年、つまり3月時点の1・2年で形にできたのがよかった。
春休みにじゅうぶん練習できなかった分が、本番を設定できたおけげでかなり取り返せた。
春日部女子高校さん、ありがとうございました。
卒業していった部員の保護者の方から、いい雰囲気の部活でよかったとのお言葉を先日いただいた。
ありがたいことだ。
雰囲気というのは、部員がつくる部分が大きい。
「飲食店の雰囲気をつくるのはお客さん」という話を聞いたことがある。
経営者がどんなお店を作ろうとしてるのかが大事なことは言うまでもない。
鍛えられたスタッフも当然必要だ。
ただし、ふらっと入った時のお店の雰囲気は、そのときお店にいるお客さんが支配しているのもたしかだ。
どんなにいいお店でも、ぶっちゃけ変なお客が一人いたら台無しになるから。
やたら声の大きい、いばってる系の人とか。
おかげさまで、31名の新入部員を迎えての練習を始められているのは、先輩達のつくりだす雰囲気がなんとなくいいものだったからにちがいない。
それは作ろうとして作れるものでもない。
ありがたいことだ。
ただ、男子80数名で腹筋とかやりはじめると、一気に汗の香りがただよいます。
節電の夏がちょっと怖い … 。
東京下町の、ある都立高校。
生徒数の減少が原因だと思うが、学校の存続が危ぶまれている。
服飾コースみたいなのが存在する学校という設定なのだろうか。
現役のモデルさんが在籍するクラスに、天才的なデザインの才能をもつ男子生徒が転校してくる。
なまえは美糸と書いて「びーと」。転校生が「ビートとよんでください!」と言った瞬間に、ふつうは教室中引いてしまうだろうが、なにしろイケメンだから。
で、ビートの才能がすぐに明らかになり、現役モデルのミキもいることだし、文化祭のクラス出し物は「ファッションショーをやろう」ということにすぐ決まる。
このモデルさん役が桐谷美玲ちゃんというのは、そのまますぎてちょっとずるい。
でも、自分の原作の映像化に美玲ちゃんクラスのまじモデルさんがキャスティングされるなんて、原作の原田マハさんは喜んだだろうな。
みんなで盛り上がって準備していると、学校の廃校が決まってしまう。
ミキの属するプロダクションが、ビートのデザインをミキデザインとして勝手に売り出してしまう。
なんてことがあって、文化祭はその出し物が中止になる。
しかし、やっぱ自分たちのやりたいことを実現したいと願うメンバーが立ち上がって、協力者も得ながら、学校の校庭にランウェイ(ファッションショーのあの花道みたいな所を、そう言うんですね)をつくって、ファッションショーを実現するというお話。
つっこみどころは満載です。
在学している生徒を卒業させない形の廃校が、年度の途中に決まることはまずない。
ショーをやり直そうとして押さえた会場が、プロダクションの圧力で借りられなくなることも普通はない。
ジャニーズ事務所さんクラスならひょっとして可能かもしれないけど。
ていうか、最初から学校でやろうって言えばよかったのだ。
そしてメインのファッションショーの場面。
地元の商店街の人々に手伝ってもらって手作りの舞台をつくったという設定だ。
ショーが始まる。
校舎を全部つかった照明、巨大な音響設備。
いったいどんだけお金かかってるの。
一気に手作り感なくなるでしょ。
でも、興ざめではない。
そんな設定おかしいだろと思いながら、音楽が流れて美玲ちゃんが歩いてくると、ドキドキする。
クラスの高校生、ワルたちの団結も、超まじめキャラの女の子が変身するところも、ものすごくかっこいい。
このイベントにいたるまでに若者たちの紆余曲折も楽しい。
何十年前の自分も同じだったなあと思えたから。
ショーを成功させて歓声をあげる若者たちを見ながら、ああ、俺らも昔ああやって遊ばせてもらったと思い出す。
昔は気づかなかったけど、大人の人があれこれと土俵をつくってくれて、その中で十分に遊ばせてもらった。
時に悩み、苦しみ、ぶつかり、でもそれを乗り越えて、一つのことをやりとげる、そんな経験をさせてもらった。
部活も行事も、もちろん勉強も同じだ。
若者たちに、こうやって思い切りやってもらう場をつくってあげるのが、大人の仕事だ。
できることなら、みんなにこんな思いをさせてあげたいものだ。やっぱ子供は国の宝だから。
昔の大人がそうであったように、それを恩に着せたりしなくていい。
昔の若者がそうであったように、若者はそんなことに気づかないという独尊ぶりをもってればいい。
昨夜、国語科の呑み会があった。
場所は新河岸の居酒屋市場さんという、帰り道にいつも前を通っていながら入ったことのないお店。
以前お肉屋さんだったときは、たまに利用していたのだが。
コースの料理は、最初にお刺身と鶏南蛮、サラダがあって、もつ煮込み、串カツ、焼き鳥と続く。後半に豚肉の辛みそ炒め、味ご飯のおにぎり、お新香。メニューの羅列だけだと普通かもしれないが、どれも安定していて、串カツにちょっと添えられているポテトサラダが実においしかったりする。もつ煮込みは汁まで呑んでしまった。
といっても、えらそうなおいしさではなく、家庭料理的な、ふつうに楽しく呑んで会話するのをじゃましなくて、でも途中で「この炒めもん、しろ飯ほしいね」ぐらいの話題になる程度のほどよさなのだ。
みんなが声も失うほどのおいしさとか手のこんだ肴とかは、宴会には不向きだ。
チャリ通にもどして帰りがけにちょっと寄っていきたくなった。
一人でも来てみたい雰囲気だったから。あ、何より安かった。
幹事、ナイス!
自分が幹事でこの店をセッティングできたら、ちょっとガッツポーズかなと思う。
突然一般化するけど、人間は粗くいって「幹事をやる人間」と「幹事をやらない人間」の二種類に分けられる。
おおげさだが、幹事経験のあるなしは、その後の人生を一変させる。
「この人は幹事やったことない人だな」と思われる人は大人にもいて、どういう現象になって現れるかというと、幹事にケチをつける。
「なんだよ、この店高いじゃないか」とか、「もっと駅の近くにしてよ」とか。
文句ならまだしも、平気でドタキャンしたり、会費をはらい忘れたりする。
幹事を一度でも経験すると、その苦労に気がつくので文句を言わなくなる。
何に対しても文句を言う人というのは、幹事経験のない人だ。
たとえば学校にあれこれ言ってくる方も、同じじゃないだろうか。
世間で、なんだかんだ文句ばっかり言っている人というのも。
専業主婦の方だと、そういう機会に恵まれないかもしれないが、たとえば学校のPTAの役員を引き受けることは、それに近いものではないだろうか。
部活も同じか。
部長や副部長、キャプテンや主将、マネージャーさんもそうかな。
幹事的な働きを求められる人は、いろんな方面に気を遣いながら、そのわりにはほめられたりすることも少ない、ある意味損な役回りと言える。
そういう役でない側の人は、きっといろいろと文句を言うだろうし、文句を言わなくても何も考えてなかったりするし。
経験している最中はいろいろ面倒で、いやな思いも時にはするが、しないよりはした方が絶対いい。
間違いなくその分だけは成長するから。
昨夜のあんかけ焼きそばの具を少し残しておいて春巻きの皮につつむ。
3年保護者の方々との懇親会で食した、ハムとチーズとお餅の入った春巻きがおしかったので、ハムとチーズを包んでそれも揚げてみた。
焼きたらことジャガイモをあえたもの、卵焼き、ほうれん草のおひたし。
この3品が並ぶと彩りがいい。これが今日のお弁当。
しかし、久しぶりの授業で、4コマあり、どれも予習が万全とは言い難かったので、空き時間、休み時間も予習し続け、落ち着いて食べられなかったのは少し残念だ。
授業のあと、ぐったりきたので、「進路」のプリントに求められた原稿は、昔書いたのを手直しして載せてもらうことにした。
まだ今週は先が長いし。
「進路」3年1号の原稿
センター試験を迎えるころ、一般入試のころ、そして卒業式の時期にもなると、ずいぶん顔がしまってきたなあと感じる生徒を見かけるようになるものだ。
一方で、幼い顔立ちのまま卒業していったなあ、と思う生徒さんも正直言えばいる。
もちろんそれらは主観的な判断にすぎないが、内面の変化や経験の質によって顔つきが微妙に変化するのは間違いないと思う。
大人も同じだ。
高い学識をもっていそうな方だとか、苦労を乗り越えられた方だとか、なんとなく見た目で伝わってくる方はいるし、もちろん逆の例もある。
わかりやすいのは、部活の最後の試合で、たとえ負けたにしてもやりきったという顔をしていた先輩の姿を思い描くといい。
物理的にイケメンではなくても、なんかかっこいい先輩っていなかったか。
顔は変わる。
内面の変化、そしてそれを生み出す経験の積み重ねによって、顔はつくられていく。
ではいい顔になるにはどうしたらいいか。
何事にもあきらめない姿勢を持つことではないだろうか。
「いざとなったら逃げる人」というのは、やはり顔に出てしまうと思われる。
そういえば、社会的地位が高いにもかかわらず、いざとなったら逃げる人、自分のせいではないとだけ言いたがる人を、最近はよく見かけるような気がする。
渡部昇一氏はこう述べている。
~ 私たちはなんらかの壁にぶつかると、それが自分の手に負えそうもないとき、たちまち無条件降伏し、やりたいことを「諦める理由」を探し始めるものである。「諦める理由」を探す情熱をやりたいことに注げばどんなに人生は好転していくかと私は考えるのであるが、とかく人は「できない理由」をつけて挑戦することをやめるのである。べつにこの程度でいいやと変に納得してしまう。あとは何とも煮え切らない人生が待っているだけであるというのに。
どんな仕事、職業であれ、一流の域に達した「品格ある人」に共通しているのは、少々困難であっても、簡単には投げ出さないことである。
「できない理由」など探し始めたらきりがない。そこをグッと押さえて、やるための意義を見つけていくことが人生の醍醐味なのである。
品格は形に現れる。「四十過ぎたら自分の顔に責任を持て」とは、リンカーンの言葉だが、まさにこのこと。諦めず、いかなる心構えで毎日を過ごすか。そして自分のやりたいことを突き詰め、それを「一芸に秀でる」レベルまで押し上げると、具体的に「品格ある」顔立ちになっていく。
今はちょっと難しく、すぐに実現できずとも、「いつか必ず自分にはやれる」という気持ちを持って、「やるための理由」を掲げて努力を絶やさず、それがいつしか品格となって顔に現れたような人には、必ず天の一角から、“助けのロープ”が下りてくるものである。(渡部昇一『自分の品格』三笠書房) ~
精一杯やったのだからこんなものでいいかなと納得する前に、ほんとうにそれが自分の精一杯なのかを立ち止まってみるといい。
人は、身体的限界の少し手前で精神的限界を感じるように設定されている。
このへんかなというレベルの先に、もうひとふんばりは出来るようになっているのだ。
この時期は、部活と勉強の両立に悩み始めたり、目標を下げようかなと考え始めたりする人が増える。
しかし、本当に一杯一杯でどうしようもないくらいにやっている人と言える人は、はっきり言って、今の3年にはそんなにはいないと思う。
みなさんはまだまだやれる。やらねばならぬ。
数ヶ月後、勝負焼けしたいい顔で卒業していこうではないか。