水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

とってもゴースト

2012年11月30日 | 日々のあれこれ

 明日も自分が絶対に存在すると言える人は誰もいない。
 明日と言わず、1時間後、数秒後であっても、消滅してしまうことさえある。
 だとしたら、今生きているこの瞬間をもっと愛おしみ、大切に生きるしかない … なんてね。
 みんな、理屈はわかっているのだ。
 それでも、うだぁっとしたり、ぼぉっとしたり、とげとげしたり、さぼったり、ぐずったり、むかついたり、おぼれたりしてしまう。それが、人間だ。
 だから、そういう自分であることを受け入れて、かっこつけすぎず、無理しすぎずに、生きていること自体を忘れずにいればいい。
 ただ、できるならば、人を愛した記憶だけはからだにやきつけられたなら、それこそが生きた証と言えるかもしれない。
 音楽座ミュージカル「とってもゴースト」は、そんなこと考えさせられた。

 事故や事件や病気やいろんな事情で、幼くして生をとじることを余儀なくされた子の存在を知るときがある。
 あんなに小さいのに、あんなに若いのにと心がいたむのはなぜか。
 この世に生をうけて、たくさんの人に愛されて、かりに短い生涯であったにしても、そのこと自体はすばらしいことだ。
 しかし、幼い子であれば、人に愛されてはいても、おそらく誰かを愛する経験をしないまま旅立ったということが多いだろう。それを思うとせつない。
 誰かを愛することなんて、時には苦しさの方がまさることもあるのに、人が人としての存在を賭けてまでのめり込んでしまうこともあるほどの感情だ。
 だから、それこそが生きた証だ。
 突然死が訪れゴーストになってしまった入江ユキさんが、自分の死を受け入れられないのは、自分ではやり残した仕事のせいだと思っている。
 でも、無意識のうちに彼女が求めていたのは、人を愛した経験だった。
 そして、神様のはからいで、完全の消え去る前に人を愛する経験をさせてもらうことで、はじめて旅立っていける。

 逃げながら、後悔しながらこの世を去るくらいなら、せめて悔し泣きしながら逝きたい。
 失敗がなんだ。失敗することは生きていることとほぼ同義じゃないか。
 もちろん笑えてたら最高だけどね。
 いつ死んでもいいように生きるなんて大それた生き方はできないけど、せめて好きな人には好きといっておきたい。
 自分を支えてくれている人には、いいそびれないうちに、時々ありがとうと言っておきたい。
 そうだ、このブログをいま読んでくださっているみなさまに、キムタツ先生が毎日書いてらっしゃるように感謝の意を表しておきます。
 今日も読んでくださってありがとうございます。
 コメントまで下さったみなさまありがとうございます。
 ときどき意味がわかりにくいこともありますが(一言よけいやちゅうねん)。
 ありがたく、明日もパソコンにむかえれば、足跡をのこしたいと思います。
 今日も一日生きた、いや生きながらえさせていただいた、その感謝の思いで書きます。
 明日の夕方、「とってもゴースト」を味わってきます。
 あなたに素敵な明日が訪れることを。
 メリークリスマス(はやいやろ!)
 ハバグッデイ!

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11月29日

2012年11月29日 | 学年だよりなど

 学年だより「期待」

 先生に勉強のやり方を聞く、受験雑誌を読む、進路講演会を聞く、先輩の合格体験談を聞く … 。
 どんなふうに勉強をすべきか、どれくらいやるべきかなど、勉強のやり方についての情報はちまたにあふれている。
 大人の世界に目を向けてみると、「受験勉強本」以上に、「成功本」があふれている。
 これまでに出版されたそれを累計してみれば、日本人の人口の何倍もの数になるだろう。
 しかし、大成功を収めている人、億万長者になった人は、そんなにはいない。
 『偏差値30から東大に入る方法』なんて本も、出版され近場の本屋に並んでいるものは、何千部か、それ以上は刷られている。
 そういう本を読んだ人は、必ず成功して素晴らしい結果を手にしているだろうか。
 そういう人もいるだろう。しかし、みんなも予想がつくと思うけど、ほとんどの人は成功しない。
 何が悪いのか。本の内容が悪いのか。いや、そんなことはない。
 まがりなりにも出版され流通している本は、少なくともネット上で「あなただけに教えます、すごい方法、今から三日間だけ12800円(本来は12万円分)」というPDFよりはちゃんとしている。
 「勉強本」「成功本」を手にした人の多くは、「よし、がんばろう、やれそうな気がしてきた。こんどこそ変われる気がする」という気分になるのだ。
 本に書いてる方法のすべてを否定するような人はいない。
 すべてを信じるまではいかないにしても、いくつかの方法を試してみようとする。
 ノートや手帳を買ってみたり、目標を貼りだしてみたり、早起きしはじめたり、トイレそうじしてみたり。
 そして、成績がみるみる上がっていく自分、仕事で大成功を収める自分を想像し、うっとりする。
 ガネーシャ様は、こう言う(突然すぎますね。ガネーシャとはヒンドゥ教の神様で、人間のからだにゾウの頭をもち、商業や学問を司る神です)。


 ~ 「自分、この本最初に読んだ時、今と同じように興奮してたんやで。変われると思って自信持っとった。なんでか分かるか?」
「それは … なぜですか?」
「それはな、本に期待してたんや。『この本なら僕を変えてくれる』そう思うとった。だから興奮してたんやな。今の自分もそれと同じなんや。自分はワシに期待しとる。『この神様なら僕を変えてくれる、どこか今までとは違う場所に連れてってくれる』ってな。せやろ?」
  … ガネーシャはゆっくりと口を動かした。思い言葉だった。
「けどなぁ … 期待してるかぎり、現実を変える力は持てへんのやで」(水野敬也『夢をかなえるゾウ』飛鳥新社) ~


 主人公の「僕」は、それなりの会社に勤めてはいるものの、与えられた仕事をただこなしているだけ、いま一つ充実感のない日々を過ごしていた。でも、いつか自分もひとかどの人間になりたい成功を収めたいと漠然と思い、時々そういう本を読んだりしていた。
 「おまえなぁ、そのままやと2000%成功せえへんで」と突然現れたのが、ガネーシャだった。

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愛の山田うどん

2012年11月28日 | おすすめの本・CD

 やっぱりプロのライターさんはすごい。
 えのきどいちろう・北尾トロ両氏の『愛の山田うどん』を読んで、そう思った。
 今、現代文で「世界中がハンバーガー」という多木浩二氏の評論を読んでいる。
 世界中に広がるハンバーガーショップは、食事の形態が変わっていったことばかりか、人と人とのつながりが変化してきたことを表すと氏は述べる。
 「目の前の現象には、どのような本質がかくされているのか」をつかむという、現代文の基本的な勉強に手頃な文章だ。
 一昔前、共産圏にはじめてマックができたときの狂騒は、人々がその味を求めたのではなく、自由主義圏への憧憬だったのだという文章もある。
 その現象の本質は何か。
 埼玉に「山田うどん」があるのはなぜか。埼玉を中心に、関東一円に広がっているのはどういうことを表しているのか。そのくせ都心に存在しないのはなぜか。山田うどんに象徴される「埼玉性」とはいかなるものか。
 

 ~ 山田うどんチェーンが平準化し、一般化した埼玉は、その方向性において最終的に埼玉である必要がなくなったのかもしれない。関東全域が一種の「埼玉性」を持った。だから関東全域のロードサイドには山田うどんがある。いや、山田うどんを主語にし同じことを言い直そう。山田うどんが関東全域を埼玉化してみせたのだ。山田うどんがある場所はどこか埼玉だ。(『愛の山田うどん』) ~


 「浦和は田舎と家内は笑う(うらわはいなかとかないはわらう)」という有名な回文がある。
 こちらに来る前、つまり埼玉も群馬も区別がつかなかった頃、将来埼玉県民になるなどと想像もしなかった頃、「さいたまんぞう」さんという芸人さんの歌う「なぜか埼玉」をラジオで聞いたことがあって、とくに何の印象も持たなかったが、ま、埼玉ってすごい田舎なんだろなと思っていた。
 落語の本を読んでても、王子やら赤羽やらがとんでもない田舎扱いされてたから、川越東高校に面接にくるとき、友人には「東京の方に仕事がみつかるかもしれない」と話して出てきた。
 はたして、田舎だった。
 面接に訪れた日、夜行列車を大宮でおり、川越線に乗り換えたら単線で(今もだけど)、南古谷に降り立ったときの呆然とした感じは今も思い出す。
 そして南古谷駅前に山田うどんがあった(ありましたよね? Kittyさま)。
 当時、はっきりいって、おいしいとは思わなかった。
 今おいしく感じるのはなぜか。舌が変わったのか。それもある。
 『愛の山田うどん』を読んでわかるのは、1980年代以降、ファミレスチェーンが急展開していくなかで、山田うどんも、ロードサイド展開していったということ。
 セントラルキッチンをつくって味を管理し、店舗を拡大していったことだ。
 そのせいで、駅前店はなくなり、少し離れたところに木野目店がつくられたのだろう。
 80年代後半から埼玉に移り住んだ自分は、まさにこの変遷の時代を生きてきた。
「浦和は田舎」と昔笑った家内も、今レッズの勝敗が気になってしかたない。
 1990年代に誕生したJリーグが首都圏にもたらしたのは、「ベッドタウン解放闘争」だと、えのきど氏は述べる。
 浦和、大宮、川崎、柏、いずれも都内に通勤する人たちが多く住むベッドタウンだが、それゆえに地元意識の希薄な住民の多い街でもある。
 お父さんが寝に帰るだけだった街が、Jリーグのチームのおかげで「おらが街」になったという。
 山田うどんは、レッズやフロンターレのスポンサーの一つでもあるそうだが、東京近郊の都市がその存在意味を変えていったことを、山田うどんが象徴する。
 山田うどんは、あらたな埼玉をつくった。田舎を郊外にかえたのだ。
 えのきど・北尾両氏のこの御本は、ここ数十年の東京近郊の変化をみごとに論じきっている。
 再来年あたり、現代文の教科書に載ってても何の違和感もないだろう。

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北のカナリアたち

2012年11月27日 | 演奏会・映画など

 俳優陣は「エクスペンダブルズ」よりすごい。
 自分的な彼らの代表作もあわせていえば、「苦役列車」の森山未來、「接吻」の小池栄子、「阪急電車」の勝地亮、「NANA」の宮崎あおい、「川の中からこんにちは」の満島ひかり、「探偵はバーにいる」の松田龍平。
 小池栄子さん、満島ひかりさんは、生の舞台でもそのフィジカルのすごさを体験している。
 役者フィジカルの高いこの面々は、だいたいこういう仕事ねという枠を示せば、それで十分な人たちのような気がする。そして主演の吉永小百合さんは、逆に監督さんが細かく積み上げていくべき女優さんではないだろうか。
 ただ、これほどの女優さんになると、ダメだしなんてできるのだろうか。
 監督さんによるかな。
 日ハムの栗山監督は、現場での指導経験をまったくもたないまま監督に就任した。現役時代の選手としての成績も飛び抜けたものではない。プライドの高い一匹狼の集団であるプロの選手たちが、ちゃんと従うのか、やはり無理ではないかと危惧した人は多かった。内心ほくそ笑んでいた人もいたことだろう。
 それでも一年できっちりと結果を残した。指導に理があり、言葉に情があふれている人柄ならば、選手はついてくるのだというお手本かもしれない。選手にこびることも、無用にいばることもなく、まっすぐに自分をぶつけた結果が受け入れられたのだろうと想像する。
 映画の監督さんも、こんなシーンをとりたい、こんな作品をつくりたい、だから役者さんにこう動いてほしいという強い思いがあれば、大御所的な役者さんでもきっと応えてくれるにちがいない。
 だから、「北のカナリアたち」は、いい作品だったと思うけど、もっとつめられたとも思える。
 それに木村大作さんの映像、川井郁子さんのバイオリンは、自分には重すぎた。主張が強すぎた。
 そこに立ってるだけで気持ちを伝えられる役者を集めているのだから、そのままでいいのに。
 おいしいお肉は、あっさりしたソースで、いや塩だけでも十分なのに、こってりしたなんとかソースなんとか風にしてしまって、素材の味が薄れ、一番表現したいのがなんなのかがうすまっていた。
 実に豪華だけど、逆にもったいない作品だという印象を受けた。個人的には、先生役は原田美枝子さんだと思った。

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週末

2012年11月26日 | 日々のあれこれ

昨日は、音楽座ミュージカルを観劇し、そのあと演奏してきました。会場で応援いただいた保護者のみなさま、こころよくチケット代をご負担いただいた皆様、ありがとうございました。

 濃ゆ~い週末だった。
 土曜は、学校説明会。個別相談のときのこと、だいたい相談し終えたあとに、「あの吹奏楽の先生ですよね」と言われる。「はい、そうです」「実は先生のブログを拝見させていただいてます」「え、どういうご縁で?」「兄がおりまして、○○高校で吹奏楽をやってたんですが、そのときたまたま読む機会がありまして」「そうですか、ありがとうございます」「それでこの学校の存在を知って、受験校の一つに考えさせてもらいました」
 ありがたいことである。気ままに書かせていただいているこの場が、生徒募集にも役立っているなんて。
 カツカレー愛やら、女装の決意やら書いてる場合ではない。もっと格式高い論考を載せていかねばと思った。
 個別相談を終えて、大講堂に向かうと、音楽座さんステージで発表するメドレーの通しが始まっている。
 だいたい大丈夫かなと思った。あとは元気よくやるだけだ。楽器をトラックに積み込んで練習を終えた。
 打楽器の件や、搬入だんどりの件で担当の方からお電話をいただき、セッティング表を書いたりする。さあ、帰ろうかと思ったら、某TSAXの○○君から、親用チケットを置き忘れたので探してもってきてほしいとの電話が入るので探しにいく。
 明日にそなえて早く寝ようと思ってたが、帰宅すると、そうだった田舎からカニが届く日だった。
 カニさんを解体し、みそを食べやすくし、足から身をほぐしていくと、妻子がどんどん召し上がってくれるので、けっきょく自分は解体の合間に飲んでるだけで、相当時間が経過しても、おなかがくちくならないが、寝る前の過度の飲食はいけないと自制した。
 日曜。8時半過ぎに銀座につくと、ジャイアンツ優勝パレードにそなえて、ものものしい警戒態勢が整えられつつあった。さすがにまだ部員の姿は見えないなと思い、近くのドトールでモーニングセット(380円)をいただいていると、担当の北村さんから「今日はよろしくお願いします」とメールをいただいたので、こちらこそよろしくお願いします(ハート)で返信する。
 集合時間が近づいたので会場前に向かうと、出演する各高校の生徒さんがずいぶん集まっていた。
 うちの部員の姿もいるが、なんで君たちジャイアンツの旗もらってるの。
 北村さんと共に井田安寿さんが、いっしょに川越東を担当しますとおいでになる。うそみたい。
 役者さんが無線で連絡をとりながら、次は川越東さん搬入です、客席に行きますから着いてきて、ここに荷物おいて、いったんロビーに行きますと、何から何まで面倒見てくださるので、顧問の仕事は皆無にひとしかった。
 参加高校生が全員客席に顔をそろえたあと、みんなでロビーに出て簡単なワークショップ。そして再度客席に戻ってリハーサルの見学。
 まさか、ここまで盛りだくさんの一日を過ごさせてもらえるとは考えてなかった。
 普通に一回上演するだけでもおそらく大変なのに、まして踊りっぱなし、歌い放しのステージなのに、そのうえ一日高校生を面倒みようとまで思う彼らのパワーはどこから湧いてくるのかとか、素直に感心した。
 昼休憩に、なかじま先生、武蔵越生のすがの先生と、どこかでお昼とりましょうか、近くでいいですよね、と入ったのが、会場のすぐ前のあった「ボエム」さん。存在は知ってたが、入るのは初めてだ。
 ランチのパスタは、スープ、サラダ、飲み物がついて1480円。おいしかった。もういい歳なんだから、山田うどんばかりではなく、せめてボエムぐらいふつうに行くようにしようかと思った。
 開演が近づく。からだをこわして練習にこれてなかったMくんも、見に来れてよかった。チケットをわたし、安心して席につくと、開演のチャイムがなる。
 音楽がはじまる。ああ、来て良かったと思う。
 ふだんなら、そのまま身をゆだねていればいいのだが、観劇後に自分の本番があるということが、途中からプレッシャーになってきたのも事実だ。
 なので、いつもほど没頭してなかったのかもしれない、あれサビの音程が少し低いかもとか、ハモりのバランスがリハでも指摘されてたけどまだ少しよくないかもとか、ふだん思いもしないことを思った。脚本ももう少し説明してもいいんじゃないかなと思える部分もあった。
 週末、もういっかい一人で来るときは、どっぷりひたろうと思う。
 さて、お芝居が終わる。高校生たちが準備する。
 武蔵越生さんが、さすがのパフォーマンスをする。3年生まで参加しての85名のステージだ。ディズニーランドに五年出続けているというそれは、一つ一つの動きが実に勉強になる。サウンドもちょっとかなわない感じだが、うちには秘策もある。その秘策は見事にはまり、メドレー全体の構成感も悪くなかったなと自分では思えた。
 片付けをして、現地解散。いい経験をさせてもらえた。
 部員一人一人、楽しみ方や感じ方はいろいろだったと思うが、体験しなければわからないことがある。
 こんな表現形態があるということを知るだけでも、なんらかの財産になるはずだ。
 その結果すぐに楽器がうまくなるとか、偏差値あがるとかではもちろんないが、人としての器をちょっと広げることに後々つながっていくことになるとは思うのだ。
 もちろん当事者にはそんな実感はないだろうけど、そういう場を用意してあげることが大人の仕事かなとも思う。
 無事終了し、池袋の「ふくろ」に移動して、なかじま先生と一献傾け、こい週末を終えた。

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11月26日

2012年11月26日 | 学年だよりなど

 学年だより「新幹線劇場2」
 
 世界的に注目をあびる「テッセイ(鉄道整備株式会社)」も、最初からそうだったわけではない。
 JR東日本に安全システムの専門家として勤務していた矢部さんが、テッセイに着任したのが7年前の夏だった。正直気の進まない異動だったが、「どうせ行くなら、いい会社にしたい!」と気持ちを切り替えて現場を回り始めた。
 スタッフはみなまじめに働いている。与えられた仕事はきちんとこなしている。
 逆に言うと、与えられたこと以外はやろうとしないし、「しょせん清掃員」という意識が蔓延しているように、矢部さんの目にはうつったという。
 ほとんどパートの職員が車内清掃だけを行う会社ではなく、お客さまのためにやれる様々なことをプロデュースする「トータルサービス」の考えを導入したいと矢部さんは考えた。
 そのためには社員の意識をかえる必要がある。組織を簡略化する一方で、研修ひとつにもイベント性をもたせる。一流ホテルの会議室を使っての研修を行ったり、勤務中の待機所を整備したりし、「しょせん清掃員」という意識を徐々にかえていこうとした。
 またテッセイは、入社時は全員がパート職員として採用され、働きぶりによって正社員になっていくという雇用形態をとっていた。しかし、実際には長く勤めた人が順番に正社員になり、40歳後半ではじめて正社員に推薦される状態だった。これではほとんどの若い人が長く働こうとしない。
 これを、パートとして一年働いたのちは、年齢に関係なく正社員の試験を受けられるシステムににし、やる気のある若い人が会社に残るようになっていった。
 入線してくる新幹線に並んで一礼する  これは、規則としてはもともと存在する、安全上の理由で設けられたマナーだ。しかし、形だけの実施になっていたし、実際に接触事故もおこっていた。
 どうせやるなら、みんなでちゃんとやろうという声が、現場の方からあがるようになってきた。
 環境が整えられ、気持ちが変わり、ユニフォームも新しくなる状況におかれると、自然と前向きなアイディアもうまれてくるのだ。
 どうせなら、掃除の後も並んで一礼しよう、それは列車にではなく、待ってくださったお客さんに向かってしようということなった。
 こうして、「礼儀もハンパない」とつぶやかれるようなチームがうまれていく。
 お客さんの感謝や賞賛がまた、彼らを成長させていくという良循環がうまれていったのだ。


 ~ テッセイという会社の輝きを根っこで支えているのは、「リスペクト」と「プライド」です。
 テッセイでは、矢部さんや柿崎さんをはじめとする経営陣、管理職たちの、現場をリスペクトする心、気持ちが、現場に伝わり、浸透しています。「現場こそが主役であり、価値を生み出す源泉だ」と信じ、尊重する姿勢がなければ、現場の輝きなど生まれようもありません。 … リスペクトを感じた現場は、実行主体としてのプライドをもち、意欲的に仕事に取り組み始めます。さらに、テッセイの場合、現場の頑張りをお客さまたちがとても高く評価しています。(遠藤巧『新幹線 お掃除の天使たち』あさ出版) ~


 何をして働くかではなく、どうプライドをもって働けるか。それこそが仕事のやりがいだ。

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異類憑依

2012年11月24日 | 日々のあれこれ

 オネエ系とよばれるタレントさんと言えば、昔はおすぎさん、ピーコさんしか記憶がないが、他にもいらっしゃっただろうか。今はほんとにたくさんいる。とくにマツコデラックスさんは出ずっぱりで、自分も「怒り心党」はかかさず見ている。明日の踊りのためにスカートをはいてみて、この格好でいろいろ語ると、尾木先生みたくなれるかなとちょっと思った。
 オネエ系の方がこんなに人気を博すのはなぜか。

 内田樹先生がこんなことを書かれている。


 ~ 異類憑依は文学の基本技法の一つである。作家自身と人種、言語、性別、習俗、価値観、美意識の異なる語り手を造形し、その語り手の言葉を通じて、作者自身とその読者たちを共に軛しているエゴサントリックな臆断を戯画化するという批判の技である。(内田樹『昭和のエートス』) ~


 ちなみに「共に軛(やく)している」は「つながってて離れがたい」、「エゴサントリックな臆断」は「自己中心的なきめつけ」ぐらいの意味です。
 たとえば太宰治が、女学生を一人称の語り手にした小説『女生徒』や、目の見えない人が書いたという設定の『盲人独笑』を書いた。
 そういう語り手をおくことで、作者と読者の間にある「当然の前提」やら「普通の感覚」やらの無根拠さやあやしさが自然とたちあがってくると、内田先生は言っている(んじゃないかな)。

 オネエ系のタレントさんの語ることばには、これと同じ機能があるんじゃないかなと思って。
 男が男言葉ではなく、あえてオネエ言葉で語ることによって、言いにくいこともずばっと言えてしまう。
 男が男のまま普通に語るとバッシングを受けてしまうようなことも、すうっと受け入れてもらえる。
 石原慎太郎氏のセリフはその9割がむかつく人も多いが、同じことをマツコさんが言うなら、「そう、そう、そうなのよぉ」と頷いてしまうのではないだろうか。
 だから女性で男言葉を駆使するタレントさんがいないのは、男社会の論理が世の中のとりあえずの前提になっている証左とも言える。
 そして、「異類」しか本音を語りにくい世の中というのは、いかにも不健全だと思うのだ(スカート一回はいただけでここまで考察してしまうボクちゃんってエライかも)。

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転機

2012年11月23日 | 日々のあれこれ

~ 顔とか、運動神経とか、センスとか、才能とか、そういうので負けるのはいい。
  それは、自分で選べるものじゃないから。
  でも、
  行動は、
  行動することだけは、
  決して、誰にも負けてはならない。
  なぜなら、
  それを「する」か「しない」かは、
  自分で選べるのだから。

  震えが止まらない足は  震えたままでいい。
 
  一歩、前へ。 (水野敬也『「美女と野獣」の野獣になる方法』文春文庫)


 行動しようと思った。
 ありとあらゆる方法をやりきった人は、いないという。
 なぜなら、やりきる前に成功してしまうから。
 ただし普通の人は、数個ためしただけであきらめてしまう。
 思いついたことをどんどん実行すればいい。
 ただし、生徒にやらせているばかりではだめだ。
 顧問自身も、今日は昨日とはちがった自分のなっていなければ。
 やったことがないからとか、歳だからとか言い訳しないように。
 だから、自分もAKBをおどってみることにした。
 習ってみて、おどろいた。
 同じパーツの繰り返しがない。
 わずか16小節分でさえ、覚えられない。
 星華祭前に、1年みんなで練習してたとき、○○、おぼえるのおせえよ! って言ってた自分を思い出して恥じた。
 おまえは、どうなんだ。
 えらそうに言えるのか。
 だいたい、できたというレベルでは、本番一回でかならずしくじるのだ。
 頭で踊るのではなく、自然にからだが動く状態まで、きちんとさらえ。
 やるなら、ちゃんとやれ!
 普段言っていることが自分につきつけられる。
 あさって演奏する曲はすでに暗譜しているが、わずかな踊りが … 。
 やりきれれば、自分の転機になる。
 一歩、前へ。

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11月22日

2012年11月22日 | 学年だよりなど

 学年だより「新幹線劇場」

 「清掃員の早技スゴすぎ!」「新幹線の清掃隊かっけー!」「手際がいいだけでなく、礼儀もハンパない。マジ神」新幹線の清掃チームの話題が、数多くのツイッターでつぶやかれている。
 とくに、JR東日本グループの鉄道整備株式会社、通称「テッセイ」の仕事ぶりは、海外からわざわざ見学に訪れる人がいるという。
 東京駅上越新幹線、東北新幹線のホームには、入線してきた新幹線が12分停車する。
 乗客が降りるのに2分、乗車に3分必要なため、車内清掃にかけられる時間は7分だ。
 この7分をつかって、22人一組の清掃チームが、座席の向きをかえ、ゴミを集め、カバーをかえ、すべてのテーブルを拭きとるといった仕事をする。
 原則一人一両、数人はトイレを担当する。当然だが、一瞬の手抜かりも許されない。
 清掃チームは、担当の列車が入線する3分前になると、ホーム際の一列に整列し、列車が入ってくると、並んだまま深々とおじぎをする。
 これは礼を尽くすとともに、高速で入線してくる車両への接触を予防する意味もあるという。
 降りてくるお客さんに対し「お疲れ様でした」という声かけもおこたらない。
 最後のお客さんが降りると同時に車内に乗り込むと、上記の仕事にてきぱきととりかかる。
 その見事な手際を、「7分間の新幹線劇場」とよぶ人もいる。
 清掃が終わり、ホームに降りると、乗車を待っていたお客様の方に向かって整列し、「お待たせいたしました」と、深々と頭を下げる。外国の団体さんが思わず拍手を送ることもあるそうだ。
 「自分のやりたいことは何か」「将来やりたい仕事は何だろうか」
 文系・理系の選択にかかわり、そんなことを考えてみた人もいるだろう。
 そういう過程のなかで、「清掃会社」に勤めるという選択肢を想定してみた人はいるだろうか。
 おそらく、いないんじゃないかな。
 では、テッセイでの仕事は、みなさんが目標にするに足りない仕事だろうか。
 そうは思えない。はたから見てて、プロの手際よさや、礼儀正しさに思わず感動してしまうような仕事、つい「かっけー!」とつぶやいてしまうこの仕事は、テッセイに勤務するみなさん自身が、プライドをもって取り組んでいるものだ。だからこそ、かっこいい。
 どんなに華やかな職についていても、それが自分だけの利益や、自己保身、自己顕示のためだけであるとき、きっと周りの人は尊敬を念はいだかない。
 逆に、普通の人がやりたがらない仕事でも、いやそういう仕事の場合であればなおさら、真剣に取り組んでいる仕事ぶりを目にすれば感動し、頭が下がる。


 ~ テッセイという会社は「普通の会社」です。やっている仕事の中心は清掃作業。けっしてあこがれの仕事ではありません。働いている人たちも、バリバリの高学歴エリート社員はほとんどいません。複雑な人生を背負い、ようやくテッセイに辿り着いた人も数多くいます。 … テッセイという会社の輝きを根っこで支えているのは、「リスペクト」と「プライド」です。(遠藤巧『新幹線 お掃除の天使たち』あさ出版) ~


 かっこいい仕事というのはない。かっこよく働くかどうかだ。

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転機

2012年11月21日 | 日々のあれこれ

 田中達也の戦力外通告も、昔春亭銅ら美ちゃんの二つ目昇進も、人生の大きな転機だが、自分にとって阿井監督の日本ハムへの転出はおどろいた。正直寂しい。寂しいがどうしようもない。「先生、ちょっといいですか? こんど日ハムへ行くことに … 」「ええ! ほんとですか」「いろいろお世話になりました、先生の学年だより、今後話のネタにつかっていいですか」「そんなの、すきにしてください。野球部の子たちには、話したんですか」「はい。すいません応援もきてもらってて。いろいろ悩んだんですが … 」「先生、大変でしょうががんばってくださいね … 」と先日話してて、今日の新聞の扱いの大きさにおどろいた。
 それはそうだろうなあ。たとえば自分ならどういう状況だろう。N響から「来シーズンの定期ふってもらえますか、先生のふりすぎない指揮が好感なので」とオファーをもらうようなものだろうか。劇団四季さんから「スイングレンジャーをミュージカル化させてほしい、演出もお願いします」と依頼されるようなものだろうか。
 あっ、でもちがうな。自分は阿井先生みたくもともとプロだったわけではないのだった。
 じゃあ、駿台さんから「来季、東大選抜クラスの国語チーフお願いします」と言われるようなものかな。「知性あふれるギャグが評判なので」と。断れるかなあ(だから、来ないって! そんな話)。
 いちばんショックなのは野球部員たちであることは間違いない。話を聞いていたのに、学校全体にその話題が出てなかったのは、それだけ監督との信頼関係がしっかりしているからだろう。そんな彼らなら、きっと自分たちでさらに成長できるはずだ。来夏のコンクールの時期は、甲子園も想定しながら練習計画たてよう。
 人生にはいろいろある。何が正しく、何が幸せなのかは、やってみないとわからない。
 いや、やってみてさえ、わからない。自分が選んだ道を、もしくは自分に与えられた役割を、一生懸命こなしていくことがすべてだ。

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